マガ9沖縄アーカイブス(4)大田昌秀さんに聞いた(マガジン9編集部)

 辺野古新基地建設への反対を掲げて「オール沖縄」で闘ってきた翁長雄志沖縄県知事の急逝を受け、9月末に知事選挙が行われることになりました。この結果は、辺野古の基地建設の行く末を左右するのみならず、日本全体の今後にも大きな影響を与えることになりそうです。
 マガジン9ではこれまでにも度々、「沖縄」をめぐるインタビューやコラムを掲載してきました。今、人々が語ってきたことを読み返しながら、「なぜここまで多くの人が『新基地建設』に反対するのか」「沖縄は何に対して怒っているのか」「なぜ政府は、これほどまでに基地建設を強行しようとするのか」を、改めて考えたいと思います。知事選挙まで「沖縄アーカイブス」をこのコーナーで、順次紹介していきます。

 沖縄戦の当時、“鉄血勤皇隊”として戦場のただ中にいた大田昌秀さんは、戦後も常に、「戦争とは何か」を考え続けてこられた方であり、「今も沖縄では戦争が続いている」とおっしゃっていました。
 インタビュアーを務めた私にとって、沖縄戦経験者から直にお話を聞いた初めての機会であり、大田さんのお話を聞くにつれ、目の前に血生臭い戦場がどんどん広がり、私の頭上から日本刀が振り下ろされるような恐ろしい感覚につつまれたのを、昨日のように思い出します。そのように語り部の重要さを感じたインタビューでしたので、年々語り部が減っていくことにも危惧を覚えています。

2005年8月10日掲載 大田昌秀さんに聞いた
戦争が終わっていないのに、なぜ次の戦争を用意するのか

沖縄戦は、本土の盾であり、無謀な闘いだった

――大田さんは、戦争について数多くの著書がおありですが、今、改めて「沖縄戦」についてお聞かせください。

大田 まず、沖縄戦がどういう戦いだったか、一言でいうと、「勝算のまったくない無謀な戦い」でした。沖縄の海に浮かんでいる軍艦、艦船は米軍の艦船だけで、日本軍の艦船は一隻もなかった。それから沖縄の空を飛んでいる飛行機は全部米軍の飛行機であって、日本の飛行機はまったく見えなかった。つまり制海権も制空権も、完全に米軍に握られていたわけです。そういう状況の中で沖縄を守っていたのは、私たち学生隊も含めて約11万人です。本土から来た兵隊は約7万人余りでした。それに対してアメリカ軍は、当時沖縄の人口が45万くらいでしたが、それを上回る54万8000人という大軍で押し寄せてきたわけです。数の比較だけみても、最初から勝ち目のない戦闘でした。
 なぜそのような無謀な戦争をやったかというと、米軍が沖縄本島に上陸したときには、日本本土の防備体制はまだ60%しか仕上がっていなかった。したがって、一日でも長く沖縄に米軍を釘付けにしておいて、その間に日本本土の防備体制を完全にしたかったわけです。あえて無謀とはわかりながらも、大本営は、本土への盾の役目として沖縄戦を戦わせるという計画を立てたわけです。

――大本営の戦略のまずさが犠牲を増やしたという見方もありますね。

大田 こんな馬鹿げた命令もありました。米軍が沖縄本島に上陸して9日目に「今日から日本語以外の言葉で話すのを禁ず。沖縄語で話をすれば、ただちにスパイとして処罰する」と。当時沖縄の人たちは、特に田舎の60歳以上の農家の人たちは、方言しか話せません。まして、戦争という極限状況下でみんなと会って話す場合は、生まれながらに話してきた方言になるでしょう。いかに日本守備軍が地元民を信用していなかったか、ということです。実際、スパイの容疑をかけられて、日本兵に処刑された民間人もたくさんいます。
 軍は、沖縄の住民は、軍隊と運命を共にする“共生共死”だと言いました。共に生き共に死ぬ存在だと。ふつうは戦争では、できるだけ住民を戦場や兵隊から遠ざけるものですが、日本軍はそれをしなかった。しないどころか、首里から摩文仁(まぶに)の司令壕へ撤退するときに、軍隊だけだとすぐに目につくということで、兵隊は民間人に混じって移動したのです。

――民間人を“盾”にしたわけですね。

大田 はい。文字通り盾にされたわけです。それで、日本兵の数以上のたくさんの住民が犠牲になりました。ですから沖縄戦は、“日本本土の盾”であり、沖縄住民は、“日本兵の盾”にされたのです。

法律もないままに徴兵された学生たち

――大田さんご自身は、沖縄戦がはじまったとき、どちらにいらしたのですか?

大田 19歳だった私は、沖縄師範学校の学生で、4月に本科2年に入る予定でした。ちょうど、学校のあった首里城の地下30メートルのところに、4キロにわたって地下壕が掘られ、そこに沖縄守備軍が設置されていました。ある日突然、そこの司令官の命令を受けた一人の将校がやってきて、「今日からお前たちは軍隊に徴用された。だから全力をつくして郷土の防衛にあたって、日本の国家を守るために、命を犠牲にしてでもがんばれ」っていう趣旨のことを言って、われわれを軍隊に組み入れたわけです。

――それはいつのことですか?

大田 昭和20年の3月31日。米軍が上陸する前の日です。師範学校は、軍司令部の直属隊となり、学校の教師も一人残らず動員されました。われわれは、手足が剥き出しの半袖半ズボンのカーキ色の軍服を着せられて、サンパチ式という明治38年にできた、軍隊が練習するときに使う銃を持たされ、120発の銃弾と2個の手榴弾で、戦場に出されたわけです。
 当時沖縄県内には、12の男子中等学校と10の女学校がありましたが、みんな同じように学業半ばで軍に徴用されたのです。学校別に「鉄血勤皇隊」といういかめしい名前の隊に編成され、戦場に送られました。 女学校の生徒たちも軍隊の命令で動員されて、包帯の巻き方を教え込まれただけで、前線の野戦病院に准看護婦として派遣されたわけです。これらは全て法的根拠もなしに行われたことです。
 若い十代の生徒たちを戦場に送る法律は、昭和20年の6月22日、ちょうど沖縄の守備軍司令官が自決した日に初めて本土でできました。いわゆる“義勇兵役法”という法律です。しかし、沖縄の10代の若者たちは、そういう法律もなしに一司令官の命令でもって戦場に派遣されていったのです。

――そんなに若い学生たちを集めた即席の隊にも、それぞれ任務があったそうですね。

大田 私は“千早隊(ちはやたい)”という、情報宣伝を任務とする隊に所属させられました。22名の本科生だけ集めてつくった隊です。大本営の発表があると、本島の南部一帯の壕内に身を潜めている兵隊や住民たちに、それを伝達する役目でした。頻繁に守備軍司令壕へ出入りしていましたので、戦場において日本兵たちが、どのように地元の住民たちを扱っていったかを、じかに目撃することにもなったわけです。
 また私のいた師範学校では、“切込隊”として、柔道と剣道の強い者を集め、75名くらいで隊をつくらせていました。何をするかというと、名前の通り、敵に向かって切り込んでいく隊です。
 戦局が大詰めを迎えてくると、特別編隊、通称“特編隊”も、急遽つくられました。どういう隊かというと、敵の戦車隊が押し寄せてくるところに、人が一人入れるくらいの穴を掘ります。この穴は “たこつぼ”と呼んでいました。その“たこつぼ”に爆薬を詰めた箱を背負った特編隊員が隠れておいて、戦車の下にもぐりこんで、爆発させ自分も死ぬ。今のイラクの自爆テロとそっくりですよ。そういうことを命じられて、全滅した隊もいるわけです。下級生の隊です。

昨日のことのように思い出す、振り下ろされた日本刀の残像

大田 昭和20年の5月末になると、守備軍司令部はなすすべがなく、ついに首里から南部の魔文仁に後退することになり、学徒隊も最後の最後まで行動を共にすることになりました。
 6月18日の夜、私が他の部隊への伝令に行く任務を終えた後、摩文仁丘中腹の軍司令部壕に報告に行きました。するとそこでは参謀たちが、金モール付きの正装の軍服を着て “最後の酒盛り”をやっていたのです。
 戦線を離脱して、(大本営に沖縄戦での教訓を報告するという口実をつくり)東京に帰還することになった参謀たちは、酒盛りを終えると、軍服を脱ぎ沖縄の農家の女性が着ている黒い着物に着替えました。彼らはずっと壕の中にいるから、手足が真っ白です。黒い着物は丈が短くて、そこから白い手足がにょきと出ている。壕を出て行く後ろ姿を見送りながら、夜目にも際立つ白い手足をぼんやりと見つめ、「ああ、日本は負けるんだな」と、この時はっきりと思いました。
 もはやこの頃になると、壕の中は修羅場と化していました。これまで威張っていた将校たちが、「学生さん、これをあげるからどこかへ連れていってくれ」と親父の形見だという日本刀や通帳を出し、錯乱状態で泣き出す人も出ました。そんな中にあって、とても生きるのぞみなど持てるわけがありません。

――自分たちを守ってくれると信じていた日本兵が、まったくそうではなかったわけですね。

大田 こんなこともありました。首里から摩文仁の壕へ行く途中、体調も悪くずっと下痢をしているところに、土砂降りの雨に打たれ続けたため、動けなくなってしまったのです。すると兵隊がやってきて「歩けない奴はオレが叩き切ってやる」と、日本刀を抜いて、何度も刀を振り下ろす真似をする。私はもう、心身共に疲れ果て、このまま切られてもいいと思って、その場に座り込んでしまった。振り上げられた日本刀に雨が当たって、きらきらと光っていたそのシーンは、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。
 そしたら私の同級生が、私が背負っていた軍の重要な機密物が入っているという荷物を、オレが持ってやるって言ってね。もう一人の奴は銃を持ってくれて、ようやく歩き出すことができたわけです。後で、重要な物だから絶対に届けろと言われていた荷物を開けてみたら、将校の私物の下駄などが入っていて、腹が立つというよりは、呆れてしまったものでした。

――将校の下駄よりも、命が軽いということですね。

大田 6月22日、牛島司令官と長勇参謀長が自決をして、日本軍の組織的な抵抗は終わったものの、アメリカの攻撃は続きました。空からは爆撃されるし、海からは艦砲射撃でジャンジャンやられ、摩文仁の丘の狭い一角に、日本兵も民間人もみんな、押し詰められてしまった。そしてついに、陸のほうからは戦車が押し寄せて来たのです。空や海からの攻撃にはもう慣れていましたが、戦車はものすごい轟音を立て至近距離までやって来るから、非常に恐い。それでみんな泳げなくても、摩文仁の丘から海に飛び込んでいったんです。僕も飛び込みました。そしてそのまま2日ぐらい記憶を無くしていました。
 気がつくと、私は砲弾の破片で足を怪我して歩くこともできず、死体がごろごろしている摩文仁の海岸で横たわっていました。そのような状況で2~3日が過ぎたころ、「大田じゃないか?」という声がするので見たら、学友の一人が立っていました。彼は、「俺はこれから“斬り込み”に行くから、おまえにこれをやる」と言って、かつおぶし1本と靴下に詰めてあった玄米を私に渡し、「元気でがんばれよ」と言い残して行きました。私は全てを諦めて寝ころんでいたのですが、地下足袋ともらったお米を交換してもらい、やっと立ち上がり歩くことができたのです。

――命を助けてくれたのは、やはり学友だったのですね。

大田 そうです。しかし、せっかく歩けるようになったものの、目にした光景は、わずかの食物や水をめぐって友軍の兵隊同士が殺りくを繰り返すあさましい姿。本当にこれはショックでした。これまで以上に人間不信に陥りながら、なんとか生き延びたいという生の本能と、いっそ死んだほうがましという思いが入り交じりながら、10月23日まで海岸をさまよっていたのでした。
 その後、捕虜収容所に入れられましたが、そこもひどいものでした。下級兵士は上官に殴る、蹴るの暴行を加える。朝鮮から連行された兵士が日本人を殴る、蹴る。戦時中の憎悪が一気にそこで爆発したわけです。戦場だけでなく、収容所においても、醜い人間同士の姿を見せつけられ、戦争の醜悪さを感じずにはいられませんでした。

生きる希望を与えてくれた新しい憲法

大田 収容所から出てきてからは、学友や先生の遺骨を拾ってまわりました。学友たちは、ほとんど死んでしまっていましたし、戦時中のこと、収容所でのこと、忘れたくても忘れられず、悪夢に苛まされる日々。身も心もボロボロになってしまって、無気力感でいっぱいでした。そういう時期が1年ぐらい続いたと思います。
 そのころ、仲宗根政善先生という戦後の沖縄の教科書を作った先生と一緒にいました。その先生がある日、新しく出来た憲法を持ってきて「これ読んだか?」と見せてくれたのです。1947年のことです。
 「戦争を永久にしない。軍隊を持たない」と書かれた新しい憲法。それを読んだ時の「ああ、これでもう戦争をしなくていいのだ」という大きな感動。生きる気力を完全に失っていましたが、なんとかこれから生きていこうと、この憲法にそのきっかけを見いだしたのです。
 その時の強い感動は忘れられないものです。ですから、9条を改定するということは、何が何でも許すことはできない。私のような戦争体験があると、どんな事情や条件を持ってきても、9条を変えることに賛成はできません。

――戦争体験を語り継いでいく重要性を感じます。

大田 戦争の怖さについて、今の人はあまりにも知らなすぎます。若い世代に体験が無いのは当たり前ですが、勉強不足だと感じます。新聞記者でさえも、戦争の実態を知らない。メディアが変わってきたなあ、あぶないなあとも危惧しています。国会においてもそうです。
 平成16年9月に、「国民保護法制」(編集部注:「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)が施行されました。私もその委員会に入っており、会議において、「この法律は、勝つ戦争を想定しているのですか? それとも負ける戦争ですか?」と聞くのですが、防衛庁や政府のみなさんは、きょとんとしています。勝ち戦のことしか想定していないのです。これは僕らの経験では非常におかしなことです。

今も沖縄では、戦争は続いている

大田 戦後すぐにアメリカの心理学者が書いた『沖縄の教訓』という本があります。その最後の部分に、「幼い頃、このような極限状況下にあったら、大人になって精神異常をきたすものが出てくるだろう」と書かれています。今、そのような精神異常者が沖縄にはたくさんいます。私の同級生、いっしょに摩文仁で戦った仲間ですが、生き延びて結婚して、子どもも一人でき、学校の先生をしていました。しかし、突然精神に異常をきたし、まったく社会復帰できないままでいます。
 13歳で戦場に出た私の後輩は、お姉さんがひめゆり隊で戦死したものの、生き延びました。しかし、戦争が終わったとたんに異常をきたして、60年間、病院に入ったまま一歩も外に出てこられません。こういう話は、表にあまり出てこないですが、たくさんあります。

 それから沖縄戦のときの収集できていない遺骨が、まだ4000体から5000体くらいあります。未処理の不発弾の問題もあります。戦後、私もずいぶんと撤去する作業を手伝いました。それからずっと不発弾の処理を続けていて、今では、年間4億円くらいの金を使って処理していますが、専門家によると、沖縄戦のときに落とされた全ての不発弾を処理し終えるためには、あと50年から60年かかるそうです。また沖縄における米兵による事件は、戦後からこれまで4万400件、発生しています。つい最近もまた、少女への事件が起きました。
 このように沖縄にとって、戦争はまだぜんぜん終わっていないのです。戦争がまだ終わっていないのに、なぜまた新しい戦争の準備をするのでしょうか。私にはまったくわからないことです。

おおた・まさひで 1925年沖縄県生まれ。54年早稲田大学卒業後、米シラキュース大学大学院に留学。琉球大学教授を経て90年沖縄県知事に就任。2期8年間務めた後、参議院議員を1期6年務める。2017年病気のため沖縄市内の病院で死去。『沖縄のこころ』『戦争と子ども』『沖縄の決断』『沖縄からはじまる』『沖縄、基地なき島への道標』など、沖縄戦に関する多数の著書がある。

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