多分、ハズレなしの読書案内 〜2018年夏休み編〜

猛暑が続くこの夏、家でじっくりと読書やDVD鑑賞はいかがでしょうか? マガジン9スタッフ&ボランティアによる「多分、ハズレなしの読書案内」。憲法のこと、沖縄のこと、経済のこと……私たちの社会を考えるヒントになるような本や映画をピックアップして紹介します! 今週は合併号として、来週8月15日(水)の更新はお休みです。この機会にぜひどうぞ。


『「右翼」の戦後史』(安田浩一著/講談社現代新書)

「右翼」の現状を再認識仲松亨徳

 マガジン9読者には縁遠く感じられる「右翼」を概観した書である。とはいえ、旧弊な国士然とした右翼から街宣右翼を経てネトウヨまでそのイメージは様々だ。マガ9でもお馴染みの鈴木邦男さんもこの本に登場する。そう、鈴木さんも「右翼」人士の一人なのだ。

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 戦前も含めた右翼の人物や団体、事件や運動などを、著者の安田さんは丁寧に追う。それによって浮き彫りになる右翼の考えと思いの間口は思いのほか広く、ひと口で「右翼とは」と言えないほどだ。

 しかし、本の後半で日本会議につながる「背広を着た右翼」や右傾化の尖兵たるネトウヨに筆が及ぶとその多様さは一気になくなる。他者への軽侮をベースにしているからだろうか。安田さんはこう書く。「嘲笑と冷笑、そしてヘイトスピーチ。差別と偏見をむき出しに『敵』を次々に発見しては個別に撃破していく。ネット出自の日本版『極右』は、各所で今日も暴れまくっている。」

 軍服や特攻服でなく「背広を着た右翼」が地道に教宣を続け、ネットの世界で他者への軽侮を振りまくネトウヨが跋扈する現在、差別のハードルはかつてないほど下がっている。右派の思想は他者や他国を見下すことではないはずだが、おぞましい「右翼」の現状を再認識せざるを得ない。

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『キジムナーkids』(上原正三著、山福朱実 イラスト/現代書館)

ウチナーグチを駆使した、切なくも明るい自伝的小説鈴木耕

 昨年6月の発行で、少し古いけれど、『キジムナーKids』を大推薦。

 著者は、著名なシナリオライターで、1937年沖縄出身、齢80歳を超えている大長老作家であり、「ウルトラマン」シリーズなどを手掛けた方。その上原さんが、自分の少年時代を題材に書き下ろした。悲惨な戦争と、その後を生き延びる子どもたちを、ウチナーグチ(沖縄の言葉)を駆使して描いた切なくも明るい自伝的小説である。

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 なお、この作品は、児童文学の最高峰「坪田譲治文学賞」を受賞したほどで、高い評価を受けている。

 ぼくのような沖縄フリークであり、しかも少年もの小説にはめっぽう涙腺を刺激される者にとっては、ほんとうに最高の作品だ。

 ようやく戦争が終わり、疎開先の熊本から沖縄へ戻って来たボクが見たのは、変わり果てたふるさとと、知り合いたちが居なくなり、破壊され尽くした村だった……。

 タイトルの「キジムナー」とは、沖縄伝承の(かわいらしい?)妖怪で、ガジュマルの木などに棲息するとされているが、ハブジロー、ポーポー、ベーグァ、サンデー、ハナー(ボク)、それに5歳のボクの弟クンたち少年少女は、まさにそのキジムナーのように、荒れ果てた島を駆け回る。そして「戦果」を米軍からかっさらうのだ。「戦果」という言葉が、沖縄ではこのように使われていたとは、ぼくは知らなかった。

 すばしっこくたくましい少年たちの姿が、これでもかこれでもかと描かれる。ハックルベリー・フィンも真っ青なくらいの行動力と面白さなのだ。その走りっぷりはかわいらしくも明るいけれど、彼らが抱え持った戦争の悲惨が、やがて少しずつ明らかになって、ぼくの涙腺が盛大に刺激される。

 「メェヘッー」という山羊の鳴き声しか言葉を発しないベーグァや、学校へ行かない妙に大人びたサンデー、戦争で片腕を失ったポーポー、そしてフリムン(気が触れた人)軍曹の登場……。みんなが背負う戦争の影が、島の真っ青な明るい空の彼方に湧く黒雲のように、いつでもそこにあるのだ。

 大人たちだって、それぞれが大きな傷を抱え持っている。だから、大人も子どもたちも、同じ地平で語ることができるのだ。

 そして、少しずつ時が過ぎ、やがて少年たちも別れを迎える……。

 後に紹介する『宝島 HERO’s ISLAND』とあわせて、この2点の小説は、「傑作」という言葉に値すると思う。

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『手話を生きる』(斉藤道雄著/みすず書房)

手話から考える、「少数」と「多数」井川櫂

 この本を手にとったきっかけは、2018年10月に公開される映画『ヴァンサンへの手紙』だった。この映画は、一緒に映画を作ろうと話していたろう者の友人・ヴァンサンが自ら命を絶ってしまったことから、聴者である映像作家のレティシア・カートンが「ろう者がなぜこの社会のなかで生きづらいのか」、「ろう者の存在を知らせたい」と制作したドキュメンタリーだ。

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 百年以上にわたって、手話はろう者から取り上げられ、口話教育を第一とする教育がとられてきたという。日本も例外ではない。この映画でもそうした状況が見えてくる。でも同じくらい強く印象に残ったのは、少数言語としての手話、ろう者の文化、世界の豊かさだった。手話で会話をする人たちの姿を街中で見かけたことは何度もある。でも、何も知らなかった。驚きと焦りで、まずこの本を手にした。

 2016年2月に発行された『手話に生きる』は、ジャーナリストとしてマイノリティやろう教育などをテーマに取材を続け、手話で授業を行う日本初の私立学校の設立にかかわった著者によるろう教育の話。あくまで手話が第一言語で、第二言語として日本語を学ぶ。その内容と問題意識は、サブタイトル「少数言語が多数派日本語と出会うところで」によく表れている。テーマは手話だけれど、少数と多数が出会うとき、共生とは何を意味するのか、違いを認めるとはどういうことなのか……、社会のさまざまな課題に結びつけて考えるきっかけにもなった。秋に公開される映画もおすすめしたい。

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『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう レフト3・0の政治経済学』(ブレイディみかこ×松尾匡×北田暁大著/亜紀書房)

レフト3・0に必須の経済政策を考るべし水島さつき

 安倍政権の三選が取りざたされている。え? まさか? と言いたくなるが、モリカケ問題という決定的なスキャンダルがあっても現政権が持ちこたえたということは、もうこの先どんな事件が起きても、それが理由で崩壊することはない、と考えた方がいい。それよりも、なぜ、安倍政権の支持が続いているのか、いや、支持率は下がっているという人もいるが、かといって野党の支持が上がっているとは、とうてい言えない。躍進していると言われている立憲民主党の支持率だって10%に届かないのだから、その差はダブル・トリプルの差どころではないのだ。(自民35.6%、立憲5.6% /2018年8月NHK世論調査)

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 安倍政権を終わらせるには、野党が的を得た、「みんなのための経済政策」を打ち出すしかないのだろう。格差を縮め、みんなが幸せで、豊かな気持ちで自由で安心の生活が送れる経済政策。具体的には、消費税増税はやめ、財政出動を積極的に推し進める、財政緊縮反対の経済政策であるが、それをなぜ、野党は言えないのか? 森永卓郎さんが、マガ9の連載コラムでも再三の指摘を続けてきたことであるのだが…。

 野党が反緊縮の経済政策を打ち上げるには、やはり左派市民がその気運を先導する必要があるのだが、どうもそのような傾向も日本国内にはない。それどころか最近は、「消費税で公平な税負担をし、みんなで支え合うオールフォーオールを」という、一瞬聞こえはいいが、私としては絶対に賛成できない経済政策を唱えている人たちがいて、すごく心配にもなっている。

 そんなところに待望の本書である。マクロ経済学者の松尾匡さん、社会学者の北田暁大さん、英国在住の保育士であり、コラムニストのブレイディみかこさんの鼎談は、「日本の左派は、なぜ、“経済のデモクラシー”を言わないのか」という問いから始まっている。とにかく、マガ9読者には、一読してほしい。

 ブレイディみかこさんの「はじめに」は、こちらからも読めるので、まずはここだけでも読んで、ガツンと頭を殴られてほしい。

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『宝島 HERO’s ISLAND』(真藤順丈著/講談社)

沖縄の少年少女の波乱万丈物語鈴木耕

 この夏のぼくのイチオシは、なんといっても『宝島 HERO’s ISLAND』である。沖縄フリークを自認する人たちだったら、こりゃたまらん! と舌なめずりすること必至。『宝島』というタイトルに騙されてはいけない。あのスティーブンソンの少年海洋冒険物語ではない。これは、ウチナーキッズたちの、激しい闘いの物語なのである。

 地上戦がやっと終わって間もない沖縄。

 この島の支配者は、むろんアメリカーであった。そして支配の象徴が、巨大で豊かな物資に溢れる米軍基地。

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 支配には反抗がつきもの。それも、沖縄の反抗者たちは一筋縄ではいかない若者たち。彼らは「戦果アギヤー」と呼ばれたが、それは島民すべての希望でもあった……と、この物語は始まるのだ。

 いやはや、血沸き肉躍る、という旧い表現がズバリの大活劇も展開されるが、その奥に沖縄の苦しみや嘆き、そして厳しい現実と闘いが混然、ページを繰る手が止まらないのだ。540ページもの大作だが、徹夜必至の一気読み本なのだった。

 「戦果アギヤー」とは、基地を襲い米軍の豊かな物資を徴発してきては、飢えている島民へ分け与えるという、言ってみれば「義賊」なのだ。その中でも伝説の「戦果アギヤー」がオンちゃんと呼ばれる若者。この物語は、そのオンちゃんと彼の恋人ヤマコ、オンちゃんの親友グスク、オンちゃんの弟レイの3人のそれぞれの生き方をめぐって展開されていく。この少年少女たちの成長物語としても絶品である。

 しかも、若者たちの生き方の背景には、沖縄の厳しい歴史が、痛いほどのリアリティをもって投影される。沖縄の3人の抵抗者たちの行く先は、警官であり教師であり、そしてヤクザとも共闘する米軍へのテロ攻撃。いや、これをテロと呼ぶべきかどうか、ぼくには分からない……。

 本土から来た日本人諜報員の、残酷なまでのアメリカーへの屈辱的奉仕。アメリカーの諜報員の暗躍。対抗する島民たちの、本土復帰への闘いと、ついにはコザで勃発する“暴動”。

 瀬長亀次郎や屋良朝苗ら実在の人物も登場し、物語は狂おしいほどの熱を帯びてクライマックスへ突入していく。

 伝説の「戦果アギヤー」のオンちゃんの行方は? というミステリじみた展開もあるし、切ない少年ウタの切なすぎる最期も読みどころ。

 これほど熱い小説は、近来稀だろう。暑い夏には、こんな熱い小説に“熱中”するのも、熱中症対策の奥の手である。

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『手塚マンガで憲法九条を読む』(手塚治虫著、小森陽一解説/子どもの未来社)

漫画の神様が描いた戦争と平和水島さつき

 漫画の神様といえば、私の世代にとっては、間違いなく手塚治虫氏である。

 治虫氏が、青春時代は戦争一色の中で過ごし、勤労動員で凄まじいシゴキにあいながらも、こっそり隠れて漫画を描いていたのは、よく知られている話である。『紙の砦』(週刊少年キング・1974年)の主人公は戦争が終わったのを知った時、「これで思いっきりマンガをかいてやるぞっ!」と大喜びするが、それは治虫氏そのものである。

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 そんな治虫氏は、戦争や平和をテーマに数多くの作品を残しており、その中でもベトナム戦争以降に描かれた6つの短編を選び、小森陽一氏が憲法9条的な視点から解説をつけたのが、この本である。

 とりわけ今にもつながる問題提起だと感じるのは、アトムを主人公にした『アトム今昔物語 ベトナムの天使』(サンケイ新聞・1967年秋連載)。日本でもベトナム反戦運動が高まっていた頃の連載だが、保守メディアも含め反戦ムードを作り出し、体制を批判していたことには、ちょっとした驚きを持った。しかしメディアというのは本来そういうものだろう。

 それにしても、ハッとさせられる表現や言葉が続く。戦争放棄をした「戦争のない国」からきたアトムは、「戦争なんて大きらいだからやめさせようと思ったんです」と、まっすぐだ。しかし「このロボットは言うことをよくきく奴隷、便利な新兵器。アメリカ海軍に新兵器として売られたんだ」と米軍人のセリフがその矛盾をつく。また機銃掃射を受けて、生まれたばかりの赤ちゃんまで皆殺しにしてしまう米軍の「ジェノサイド」も、漫画を使って新聞紙面で告発している。この作品の解説のページで小森氏は「67年当時に、9条違反の日米安保条約の本質」を描いているとしているが、さて、漫画の神様なら2018年の日本とアメリカと世界を、どのように描くだろうか。

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『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』(吉田裕著/中公新書)

身体に訴えかける圧倒的リアリティ田端 薫

 女性ならだれでも一度は経験しているのではないだろうか。あのフットカバー問題である。先日も浅めのフットカバーをはいて出かけたら、歩いているうちに脱げてかかとに靴ずれができてしまった。痛い。一歩一歩が拷問のよう。這々の体で帰宅して靴を脱いで患部を見れば、ほんの豆粒程度の擦り傷である。これっぽっちであんなに痛いのだから、彼らの苦痛はいかばかりだったろう、とリアルに想像してしまった。彼らとはアジア太平洋戦争に従軍した日本軍兵士たち、この連想のきっかけを与えてくれたのが『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』(吉田裕著)である。

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 本書は310万人に及ぶ日本人犠牲者を出した先の大戦の実相を、徹底的に〈兵士の目線・立ち位置〉で描くことにこだわる。それも靴ずれとか虫歯、水虫など、勇ましい戦記物には決して出てこない些末な、けれど深刻な細部に着目する。

 たとえば靴ずれ。兵士たちは、30キロを超える荷物を背負って、灼熱赤土の道を1日20キロ以上も歩き続ける。「まず水疱状の豆ができ……それがつぶれる。皮はずるむけになり、不潔な靴下のため潰瘍となり……」。うっうっうっ…イタッ……。

 まともな軍靴が支給されていたうちはまだましで、戦況が悪化し、牛革が不足するようになると鮫の革が使われるようになる。ゴム底鮫革の靴でジャングルの泥道を行軍すれば、数日で破損する。やむなく地下足袋やわらじ、現地住民から略奪したつっかけでしのぐもののたちまち破れて、ついには裸足になる。裸足での行軍は急速に体力を奪い、栄養失調と相まって死に至る。「名誉ある戦死」とはほど遠い、「犬死」のリアル。

 靴があれば救われたかといえば、そうでもない。今度は水虫だ。戦場では靴を脱いで休む間もなく、ほとんど半年間も靴をはいたまま泥の中を這いずり回ったため、重度の水虫になり、戦後もずっと後遺症に悩まされたという話や、何日間も洗顔や歯磨きができず、虫歯が悪化しても歯医者はおらず、クレオソート丸を詰め込むか、抜けるのを待つしかなかったというエピソードなど、読むだけであちこち痛くなる。この身体感覚に訴えかける、綿密な調査に基づくリアリティが圧巻だ。マラリアや栄養失調の話だけでは伝わらない迫力が、本書の真骨頂だろう。

 実体験者が少なくなって、戦争のリアルが希薄になり、代わりに「祖国の平和を願い、愛するものを守るために犠牲になった命」とか「平和の礎となった先祖への感謝」など、平和と感謝の言葉で語られる昨今。右翼的な意味でなく、純粋に美しい話として無邪気に信じてしまう危うさ。そうした、歴史的経緯や背景を抜きに、一部を取り出して物語化する「歴史認識の脱文脈化」(井上義和・帝京大准教授)に絡め取られないためにも、戦争のリアルを徹底的に身体にたたき込みたいと思う。

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『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(梯久美子著/岩波新書)

「死」よりも後に置かれた「孤独」芳地隆之

 「死者は次兄の文彦であつた。上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れ物があり、そこから液体が流れ出てゐる。真黒くなつた顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでゐた」

 原民喜『夏の花』の一節。原と彼の家族や親戚が住んでいた広島に原子爆弾が投下された後、廃墟のなかを原と移動していた次兄が自分の息子、文彦の死体を見つけたときの描写である。次兄はその後、文彦の爪をはぎ、バンドを形見に抜いて、名札をつけてその場を去った。

 本書によれば、原の作品群のなかで『夏の花』は異質な部類に入るという。

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 「Ⅰ 死の章」で紹介される、原の子ども時代を回想する作品には、外界に対する怯えのようなものがつきまとっていた。それには少なからず父・信吉の死の影響があった。官庁用達の繊維商である原商店を創業した父は従業員たちをまとめ、社内の雰囲気は溌剌としていた。その父を失ったのは原が11才の時。少年の多感な感性が死と向き合ったことで生まれた結晶のような文学を原は書いた。

 「死」に続くのは「愛」(Ⅱ 愛の章)である。

 極端に内向的な性格の原を受け入れる妻、貞恵との結婚生活は彼にとって心のより所であった。貞恵が肺結核に侵され入院したのは日中戦争の始まりと同じ頃で、彼女が亡くなる1944年9月28日まで、原にとって貞恵を見舞う病室は戦時一色になっていく世相と隔絶された特別な空間だった。

 貞恵の死後、大きな喪失感を抱える原の目の前に広がったのが原爆による凄惨な光景である。廃墟のようになった地に横たわる無数の死体。かろうじて生き残った人間はといえば、火傷で膨張した頭を石の上に横たえたまま、「先生、カンゴフサン、誰カ助ケテ下サイ」と哀願する警防団の服装をした青年、両手と足を負傷し、ズボンが半分身体にくっついたフラフラの男、顔を黒焦げにして臥せている婦人たち――。

 そこで原は自分が見たもの、聞こえたものをできる限り正確に記録することが自分の使命であると考えた。そのため、これまで心象風景を書いてきた彼の文体が変ったのである。

 1951年3月13日に原は自ら命を絶つ。『夏の花』以降、彼の心のなかで何があったのか。戦後、原と同じ時間を過ごすことの多かった若き遠藤周作との交流には、言葉を超えた互いの理解を深める濃密な時間が流れていたようだ。そして、なぜ著者が「孤独」と評した章(Ⅲ 孤独の章)を「死」よりも後に置いたのかがわかる気がした。

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『まぼろしの「日本的家族」』(早川タダノリ著/青弓社ライブラリー)

崩壊した「伝統的な家族像」って、ナニ?西村リユ

 現代の日本社会では、家族が一緒に食卓を囲むことが減り、強い絆で結ばれたかつての「家族」のあり方が崩壊してしまっている……。こんな言説は、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。それだけ聞くとたいして違和感も覚えず、「そうかもね」とスルーしてしまいそうになるのだけれど、ではさて、その「かつての」っていつのことなのだろう。『三丁目の夕日』の時代? 戦後すぐのころ? それとも戦前…?

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 本書によれば、戸主制によって家族内の序列が存在した戦前は、食事中の会話は基本的にマナー違反。その名残が薄れて「家族の会話がはずむ楽しい食卓」なるものが登場したのは、1960年代後半ごろに過ぎないのだそうだ。「伝統的な」イメージのわりには、結構最近のことなのである。

 憲法に「家族条項」を設けるべき、という24条改憲の主張の中でもしばしば当然の前提のように持ち出される「家族の崩壊」。本書は、その「崩壊した」とされる「日本の伝統的な家族像」が、過去のイメージを都合よくつまみ食いしてつくられた「まぼろし」に過ぎないということを、さまざまなデータを読み解きながら明らかにしていく。

 さらに、2章以降で解説されるのは、税制、教育、フェミニズムへのバックラッシュと「官製婚活」、家庭教育、そして24条改憲論……。あらゆる面から「望ましい家族像」を私たちに押しつけようとしてくる昨今の政治の姿がはっきり浮かび上がってくる。
 ではいったい、何のために? その疑問には、角田由紀子弁護士が最終章で明確な答えを記してくれている。「24条が戦争に不向きな人間を育てるのだから、(戦争したい政府は)24条があっては困る」のだ──。家族のあり方、結びつき方なんて、個人それぞれが決めることであって、政府に口を出されることじゃない。「戦争に不向きな人間」であり続けるためにも、そう主張し続けたい。

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映画『デトロイト』(2017年米国/キャスリン・ビグロー監督)

「デトロイト」は、どこでも起こり得る芳地隆之

 1967年、米国デトロイトの黒人居住地域。アパートの一室で仲間とパーティに興じていた黒人たちのところへ、デトロイト市警の警官らが踏み込み、アルコールの違法販売という容疑で一人残らず、護送車にぶち込んだ。一部始終を見ていた周辺住民たちは怒りを募らせ警官隊に投石。それがやがて火炎瓶となり、商店の略奪にエスカレートしていく。

 冒頭の映像はドキュメンタリーのようだ。小刻みに揺れながら人々の動きを追うカメラは緊張感を誘い、私たちは現場にいるような錯覚に囚われる。そして、こんな疑問を抱く。アメリカとはひとつの国家なのだろうか? と。

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 しかし、その程度の問題提起など、まだ序の口だった。舞台が市街地のストリートから郊外の密室に転じていくなかで、人種差別が人々の言動をどこへ導いていくのかを私たちは見せつけられる。

 きっかけは、街の中心部から少し離れたモーテルに部屋をとっていた黒人男性がおもちゃのピストルで、市の中心部で警戒にあたる警察や軍に向けて鳴らした空砲だった。それをスナイパーの仕業と勘違いした警察と軍はモーテルに突入する。その場にいた人間は全員、壁に両手をつけて立たされ、銃のありかを白状させるための拷問のような尋問が始まる。

 それは執拗なものだった。殴る、蹴るは当たり前。銃で脅しながら、精神的にも追い詰める。そのなかで犠牲者も出た。デトロイト市警の男たちのやり方は、州の兵士の顔さえしかめさせ、関わりたくないと思わせるものだった。一連のシーンを見ていると、ヘイトスピーチから人を殺すにいたるまでは陸続きで、その距離は私たちが思っているよりもずっと近いことがわかる。

 肌の色や出自など、自分ではどうにもならないことのために死の恐怖を味わわされる状況を想像してほしい。

 胸が苦しくなるような密室での惨劇の後、場面はこの事件にかかわる法廷に変わる。正義が通らない現実にぞっとするのは、この作品が半世紀前の話に留まらず、現代まで続いていることを知っているからではないか。「デトロイト」は、差別感情が宿る場所ならどこでも起こり得るのである。

 なぜそんな辛い思いまでして映画を見なくてはならないのか、と反論する向きがあるかもしれない。それに対しては、この作品が最後に示す砂粒くらいの希望を世界に広げていくためだと答えておこう。

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