第421回:相模原事件から1年。の巻(雨宮処凛)

 この原稿が更新される7月26日は、相模原の障害者施設で19名が殺害されてからちょうど1年という日である。

 1年という月日が経っても、私たちはいまだに殺された人ほとんどの名前も顔も知らないままだ。人となりも、どんな生活をしていたかも、私たちには知る由がない。あれだけの大事件であれば、どんな人だったのか、どんな夢や目標を持っていたのか、連日のようにメディアで報じられ、友人知人たちが涙ながらにコメントしたりするものだが、そのようなことはほとんどないまま、1年が経過した。その事実が、事件の特殊性と、この国に根強くある「差別」を嫌でも示しているかのようだ。

 事件から1年という節目を前に、現場を取材した記者たちによって一冊の本が出版された。それは『妄信 相模原障害者殺傷事件』(朝日新聞取材班 朝日新聞出版)。地道な取材を積み上げたルポルタージュを、一気に読んだ。

 仲間うちでは「下っ端も下っ端」だったという植松被告。入れ墨を入れ、薬物をしていた植松被告を友人の1人はこう称する。

 「結局、自分に自信がなかったってことでしょ。酒だって弱くて、すぐつぶれるし。いきがって、ハイになって、人との差を埋めたかったんでしょ」

 が、自分に自信がなく、いきがっている若者など掃いて捨てるほどいる。というか、この国の一般的な「若者像」でもある。そんな「普通の若者」だった被告はなぜ、あれほどむごい事件を起こしてしまったのか。

 本書によると、植松被告が事件の舞台となったやまゆり園で働き始めたのは、2012年12月。当初は真面目な働きぶりだったというが、13年5月頃から変わっていった。友人に、障害者を「生きているとは思えない」などと話すようになり、また、事件が起きた16年2月には「障害者が生きているのは無駄だ」などと書いたビラを勤務先の周りで配っている。そうして同月14日、「障害者470人を抹殺することができます」などと書いた「手紙」を渡そうと衆院議長公邸に足を運んでいる。しかし、断られ、翌日、再び衆院議長公邸に現れる。対応した職員は郵送を促したが、植松被告は門の前で土下座。2時間後、手紙は受け取られたという。その前々日の13日には、安倍晋三首相を訪ねて自民党本部に足を運んでいた。が、警備が厳しく断念し、帰り道にたまたま見つけたのが衆院議長公邸だったのだ。

 それにしても、植松被告が3日間に渡り永田町に現れ、土下座までしていたとは初耳だ。

 その後、植松被告が措置入院となり、退院したことは多くの人が知るところだろう。

 そうして、事件前日。植松被告はホームセンターで結束バンドなどを買い、知人の女性と都心の高級焼肉店で食事をしている。女性と別れたあとはホテルで過ごし、派遣型風俗を利用したという。事件が起きたのは、それから数時間後のことだ。

 「世界が平和になりますように。Beautiful Japan!!!!!!」

 事件後、植松被告はTwitterにそう投稿した。

 考えれば考えるほど、沈黙し、思考停止したくなる事件だ。

 本書では、追いつめられる介助の現場についても触れられている。

 自身も障害者施設で働き、燃え尽きて退職、現在は明治学院大学教授の深谷美枝氏は、植松被告も「バーンアウト(燃え尽き)を経験した」と推察する。深谷氏自身、過酷な勤務に、利用者を人と思えなくなるほど追いつめられたという。施設での仕事は「内なるウエマツさんとの闘い」だったという彼女は、今も当時接した少女が夢に出てくるという。温かな記憶に癒される一方で、やはり現場は綺麗事では済まされない。強度の行動障害があった少女は、テレビを棚から落として壊したり、他の利用者の耳を噛みちぎったこともあった。深谷さんの身体には常に少女に噛み付かれた歯形がついていたという。

 教員を目指したものの挫折し、福祉の世界に入ったものの、おそらく勤務の中で差別意識を強めていった植松被告に対し、彼女は言う。

 「専門性に乏しく人格も未熟な若者が、施設の仕事で燃え尽きた。その体験が病理性と結びつき、事件につながったように見える」

 施設で働き始めた当初、植松被告は障害者を「慣れるとかわいい」と言っていたという。が、逮捕後の調べでは、勤務の中で憎悪を募らせていったと話している。入所者が粗相をして植松被告が片付けていた時のこと。

 「上から勝ち誇ったような顔をして見ている入所者がいて、許せなかった」

 事件直後も書いたが、私には知的障害のあるいとこがいた。20代のある日、風邪の菌が脳に入って急激に体調を悪化させた彼女は、家族が救急車を呼ぶものの「知的障害の人は受け入れられない」と受診を拒否された。翌日に受け入れ先が決まったものの、あっという間に亡くなった。

 そんないとこにも、「暴力」の問題はあった。

 いとこの家に遊びに行った日、たまたまいとこが通っていた作業所の職員が来ていて、話を聞く機会があったのだ。その作業所の人たちに、いとこは時に居酒屋などに連れていってもらうことがあったようだった。職員の人たちが引率する形でそういう場所も楽しんでいたという。そっか、もう20歳超えてるもんな。微笑ましく聞いていると、衝撃的な言葉が耳に飛び込んできた。いとこは酔うと、職員に暴力をふるうことがあるのだという。「結構、ひどいんですよね…」。控えめに言った職員の言葉に、私は凍りついていた。いとこの家族も、ショックを受けていた。ただただ申し訳ないと思いつつも、何をどう思っていいのかわからず、その上、なんて答えていいのかもわからず思考停止した。いとこの家族もただ言葉を失っていた。結局、その場で打開策などは語られず、沈黙が続いた。

 いとこの場合、酔った時の話だったので、お酒を飲まなければいいという解決策があった。だけど、その時、思った。もし、自分が作業所や施設の職員として働いていて、いつ暴力をふるうかわからない人のケアをしなければならない立場だとしたら。

 やまゆり園の元職員の男性は、入所者の暴力などの問題に対して、こう語る。

 「入所者は施設を出ても居場所がない。暴れても警察を呼ぶわけにはいかず、職員が自分でなんとかする。毎日がその繰り返し」

 彼らは守られているのに、自分は守られていない―――。植松被告の中には、そんな思いがあったのではないだろうか。

 自身も脳性麻痺の後遺症があり、車椅子生活を送る東大准教授の熊谷晋一郎氏は、このように語る。

 「明日にも自分が価値のない存在とされてしまう不安が広がっている社会では、悪意は障害者のような、より不要だと思われている存在に向かいやすくなる」

 また、ダウン症の娘を持つ和光大名誉教授の最首悟氏は、以下のように語っている。

 「現代は『私の存在価値は何か』『社会に役立っているのか』という存在証明が難しい。終身雇用が失われ、弱者はいつ切り捨てられるかわからない。これは誰でも、とてつもなく不安なこと。不安が解消されないから、まぎわらすしかありません。
 まぎらわす相手として通常は人と交流しますが、植松被告が存在証明を求めた先は、国家による勲章だったのでしょう。衆院議長公邸に持参した手紙に『日本国が大きな一歩を踏み出す』と書いています。日本のために正しいことをした、だから英雄として認めてほしいと思っているはずです。その意味で、彼は精神異常者でも快楽殺人者でもなく、『正気』だった。ネットでは共感する声もあります」

 「誰でもよかった」のではない。「死刑になりたかった」のでもない。自分の行為が「称賛」を受けると思い、大量殺人事件を起こした植松被告。

 しかし、彼もまた、教員という夢に挫折し、一時は生活保護を受けるほど生活が困窮するという「弱者」の一人でもあったのだ。

 本書で興味深いのは、事件に対する世界の反応だ。

 事件後、追悼集会には世界各国から多くのメッセージが集まったという。アイルランドの国立大学教授は「私たちは人を有用かどうかで判断しません。そうした発想を支える功利的な考え方は、歴史のごみ箱に投げ込まれました」と書き、インドからは「高齢者と障害者をどう扱うかに、市民と国民の性格が表れます」という言葉も届いた。

 相模原事件から5年前、ノルウェーではアンネシュ・ブレイビクという30代の男が77人を殺害するという事件が起きている。狙ったのは、移民受け入れに寛容な人々。彼自身は「欧州をイスラムの支配から救う」と事件を正当化していた。

 ネオナチサイトに参加していたブレイビクと、「ヒトラーの思想が降りてきた」と語った植松被告。自らにとって「不健康な要素」を取り除き、社会を「純化」したいという意図。そして、挫折と孤立。2人には多くの共通点がある。

 そんな事件を受け、ノルウェーでは何が起きたか。

 「ノルウェーは国を挙げて犠牲者を追悼し、首相が『さらに寛容な社会をつくる』と宣言した。事件の生存者の中には、『テロを機に監視社会ができたら、彼の思うつぼだ。そうさせないのが、生き残った僕らの役割だ』と地方議会選に出馬した人もいた」という。

 翻って、日本ではどうか。首相や政権から「障害者差別は許さない」という力強いメッセージが発されることはなく、逆に事件を受けて元都知事の一人は「やまゆり園事件犯人の気持ちはわかる」と公言。精神障害者の措置入院や予防拘禁ばかりが語られ、「危ないやつは排除・隔離しろ」と、突き詰めれば植松被告の主張と重なり合うような意見ばかりが支持を得ている気がして仕方ない。

 効率や、生産性ばかりを重視する社会のあり方と、決して無関係ではない相模原事件。

 あの時、「かけがえのない命」「命は大切」と繰り返したメディアは、今日も「高齢者福祉にこんなに金がかかって財政難」、という「お荷物」感たっぷりの報道を繰り返している。

 常にお金と天秤にかけられる、命。

 見直すべきは、障害者への差別とかそんなことよりずーっと手前の、私たちの「命へのまなざし」、そのものだと思うのだ。

7月8日、札幌学院大学で開催された相模原事件から1年のシンポジウムにて。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。