第431回:革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻(雨宮処凛)

第431回:革命バカ1代、塩見孝也、死す。の巻

 塩見さんが死んだ。

 塩見孝也。1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕。獄中20年。89年、出所。晩年はシルバー人材センターの紹介で東京・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人をしていた。享年76歳。11月14日、心不全のために亡くなった。

 塩見さんとの付き合いは、もう20年にもなる。

 出会いのきっかけは、私が23歳の頃、ロフトプラスワンに「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことだった。なぜわざわざそんなイベントに行ったかというと、当時の私は生きづらさをこじらせていて、近い過去に政治とかに怒って火炎瓶とか投げまくってた「政治の季節」に多大な関心があったからである。

 翻って、自分の周りを見ると、半径5メートルの世界で消費活動だけしてろ、という空気の中、政治や社会に関心を持とうものなら「ヤバい奴」扱いされるという圧力に満ちていて、なんだかとっても息苦しかった。そうして自分自身はと言えば、リストカットをしては生きづらさを誤魔化すという、これまたショボいことばかりしていて、そんな自分が大嫌いだった。

 私が生まれる前、「国家」とかと命懸けで闘ってた人の話を聞いたら、何か生きるヒントが得られるのでは。そうして訪れたイベントで、塩見さんは初対面の私を突然北朝鮮に誘ったのだった。なんでも、北朝鮮には70年に飛行機をハイジャックして平壌へ飛び立った「よど号グループ」なる赤軍派の同志がいるということだった。元赤軍派議長に、国際指名手配犯に会うための北朝鮮旅行に誘われる。こんなブッ飛んだ誘い、OKするしかないだろう。「行きます!」。何も考えずに、私は即答していた。

 そして99年、私は生まれて初めての海外旅行で北朝鮮に飛び立った。

 塩見さんも含めた数人で成田空港から北京に飛び、北京の朝鮮領事部で手続きをし、翌日、平壌へ。なぜか北京で花を買って、北朝鮮に着いたら真っ先に金日成の銅像に献花をし、よど号グループの招待所で、自分の父親と同世代のよど号グループと会った。

 その招待所で寝泊まりしながら連日、「金日成の生家」や「人民大学習堂」や「革命博物館」など、思想教育のような観光日程をこなした。「食糧難」や「餓死」が報じられていたのに北朝鮮で出される料理はどれも豪華で、案内役としてずっとついている朝鮮労働党の人には「日本は資本主義で、金に追われてばかりの生活で可哀想」と同情されたりして、連日、脳の許容量を越えることばかりが起きた。観光で行った幼稚園では園児がなぜかみんなフルメイクで「主席を讃える歌」を完璧に歌い踊り、あまりにも頭がクラクラしたことからその辺りで思考を停止した。

 よど号グループには私と同世代の子どもがたくさんいて、彼女たちと仲良くなった私は、合計5回、北朝鮮に通うことになる。そうしてよど号の子どもたち三人が日本に「帰国」する際には平壌まで迎えに行き、しばらく私の家に滞在していたりもした。そのようなことが原因で02年にはガサ入れが入ったりしたのだが、私は塩見さんが北朝鮮に誘ってくれたことに、今でも深く感謝している。ただのフリーターで、この先どうやって生きていくかさっぱりわからなかった私に初めて「世界」を見せてくれた人だからだ。

 初の北朝鮮行きから半年後、私は2度目の海外旅行でイラクに行くのだが(今度は一水会の木村三浩氏に誘われて)、北朝鮮行きがなければ、決してイラクに行こうなんて思わなかったはずだ。日本という島国から、まったく価値観の違う国に行ったことは、私のその後の人生に大きな影響を与えた。それからいろいろな国に行き、価値観の違う人たちと話すことが大好きになった背景には、間違いなくこの経験がある。

 そんな塩見さんとは03年、共にイラク・バグダッドを訪れた。私にとっては2度目のイラク。時はイラク戦争一ヶ月前で、外務省から出ている「邦人避難勧告」を振り切り、数十人でオランダを経由してヨルダンから陸路でバグダッド入り。開戦一ヶ月前のイラクで「ここに爆弾を落とすな」と反戦デモをし、多くのイラク人と交流した。そんなイラクで、塩見さんが「日本の赤軍派議長」であることを告げると、日本赤軍の岡本公三人気が異様に高い中東ではやたらと感激されたことも覚えている。

 だけど、私はそんな塩見さんと一緒の飛行機に乗ることがちょっと怖かった。「撃ち落とされるのではなか」という不安があったからだ。実際、日本のレッドアーミーの塩見孝也がイラク入りするということで、イスラエルのモサドが動いてるとか動いてないとか、そんな嘘かほんとかわからない話もあった。

 塩見さんとの付き合いはこの20年間ずっと続いていたのだが、特に06年から、私が反貧困運動を始めたことには大変喜んでくれた。60年代からなんでもかんでも資本主義のせいにしてきた塩見さんにとって、私が労働・貧困問題に「目覚めた」ことは自分の影響だと思ったのかもしれない。以後、塩見さんは「共に闘おう、そのためにまず打ち合わせをしよう」という電話やメールを頻繁にしてくるようになった。

 が、ちょうどネットカフェ難民などの「若者の貧困」が注目された当時、「元赤軍派議長と一緒に反貧困運動をする」ことは、リスクでしかないことは明白だった。しかも、私たちが求めているのは、一言で言うと「生きさせろ」ということ。が、塩見さんは明らかに「世界同時革命」を求めていて、労働・貧困運動はその「手段」でしかないことは話していて明白だった。

 「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。が、この時、私は心の中で決意した。絶対に、自分のことを「左翼」などと名乗らないでおこう、と。

 一時期右翼だった私が貧困問題に取り組み始めたことで、当時、やたらと「左傾化した」「左翼になった」と言われていた。とりあえず便利なので使っていたその言葉だったが、左翼に「なる」にはマルクスを読破するなどの「資格」が必要なようなのである。そんな七面倒臭いものならこっちから願い下げだ。その点、右翼はある意味寛容だった。「日本が好き」とか、そんなゆるふわな感じで今すぐなれるし必読図書もない。

 このように、塩見さんには面倒臭いところがあり、私は時々ちょっとうんざりしていた。

 が、そんな塩見さんに大きな転機が訪れたのはその直後のことだ。シルバー人材センターの紹介で、清瀬のショッピングセンターの駐車場管理人となったのだ。60代半ばにして、「労働者」になったのである。思えば、それまでの塩見さんは「労働者が」「人民が」と言いながらも、この国の労働の実態を、ほとんどわかっていなかったように思う。しかし、自らが時給制で働き始めたことによって、明らかに変わった。大文字の、頭の中で考えた「労働者諸君」ではなく、自身の労働経験から矛盾を感じたことを発信するようになったのだ。

 そんな塩見さんに労働相談を受け、組合を紹介したこともある。一時期は本気で「シルバー人材センターユニオン」の結成を考えていたし、それは私も熱烈に応援した。が、そんな打ち合わせの席でも塩見さんが口にするのは「シルバー人材センターの労働運動を盛り上げて、最終的には世界同時革命を!」という言葉。この人、全然懲りてないな…。21世紀になっても本気で「革命」を目指すその姿に驚きつつも、塩見さんは前に比べればずっと「地に足のついた」活動家になっていた。

 塩見さんとの最後の「祭り」は、この連載の第334回「『獄中二十年』の選挙戦」で書いた清瀬の市議会選挙。15年、なんと無所属で市議に立候補したのだ。選挙最終日、応援に呼ばれたので駆けつけると「獄中二十年」「赤軍」と書かれた旗や大きな幟があり、それを見た瞬間、「落選」を確信した。が、みんなで「赤軍」の旗を先頭に、街を練り歩き、叫んだ。

 「獄中20年の確かな実績、塩見孝也です!」「赤軍派もいる明るい清瀬!」「清瀬から世界同時革命を!」「元赤軍派議長、今は駐車場管理人、塩見孝也をよろしくお願いします!」

 もちろん、選挙は落選した。

 塩見さんとの思い出は数えきれないほどあるけれど、印象深いのは、晩年の塩見さんの周りには、いつも「生きづらさ」を抱えた若者たちがいたことだ。2010年、突然「生前葬をやる」と言い出し、本当に開催した際には、長年ひきこもりだった若者が、塩見さんを歌った「オレは駐車場管理人」という自作のラップを作って披露。それ以外にも、不登校だったり、リストカットの経験があったりという若者がいつも塩見さんの周りには集まっていた。

 なぜ、「世界同時革命」とか言ってる元赤軍派議長の周りに若者たちが嬉々として集まっていたのか。もともとは私自身もその一人だったわけだが、それは「塩見さんの近くにいると、自分の悩みがどうでもよくなる」という作用があったからだ。

 前回の原稿で、自分の「死にたかった頃」の話を書いた。同じように「死にたい」と口にする多くの人との出会いが私を生かしてきたわけだが、塩見さんとの出会いも、確実に私の「死にたい」気持ちを脱臼させた。

 獄中20年で、個人で破防法適用とかされて、いまだに「世界同時革命」とか口にする塩見さん。その存在は、私の中に根深くあった「ちゃんと生きなければならない」という気持ちを一瞬で霧散させるものだった。なんだ、こんなメチャクチャな生き方してもいいんだ。一生「革命」とか、中2病みたいな感じで生きてていいんだ、と。

 しかも塩見さんは、何かあればすぐになんでもかんでも資本主義のせいにする。そのことは、生きづらい若者たちにとって大きな「免責」を与えてくれた。他の大人たちは、勇気を出して悩みを相談したところで、みんな「自己責任」とか「お前の努力が足りないんだ」とかそんなことばかり言うけれど、塩見さんはどんな状況の若者に出会おうとも、「それは資本主義のせいだ!」と断言していた。元赤軍派議長に、お前の生きづらさの原因は資本主義だとお墨付きをもらう。これほど強烈な「癒し」を、私は他に知らない。

 が、常々、私は心のどこかで「塩見さんが自分のお父さんじゃなくてよかった」と思っていた。ちょうど親子世代で、塩見さんには私と同世代の息子がいることは知っていた。会ったこともないその息子に、勝手にずっと同情していた。だって、自分の父親が常に全力で反抗期だったら、どういう方向性で生きていこうか、いろいろと悩むはずだ。

 そんな塩見さんと遊びまくってきたこの20年間で、覚えているのは北朝鮮に行く途中の北京での食事の席のことだ。出てきた「アヒルの舌のスープ」は、強烈な悪臭を放ち、アヒルの舌が数百個浮いている見た目もグロすぎた上、一口啜ると「おじいさんの唾液を煮詰めた」ような味がした。全身が震えるほどマズく、その場にいた誰もがまったく箸をつけられなかったそれを、塩見さんは「そんなに不味いかー? イケるぞ」と言いながら平気な顔で食べていたのだ。聞けば、母親が料理があまり上手くなかったとのことで、刑務所の食事も全然平気だったという。そういう人だからこそ、獄中20年を生き抜くことができたのだろう。

 ああ、それにしても、本当に好き勝手に生きた人だった。しかも、たったひとつの理想を、死ぬまで追い求め続けていた。そして本人の意図とはまったく別のところで、多くの生きづらい若者を確実に救っていた。

 そんな塩見さんにもう会えないことが、やっぱりすごく、寂しい。

雨宮処凛
あまみや・かりん:1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)、『自己責任社会の歩き方 生きるに値する世界のために』(七つ森書館)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。