第65回:カンヌ映画祭とネットフリックスの攻防から見える「映画」の危機(想田和弘)

 今年のカンヌ国際映画祭と言えば、是枝裕和監督の『万引き家族』が最高賞であるパルムドールを受賞したことや、濱口竜介監督『寝ても覚めても』がコンペ入りしたことなどが話題だったが、その陰で気になる出来事があった。ネット配信大手のネットフリックスが、製作した作品のカンヌ映画祭への全面不参加を決めたという「事件」である。

 ネットフリックスは、今や日本を含む190以上の国で配信サービスを展開する地球規模の巨大企業である。会員は1億2000万人を超えると言われている。

 その潤沢な資金を活用し、最近では人気監督やスターを起用した大作を自社で製作し、映画館での劇場公開と同時に、いや、時には劇場公開を一切せずに配信している。彼らの主戦場は映画館ではなく、ネット配信にあるからだ。

 これに対しカンヌ映画祭は今年から、「フランスで劇場公開しない作品はコンペティション部門に参加できない」という新しいルールを設けた。ネットでしか配信されない作品は“映画”ではない、という認識なのであろう。これに反発したネットフリックスが、自社の作品の映画祭参加をボイコットしたわけである。

 いよいよ、あのカンヌをボイコットできるまでに、ネットフリックスは力を持ってしまったのか……。それが僕が抱いた最初の感想である。

 というのは、カンヌは良くも悪くも、世界の映画界の最高権威である。これまで映画製作者や配給会社は、嫌な言い方だが作品をカンヌに選んでもらうことで「箔づけ」し、宣伝に活用しようとしてきた。カンヌに選ばれるために、熾烈な競争をしてきた。カンヌに作品を拒絶されることはあっても、制作側からカンヌを拒絶することはあり得ない。それが常識だった。というより、そうならざるを得なかったのだ。

 そういうカンヌの鼻がへし折られることに、面白みをまったく感じないと言えば嘘になる。しかし同時に、このままネットフリックスが力を強めていったら映画館は絶滅してしまうのではないかと、まったく楽しくない未来をも想像してしまう。なぜならカンヌの方針は、実は「映画館で映画を観る」という文化を守るためのものでもあるからだ。

 だって考えてみてほしい。

 カンヌ映画祭のコンペ部門に参加する作品と言えば、ある意味、世界の映画の基準=スタンダードを定める作品だ。それらが劇場公開されなくなったら、あらゆる映画が劇場公開されなくなっても不思議ではなくなる。それが本当に良いことなのかどうか。

 フランスの法律では、劇場公開から3年間経たないとネット配信できないと定められている。それを「厳しすぎる」「自由な経済活動を妨げている」と批判する声も聞かれるが、ネットフリックスのように劇場公開と同時にネット配信を始めてしまったら、映画館の客が大幅に奪われて、「映画館で映画を観る」文化がますます廃れてしまうのは想像に難くない。下手をすると、映画館は本当にこの世から消えてしまいかねない。

 僕は「映像作家」ではなく「映画作家」を名乗っている。それは僕が作ろうとしているのは「映像」ではなく、「映画」だからである。

 では何が映像と映画を分けるのか。

 それは「映画館で観ることを前提としているかどうか」である。ほとんどすべての映画がデジタルで撮られている今、フィルムで撮られているかどうかは映画の定義とは関係ない。「映画館の暗闇で、大勢の人々が1つのスクリーンを見つめ続ける」という形態こそが、映画という芸術様式の核心にあると思う。つまり僕の定義では、配信だけを前提に作られた作品は、「映像」ではあっても「映画」とは言えないのである。

 「映像」にはないけれども、「映画」にあるものとはなにか。

 それは僕が「交感」と呼ぶ現象である。

 みなさんにも経験がないだろうか。映画館の暗闇で映画を観ながら、お互いの表情など見えずとも、喜怒哀楽が互いに伝染することを。誰かの笑い声で、自分一人で観ていたら気づかぬようなユーモアに気づいたりすることを。映画館で映画を観るという行為には、「他者との交感」があるのだ。

 おそらく人類という生き物は、その誕生とほぼ同時に、「大勢の他者と集って何かを楽しむ」という行為を始めたのではないかという気がしている。まずは演劇という形で。あるいは音楽や舞踊という形で。そういう行為のひとつのバリエーションとして、近代になって「映画」も生まれたのであろう。つまり映画には人類学的な意味があるはずなのである。

 6月9日(土)からは、新作『港町』に加えて、もう1本の新作『ザ・ビッグハウス』が日本で劇場公開される。11年前に『選挙』を公開して以来、9本目の「観察映画」を劇場に送り出そうとしているわけだが、年々、劇場に人を呼ぶことは難しくなりつつあると肌身で感じている。たいていの劇場は経営的に苦しく、いつ倒れてもおかしくない劇場も多い。このままでは、「映画」の発表の場が本当になくなってしまうかもしれない。

 そんな風に思う僕だから、カンヌが「頭が固い」だの「時代遅れ」だの「抵抗勢力」だのと批判されていても、「やっぱりあなた方には頑張ってもらわないと」と応援したくなる。「ネットフリックス問題」は、映画館にとって、いや、映画館で映画を上映したい製作者や、映画館で映画を観たい観客にとっても、実はかなりの死活問題だと思っている。

想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。