マガ9沖縄アーカイブス(2)山内徳信さんに聞いた(マガジン9編集部)

 辺野古新基地建設への反対を掲げて「オール沖縄」で闘ってきた翁長雄志沖縄県知事の急逝を受け、9月末に知事選挙が行われることになりました。この結果は、辺野古の基地建設の行く末を左右するのみならず、日本全体の今後にも大きな影響を与えることになりそうです。
 マガジン9ではこれまでにも度々、「沖縄」をめぐるインタビューやコラムを掲載してきました。今、人々が語ってきたことを読み返しながら、「なぜここまで多くの人が『新基地建設』に反対するのか」「沖縄は何に対して怒っているのか」「なぜ政府は、これほどまでに基地建設を強行しようとするのか」を、改めて考えたいと思います。知事選挙まで「沖縄アーカイブス」をこのコーナーで、順次紹介していきます。

 「米軍基地の村」沖縄県・読谷村長を6期にわたって務めた山内徳信さんは、
村長時代、村の基地占有率を大幅に減少させる「脱基地行政」を進めてきました。さまざまな圧力にさらされた闘いの「武器」となったのは、
何よりも平和憲法だったといいます。
 元高校教師として多くの生徒たちに慕われていたことが頷ける丁寧でやさしい口調で終始お話をされていた山内さん。しかし、米軍基地の話になると顔色がさっと赤くなり「沖縄県民は、みんな煮えたぎる熱いマグマを抱えていて、いざという時にはそれが爆発しますよ」と語り、ちょっと凄んだような顔つきでこちらをじっと見つめた、その表情が忘れられないインタビューでした。
 今、まさに徳信さんの言葉どおり、マグマが爆発せんとしています。日本政府には、住民無視で憲法を踏みにじった強引なやり方ではなく、沖縄のこれまでの歴史や経緯ときちんと向き合った、そしてなにより「平和」を帰着点とした解決を、望むばかりです。

2007年5月16日掲載
山内徳信さんに聞いた
憲法力を手に闘ってきた

高校教師から村長へ

――山内さんは、ずっと沖縄・読谷村の村長として、憲法を地方行政に生かすという村政を行ってきました。でも、村長さんになる前は、高校の教師をなさっていたんですよね。

山内 そうです。私は、琉球大学の文理学部で歴史を学び、卒業後は読谷高校で社会科の教師になったわけです。迷いなく教師の道を選びましたね。

――それはやはり、戦争ということと関係あるのですか?

山内 沖縄戦のときは、私は小学5年生。そりゃあ、悲惨なものでした。ようやく戦争が終わって学校が始まったとき、先生たちも腹をすかせながらも「ちゃんと勉強せんといかん」と必死に生徒たちに教えてくれた。教室には本気の熱気が溢れていましたね。だから私は、そんな先生方に少しでも恩返しをしたい、そう思って私は教師になった。真剣にいきることを生徒たちに伝えたいと、そう思ったんですね。

――教師から、村長選に立候補するというのは、どういう事情があったんですか?

山内 1958年4月に私は読谷高校の教師になった。1972年の復帰前の沖縄では、高校の進学率は50%に達しなかった。そのころ読谷村では、高校に行っていない勤労青年たちのための夜間の青年学級を開設してたんです。私はそこの専任講師になりました。昼は読谷高校、夜は週2回の青年学級です。

――それは正式な学校だったんですか? 

山内 いや、卒業証書はないんです。とにかく学びたい、という青年たちが昼の仕事を終えてから集まってくるんです。いやあ、みんな生き生きしてましたね。11年ほど専任講師をやってました。そのときの青年学級や読谷高校の教え子たちが、1974年に「村長になってくれい」と、学校やら自宅まで押しかけてきたんです。

――なにか、きっかけがあったんでしょうか?

山内 当時の読谷村は総面積の73%が米軍基地。それが何をやるにしても邪魔になって、村政もうまくいかない。それに、基地の米兵による事故や事件は絶えず起こっていました。だから彼らは、なによりも人権が大事にされる村、安心して暮らせる読谷村を願っておったんです。それをきちんと米軍や政府に言える人間に村長になって欲しいんだと。しかし、私は万年教師でありたい、と突っぱねたんです。すると青年たちは「地域社会が必要としているとき青年は起て、というのが先生の教えだったじゃないか」と食い下がる。さらに私のかつての教え子でそのとき高校の教師をしていた浜元というのが来ましてね、「先生は、地域社会は民主主義の学校だって教えてくれたじゃないか。千名前後の読谷高校への未練を断ち切って、2万8千名(現在は3万8千名)の村民を生徒と考えてくれ」と言う。まあ、この言葉で吹っ切れたというか。

憲法9条と99条を村長室に掲げて

――それで1974年に初当選。それから6期24年間ですか。

山内 そうです。長いような短いような—。

――そして、日本国憲法を武器にした村政を。

山内 そう、村長室に憲法9条を掛け軸にし、99条を額に入れて来客用のソファからいやでも見えるように掲げたんですね。基地の村ですから、けっこう防衛施設庁の人なんかも来るんです。護憲的な人も来れば反憲法的な方も来る。「憲法力」という言葉を使う人もおるけれど、私にとっては、この条文は百万の味方のようなものです。本当に憲法は凄い力を持っていますよ。私は村政の理念として、あるいは実践の際にも、憲法をいつも盾にして闘いました。憲法を背負っていれば、怖いものなんかないですよ。

――たしか、村役場の前にも憲法を書いた大きな碑が—。

山内 役場の職員たちが建てた大きな看板と石に刻んだ九条の碑が建っていますね。お互い触発し合っているわけです。

――そのように、憲法が息づいている一方で、沖縄でもこのところ次第にその力が弱まってきているような気もします。保守県政は覆らなかったし、名護市長選や参議院補選でも「反基地」の側が敗れる。

山内 残念ながらそれが現状です。最近の選挙は負けていますが、あの95年の少女暴行事件の際の「沖縄一揆」は、いまでもそのマグマを保ち続けています。それは状況によってはいつでも爆発する力を持っている。それが沖縄です。

――いま、そのマグマはどんな状態にあるとお考えですか?

山内 海底で静かに時期を見ているようなもんでしょうね。

――どういう形で、今後それが噴出してくると思いますか?

山内 21世紀は環境の世紀です。人間だけが地球上にいるわけではなく、あらゆる生態系と共生していかなければならない。そんな中で、日米両政府は普天間飛行場の代替基地を辺野古の沿岸に作ろうとしている。これはそういうこれからの世界の動きにも反すると思いますね。嘉手納が極東最大の軍事基地というふうに言われておるんですが、いま日米が辺野古に作ろうとしている新基地は、まさに世界最強の発進攻撃基地となります。だから反対・阻止行動が展開されているのです。

――これがはっきりと動き出したときに、マグマがまた噴出する、と。

山内 そう思いますね。辺野古沿岸にV字形の飛行場が作られる。そして、その隣りには辺野古弾薬庫もある。ここには、復帰前からうさぎとかニワトリとかアヒルなんかが放されていると言われていた。NBC兵器(核、生物、化学兵器)など、大変な兵器があるということですね。

――そういう家畜が死ねば—。

山内 危ない。人間が行くわけにはいかないから家畜を放している。それらが動かなくなれば、ガスがもれておるということになる。そういう物騒な弾薬庫なんです。さらに、辺野古の大浦湾というところは、横須賀港よりも水深が深い。ここに基地が作られれば、原子力空母や原子力潜水艦もいつでも出入り自由になってしまう。すぐ右手に行けばもう太平洋でしょ。アメリカが欲しくて欲しくてたまらない世界支配の基地になってしまう可能性が大きい。

――そういう意図もあるわけですか。

アメリカが欲しくてたまらない沖縄の基地

山内 アメリカの基地関係者ならば、沖縄の他の基地を捨てても、これができるんだったらいい。そう思わせるところですよ。だからこれができてしまったら、沖縄は、じゃなくて、日本はこれからずーっとアメリカの軍事的植民地になってしまう。植民地がどれほど悲惨でどれほど人権が無視されてきたか、それはもうアジアやアフリカを見ればよく分かりますよ。そういうことを考えると、沖縄にアメリカの最強の軍事基地を作らせて日本を縛り付けさせるわけにはいかない。日米両政府が強引に押しつけてくれば、沖縄のマグマ、日本のマグマ、世界のマグマは爆発します。

――大田昌秀さんが沖縄の心を、参議院議員として訴え続けてこられましたが、今期限りで引退を表明しました。山内さんは、その後を継ぎたいという意志を表明なさっておられますね。

山内 大田先生は生涯をかけて、沖縄戦の実相を研究してこられました。そして数多くの著作を発表された偉大な学者です。そして、沖縄県知事になられて、平和県政を進めてきました。その一環として平和の礎(いしじ)を作り、資料館を完成させました。もうひとつ、世界中から平和研究者が集えるような平和研究所を作りたかったんです。もう一期続いておれば、それも実現できたでしょうけど。そういうふうに世界へ向けて平和を発信し続けた知事さんでした。その後6年間、参議院議員として頑張ってこられました。私たちは沖縄の後輩として、きちっと大田先生の後を継がなければならない。そのことが、大田先生にご指導いただいた私にとっての、ご恩返しであり平和創造の実践だと考えております。

――山内さんは、大田県政では出納長をお務めになられましたよね。

山内 最後の1年間ですけどね。でもこのときは、重大な局面を迎えていました。辺野古への理不尽な基地の押し付けについて、大田知事が最後の判断をする時期だったのです。自治体外交としてアメリカへの要請など沖縄の基地問題解決のため知事は渾身の努力をされていた。それは貴重な経験でしたね。

――それは、読谷村長としての地方自治の延長でもあったわけですね。

山内 私の村長としての最初の公約は、当時、村の真ん中にあった255ヘクタールのパラシュート降下演習場を廃止させ、それを読谷村に取り戻すため訪米要請を5回展開する。これを実現するのに20年ほどかかりましたが、日米両政府を相手にした根張り強い闘いでした。

――具体的な闘い一環として、基地の真ん中に村の公共施設を作る、と。

山内 米軍としては、基地の端っこなら作らせてもいいという考え方があったが、それでは基地は支障なく機能してしまう。基地機能に打撃を与えるために、基地のど真ん中に文化の楔を打ち込む必要があった。それは、村民には嬉しい話ですよ。基地の中に福祉センターを作る、野球場を作る、サッカー場もゲートボール場も陸上競技場も—-。福祉関係者も喜ぶ、読谷高校生も喜ぶ。村民が必要と思うものを作る、村政の夢です。世界最強の米軍と、日米両政府を相手にしての自治体外交です。

――それを、一つの村がやるっていうのは凄いですよね。

山内 それができたのは、やはり憲法の平和主義、基本的人権の尊重、主権在民の理念の実践のおかげです。私がもし憲法に出会っていなければ、もし普通の一般的な学び方しかしてこなかったなら、「憲法力」の発揮はなかったと思いますね。

憲法の条文が、「百万の味方」になった

――具体的にどのようなことだったのでしょうか?

山内 読谷村は沖縄戦での米軍の上陸地点です。私たちの集落には2つの大きな鍾乳洞がありました。住民はそこに逃げ込んだんですが、爆弾を打ち込まれて天井の岩がドドドーンッと落ちてきた。多くの人がおし潰された。そこで24名の人が死んだ。その中には私の同級生もおれば、私がとても慕っていた宗一という友人もいた。彼の遺骨を拾えたのは、やっと復帰後のことでした。12トンの起重機を借りてきて、彼の上の4トンの岩をとりのぞき、ようやく見つけた彼の頭蓋骨を、私は何度も、さすってやった。

―― ———

山内 私は51年に現在の憲法に出会いました。読谷高校の1年生でした。そのとき配られた社会科の教科書は「民主主義」というタイトルの本でした。これには震えました。それが原点です。そこから、あの戦争体験をどう生かすか、私の教師への道が決まるんです。それから村長になったんです。憲法を実践し平和な社会を創ることが私の使命です。例えば、米軍が嘉手納基地にイーグルの弾薬庫を作りたいといって、防衛施設庁が建築確認書を持ってきたときのことです。私はどんな書類にも目を通します。平和憲法を守る立場の村長が、弾薬庫を作らせるわけにはいかん。政府から来た職員に言うたわけです。「憲法99条を読んでごらん」と。これが百万の味方というものです。
99条はこうです。<天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う>。山内徳信は村長として特別公務員、弾薬庫を作らせてと来た職員たちは国家公務員です、憲法をまじめに解釈する村長として、この書類を認めるわけにはいかない。局長にも、六本木におる長官にもそうお伝えしなさい、と。そして、それに不服ならば私を裁判にかけて罷免しなさいと言うたんです。そしたら面白くなる。読谷村民は私が罷免されても、再度立候補したら必ず当選させてくれます。そうなれば、ますます沖縄の基地問題がクローズアップされていくから、どうぞおやりなさい。そう言うたんです。結果として提訴することは出来なかった。

――まさに、憲法を武器に、ですね。

山内 私はよく職員に言っていました。「国の言うことで良いこと、村民のためになることだったら聞きなさい。望ましくないようだったら聞く必要はありません」「戦前の市町村役場の職員たちは、国家に食われてしまっていた。国家の政策を押し付けられるということは、即ち国家に食われること。村長が食われたら、村長は職員を食う。職員は目の前の村民町民を食うことになる。こうして戦争へ戦争へと向かった。それではいけない。ちゃんと勉強して、理論武装して国や県の職員と対等に話し合いをしなさい」と。

――国家に食われないための理論武装ですね。

山内 そして、素朴な感情です。日本にある米軍基地の実に75%を沖縄に押しつけておいて、新たに辺野古に基地を作るなんてことを許してはならない。私は辺野古のおじいさんやおばあさんと話をしたことがあります。「山内さんねえ、あの戦争のとき、那覇や中南部から避難してきた人たちが、いっぱい北部の山の中に逃げ込んできた。食べ物がまったくなかったよ。そのとき、なんとか命を救ったのは目の前の海の魚介類だった。この海がなかったら、私らみんな死んどった。そんな恩のある海を日本政府に埋めさせるわけにはいかんよ」と、おばあが言うんです。本当に。民衆の素朴な感情は何より強い。風の如く、水の如くです。

憲法9条は、「命どぅ宝」の思いとつながっている

――素朴な感情と憲法。これが重なったら、ほんとうにいいですよね。

山内 そうなんです。みんな酸素を吸うて生きておるのに、酸素ありがとう、とは言わない。あれほど温暖化がすすんで自然の異変が起きているのに、政治家たちはまさかそれほどのことが、ぐらいにしか考えておらんでしょ。憲法というものは酸素みたいなもので、酸欠になって初めてその大事さが分かる。蛇口をひねればいつでも水が出るから、水よありがとうとは誰も言わない。私の感覚はいま「憲法よありがとう」ですよ。日本国民にとって平和憲法は、命そのものなんです。沖縄の人は「命(ぬち)どぅ宝」と言います。いのちこそ宝、命こそ大事。憲法9条を踏みにじって、ふたたび政府の行為によって戦争を起こしてはいけない。この「命どぅ宝」の沖縄の心を消してはいけない。私たちはどうしたって、そんなことを許すわけにはいかない。

――沖縄の「命どぅ宝」は、憲法9条とつながっている、というわけですね。

山内 そうです。『戦争になれば軍隊は国民を守らない、守れない』というのが沖縄戦の教訓です。尊い命が犠牲になった。もう一度、私たちは「命どぅ宝」の心を取り戻さなくてはならない。平和憲法のおかげで、戦後62年間、戦争で日本人の命を落とすことはなかったということを、忘れてはいけない。それなのに、憲法を改悪して集団的自衛権を持ちたいだなんて言う人たちがいる。持たなければ、北朝鮮にバカにされる、中国の人々に嘲られる、そういうことを言う連中が、政治家の中にもいるでしょう。これは大変危険です。憲法9条を守り抜くことは、日本国民の命を守ること。武力による国家の安全保障論は19~20世紀の発想であり、弱肉強食の過去の発想です。私たちは、平和、共生、共存、の21世紀の平和外交に徹すべきなんです。これからこの国を作っていく若い人たちに、我々年長者が伝えなければならないことを、私はこれからも精一杯発信していきますよ。

――ぜひ、これからも貴重なお話を聞かせてください。どうもありがとうございました。

やまうち・とくしん  1935年、沖縄・読谷村に生まれる。17年間の高校教師生活後、1974年、読谷村長に当選(6期)、その後沖縄県出納長を務める。1999年に山内平和憲法・地方自治問題研究所を開設。基地の県内移設に反対する県民会議共同代表。2007年7月、大田昌秀氏の後継として参議院選挙で、社会民主党から立候補して当選。2013年7月末まで、1期6年を務める。その後は、市民の立場で基地のない沖縄を目指す運動に務める。2017年9月、NHKの番組『沖縄と核』の内容を受け、「核兵器から命を守る沖縄県民共闘会議」を立ち上げ、その共同代表を務める。著書に『憲法を実践する村 ~沖縄・読谷村長奮闘記』(明石書店)、『叫び訴え続ける基地沖縄 ~読谷24年―村民ぐるみの闘い』(那覇出版社)、『沖縄・読谷村の挑戦 ~米軍基地内に役場をつくった』(水島朝穂氏との共著・岩波ブックレット)、『沖縄は基地を拒絶する』(高文研)など多数。

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