第444回:「なぜ、セクハラはいけないのか」という本質が理解されてないっぽいという大問題。の巻(雨宮処凛)

 財務省の福田事務次官が、セクハラを認めないまま辞任した。

 問題発覚当初、財務省はよりによって被害者に名乗り出ろなどと言い出して大きな顰蹙を買ったが、このように被害者を恫喝するような最悪の対処法を見ると、セクハラが力関係の問題であることがまったく理解されていないということがよくわかる。そんなことに悶々としていたところ、朝日新聞4月17日夕刊「オトナの保健室」で、田房永子さんが描いた漫画を読んだ。

 セクハラについての漫画で、田房さんは、セクハラをする人のことを「女のことは人間だと思ってない人」だと思っていたと書く。が、「こちらも人間なんです 人として扱ってください」と訴えるものの、反応は「? 大げさだなァ」というもの。そんな男性に対し、田房さんは「『人間扱い』する・されるの意味自体分かってない感じがする」と書くのだ。その次のコマには、男性の絵の上に浮かぶ「会社名」「立場」「学歴」「年齢」「男」「役職」などの言葉たち。そこで彼女はこう書いている。

 「実は彼ら自身が自分のことを 人間扱いしてないのではないだろうか」「性別とか年齢とかの『入れ物』に沿って生きる、それが人生だと思ってる人に注意しても通じない…」

 この描写を読んで、長年の謎が鮮やかに解けた気がした。そうなのだ。私自身もセクハラなどについて、オジサン世代の人たちに嫌だと訴えたことがある。しかし、一部のオジサンは、本当に心の底から言葉が通じない。「自分より若い女」の訴えなどそもそも「動物の鳴き声」「川のせせらぎ」程度にしか感じておらず、意味のある言葉だと認識すらしていないっぽい。

 「傷つく」とか「本当にそういうことをされたくない・言われたくない」などと言ってもまったく理解されず、へらへら笑って「カタいこと言うなよ」なんて言葉で終わらされる。それがあまりにもナチュラルなので「本当にバカにされているんだな」と思っていたのだが、彼らにはそもそも「人間扱い」の意味がわかっていないのではないだろうか。

 そんなことを考えて、ある人を思い出した。それは、団塊世代のある男性。私が子どもの頃から家族ぐるみの付き合いがある人で、親戚ではないが両親と長いかかわりがある。もうこの何年も会っていないがたまに実家に戻ると顔を合わせる人で、いつからか、私はその人のことを心の中で「合理性ロボット」と呼ぶようになっていた。子どもの頃は、おこづかいをくれる優しいオジサンだと思っていた。しかし、大人になるにつれ、違和感がどんどん大きくなっていった。とにかく行動や思考にまったく無駄がなく、合理性と効率と費用対効果のみで動いているのだ。

 仮にA氏とするが、まず、A氏は人間を肩書きでしか判断しない。例えば男性であれば、大卒でなきゃ価値がないと容赦なく切り捨てる。女性の場合は美人じゃなければ生きる価値がないというスタンス。一事が万事その調子で、自分が定めた基準に達しない人間は、当然のごとく人間扱いなどしない。また、行動も非常に合理的で、例えばみんなで食事に行こうということになり、誰かが「焼肉食べたい」と言い出して、「いいね、じゃあ焼肉行こう」ということになった瞬間、A氏は「合理性」を炸裂させる。その場にいた子どもたちが「わーい焼肉!」とはしゃいでいようが飛び跳ねていようがそんなことはお構い無しに「焼肉は服に匂いがつくから嫌だ」と言い張るのだ。それで子どもが泣こうが喚こうが関係ない。みんなの気持ちなんかより、「自分の服に焼肉臭がつかない」ことが何よりも大切なのだ。自分の合理性に従わない者を、瞬時に笑顔で射殺できるタイプなのである。

 極め付けは、A氏の親が亡くなった時のことだった。私の家族も付き合いがあったのですぐに駆けつけたところ(私もたまたま実家にいたので駆けつけた)、A氏は自分の親が死んだ日だというのに、ほんの少し実家に顔を出しただけで「じゃ、帰るわ」とすぐに帰り支度を始めたのだ。え、もう? そこにいた誰もがそう思った。特に田舎には必ずいる「葬式の経験値が高いオバサン」などは「夜中じゅう線香の火を絶やさない寝ずの番は誰がやるのだ」と怒り心頭。他の人も「そりゃ、明日からお通夜とお葬式で忙しいけど、もう少しいたって…」と言うと、A氏はまったく悪気のない感じで「寝ないで風邪ひいたら大変だから。あとは任せたから」と言って本当にとっとと帰ってしまったのだ。おい、ここで死んでるのお前の親だぞ。しかも死んだの今日だぞ。その場にいる全員がそう思ったが、息子であるA氏より関係が薄い人たちが残され、線香の番を始め、葬儀の準備関係の雑事に追われる役目を押し付けられたのだった。親との関係が悪かったとか、そういうことではない。ただ本当に、親の死なんかよりも「自分が風邪をひいてしまったら大変」という思いの方が強かったのだ。

 そんなA氏は人当たりは良く、社会的にもそれなりの成功を収めていて、子どもの頃の私が「優しいオジサン」と勘違いする程度には一見無害だった。が、とにかく合理的でないことは大嫌いで、そこからはみ出す者がいようものならやはり即射殺、という冷徹な一面を隠し持っている。が、よくよく考えてみると、A氏のようなオジサンはこの社会にかなりの数、生息しているのである。

 例えば私の周りには、ひきこもりや生きづらさをこじらせた人などが多い。そんな人たちに親についての話を聞く機会も多いのだが、彼ら、彼女らの親にはA氏のようなタイプがものすごく多いのだ。共通するのは、「子どもに数字しか求めない」という点。クラスで何番以内、学年で何番以内、テストで何点以上と要求は常に明確に数値化され、場合によっては「前年比◯%アップ」みたいな目標まで設定されている。そう、企業社会とまったく同じなのだ。が、企業の目的は営利活動だからそれでいいが、子育てにそれを持ち込むとどうなるか。企業では給料アップや出世などが「褒美」となるが、親子間でそれをやると「親の望む通りに成績を上げられたら愛情をやる」という形で「愛」が取引の道具にされてしまう。

 そんな中で育つと、「相手の言いなりになるなど、なんらかの条件を満たさないと/苦行に耐えて結果を出さないと愛してもらえない」ということが刷り込まれるので、当然子どもはマトモな自己肯定感など持てない。自分の存在を無条件に肯定されずに育てば、条件つきでなきゃ存在してはいけないという前提が常に付きまとうので生きづらさが緩和されることはなかなかない。その上、その手の親は「いい学校に行けない」「働けない」「稼げない」「結果を出せない」子に対しては容赦ないので断絶はより深まっていく。そんなことを考えるとA氏の子どもたちが心配になってくるが、やはりここまで書いたようなことを要求しまくった結果、ある時期からA氏が決して子どもの話をしない様子を見ると相当いろいろとあるのだろう。

 しかし私は、A氏は決してセクハラなどはしないと思う。なぜなら、合理的なので自らのマイナスになるようなことはしないからだ。社会的制裁を受けるからしない、キャリアを失う可能性があるから絶対にしない、「悪いこと」とされているからしない、コンプライアンスとかにうるさい世の中だからしない。そこには、「なぜ、セクハラをしてはいけないのか」という視点がすっぽり抜け落ちている。なぜ、セクハラやパワハラをしてはいけないのか、そこからそもそもわかっていないし考えようという気などない。当然、相手の気持ちなんて論外だ。

 財務省のセクハラ問題への対応は、これとまったく同じ構図に見える。だからこそ、相手の気持ちを一切無視するような「名乗り出ろ」なんて言葉が出るのだ。それにしても、なぜ、日本の企業社会や政治の世界に過剰適応してしまった一部男性がここまでナチュラルにブッ壊れているのかと思うと、それはやはり彼らも人間扱いされてこなかったからで、そう考えると問題の根深さに頭を抱えたくなってくる。

 さて、そんな男性たちが多くのことを勝手に決めるこの国では、4月から小学校で道徳が教科化された。人を思いやる心とか、優しさとか、なぜいじめをしてはいけないのか、なぜ嘘をついてはいけないのかなどを子どもに学ばせ、正式な教科として成績がつけられるのだという。

 これこそ、現在の財務省や一部政治家、嘘に嘘を重ねる某首相とその周辺、セクハラがなぜいけないのかわかってないオジサンなどに学ばせるべきではないのか。「評価」の対象になり、成績がつくといえば、彼らの頑張る動機にもなるだろう。そんな教科書なら、原稿料なしでもいいから書きたいくらいだ。

 セクハラ問題は、今後も様々な形で表面化し、そのたびに嫌というほどの無理解が露呈するだろう。私たちは、途方もない断絶の世界を生きている。日本語が通じているから意味も通じてると思ったら大間違いなのだ。まず、その前提を共有するところから始めないといけないのが悲しすぎるけど、ほんとにその辺からしか進まないんだろうな、と日々の報道を見て再確認している次第だ。

『「女子」という呪い』の出版記念イベントを開催予定です! 5月22日夜、都内。なんとゲストは北原みのりさんと、この原稿で紹介した漫画家の田房永子さん。詳細は追ってお知らせしますが、ぜひご参加を!

福田事務次官に熱烈にオススメしたい『「女子」という呪い』

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。