第418回:共謀罪成立、これから起こり得ること。の巻(雨宮処凛)

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 「共謀罪」法が成立した。

 多くの反対の声を無視し、踏みにじるというおなじみのやり方で。

 そんな共謀罪について、この連載で「私のガサ入れ体験」という原稿を書いたところ、朝日新聞から取材依頼があり、共謀罪が成立した日の夕刊に「ガサ入れされた当事者」として記事が掲載された。「家宅捜索で日記読まれ…雨宮処凛さんに聞く『共謀罪』」というタイトルで。

 連載の記事、そして朝日新聞の記事への反響は驚くほど多くあったのだが、その中で、まさに「共謀罪」を考える上で象徴的とも言える意見が多くあったので紹介したい。

 それは「北朝鮮なんか行くんだからガサ入れされて当然」「そもそも政府に怪しまれるようなことをしたら家宅捜索されるに決まってる」「運動をするんだったらこれくらいされて当たり前」「ガサ入れされたくないなら、あれこれしなければいい」などというものだ。

 「共謀罪」の重要な論点は、こういった言葉に見事に凝縮されていると思う。

 怪しまれたくないなら、何もするな。そもそも政府に盾突くな。そういうことをするから疑われるんだ。いろいろやってるんだからガサ入れされたくらいでガタガタ言うな。

 直訳すればこういうことで、個人が勝手に「忖度」し、勝手に萎縮していくということを繰り返していけば、あっという間に「もの言えぬ社会」の完成である。共謀罪は、確実にそれを後押しする。

 同時に「もの言う人」と「何も言わない人」は鮮やかすぎるほどに分断されていく。今後、どんなに不当な形で逮捕者が出たとしても、「でも、あの人ってデモとか行ってたんでしょ? それって一般人じゃないよね?」とスルーされていくかもしれない。

 いや、今だって多くの無関心な人々は、その程度の感覚で見過ごしている。沖縄をはじめとする問題を、無関心という最大の暴力で「なかったこと」にしている。しかも私のガサ入れ体験の記事を読み、「よくわかんないけど政治とかの活動をしている人には近寄らないようにしよう」という決意を固めた人もいるそうで、なんらかの活動をする人は、今後、孤立させられていく恐れもある。それは原発事故の被害者など、「やむを得ず立ち上がった人々」にも降りかかるかもしれない。いや、既に降りかかっているかもしれない。

 だけど、と思う。3・11以降、この国では多くの人が立ち上がり、直接路上に出て声を上げてきた。そうして2012年には大飯原発の再稼働に反対して官邸前に20万人が集まり、15年には安保法制に反対して10万人規模の人が国会前に集結した。

 運動を呼びかける立場の人々は、共謀罪ができても萎縮などしないだろうと思う。しかし、3・11以降の運動は、これまで動かなかった層が数万人規模で動いたことに力を得てきた部分が大いにある。自分ではデモなどを主催しないけれど、とにかく黙っていられなくて、官邸前や国会前に駆けつける人々。政府はそういった「呼びかけに応じる数万人」が怖かったのではないかと今、思う。共謀罪は、そんな動きに対する「合法的」な予防的弾圧であるようにも見えてくるのだ。

 さて、共謀罪が成立した後の社会はどうなるのだろうか。

 素朴に考えても、共謀罪が成立して1年経ったところで、「共謀罪の対象となる人はいませんでした」ということでは、いろいろとメンツが立たないだろう。特に20年のオリンピックに向けて必要だとあれほど力説したのだ。オリンピック開催前までに一人も逮捕者が出なければ、「共謀罪、必要なくない?」という世論が出てくる可能性だって大いにある。そんな中、もし、自分が「取り締まる側」だったら?

 私が取り締まる側だったら、そういう世論が怖いから、とにかく誰か捕まえたいと思うかもしれない。それだけではない。ノルマとか出世とか自己保身とか上司受けとか、そういうことのためにも、捕まえておいた方がいいだろう、という計算が働かないなんて誰にも言えない。

 取り締まる側だって人間だ。出世や昇給なんかだって気になるだろう。その時、多少強引で「でっち上げ」だと批判される可能性があるにしても、世論は「政府に盾突いて捕まる方が悪い」という意見が圧倒的多数なのだ、という確信があったら? はっきり言って、無敵である。そんな中、私たちがこれからできることは、徹底した権力への監視と、分断の画策への抵抗である。

 ちなみに、朝日新聞のガサ入れ記事には、「取り締まり側」の意見も載っている。

 公安部門を担当した「元検察幹部」は、共謀罪について、反原発運動や反基地運動などを念頭に「当然、対象になる」と語っている。

 また、北海道警の裏金問題を告発した元道警の原田宏二氏は、「一般人」の定義を「政府のやることに反対しない人」とし、「警察が脅威になりうると判断すれば監視対象になる」とみている。

 今、思い出すのは、08年、G8サミットが北海道で開催された際のデモで、4人の逮捕者が出たことだ。

 私の目の前で逮捕された男性は、車の荷台でDJをしていただけだった。そこに警察が突然乗り込み、数人がかりで引きずり下ろして連行。本当に、ただDJをしていただけでの逮捕だった。その後、サウンドカーの運転席の窓が突然警察によって割られ、運転手もひきずり下ろされて連行される。運転していただけなのにだ。結局、その日は4人が逮捕されたのだが、その時、デモに参加した人たちと話したことを鮮明に覚えている。

 G8には、日本中から2万人の警察が動員されていた。「世界のことをたった8人で決めるな」という思いを持った人々が日本中、そして世界中から集まり、G8サミットへの疑問を訴えるデモなどに対して、それだけの警察が動員されたのである。

 そんな警察の人々はデモ隊に対して異様に挑発的で、今だったら考えられないことだが、大阪府警などはデモ参加者に向かってデモ中ずーっと「このヤクザ!」「チンピラ野郎!」と罵声を浴びせていた。デモ参加者を完全に「犯罪者」のような扱いで見る警察によって4人が逮捕されたわけだが、その後、みんなで話したのは、「警察のメンツ」という問題だった。

 G8サミットという大イベントのために、日本中から2万人も動員された警察。交通費や宿泊費や食費だって相当の額になるだろう。それくらい予算を使っている中で、「2万人の警察が動員されたものの、デモ参加者は全員法律を守って無事デモは終わりました」なんてことになったら、おそらく「警察のメンツ」は丸つぶれだろう。メチャクチャな逮捕の背景には、そんなこともあるのではないか。そんな話をしてから9年後、共謀罪は成立してしまった。

 怪しまれたくないんだったら、何もしなければいい。余計なことを言わず、考えなければいい。残念ながら、そんな空気は今後更に濃厚になっていく気がする。しかし、それは共謀罪などなくとも、この国に漂っていた空気と大して変わらないものでもある。

 この国の大半の人々は、「声を上げる人」が嫌いだ。主張する人を見るとイライラする。それはこの国で「普通」に生きていたら、消費者としての教育しか受ける機会がないからだ。一人の主権者としての教育など、私たちはまったく受ける機会もなく、ただ「消費者」であることだけを求められる。結果、量産されるのは、企業に対してクレーマーにはなるけれど、政治に対してものを言おうなんて発想すらなく、消費者としてどこまでも尊大に振る舞うものの、「お上」には常に従順な「国民」だ。

 だけど、それでいいのだろうか?

 私は、嫌だ。

 3・11後、脱原発デモがさかんになった頃、海外メディアは「日本がやっと普通の国になった」と評した。それまでの日本は、独裁国家でもないのに市民が声を上げない不気味な国として見られていたのだ。「政府にもの言うなんて一般人じゃない」というこの国の「常識」は、世界では「非常識」である。

 今、できることは、まずは消費者マインドから脱却することではないだろうか。

 一人の有権者として、一人の大人として、マトモに政治と向き合い、考え、発信し、議論すること。

 この「当たり前」を始めることからしか、きっと何も始まらないのだと思う。

埼玉弁護士会主催の共謀罪反対集会にて。
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雨宮処凛
あまみや・かりん:1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)、『自己責任社会の歩き方 生きるに値する世界のために』(七つ森書館)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。