痴漢冤罪から考える

自分に落ち度がなく「やってもいない」のに、国家権力によって逮捕され、有罪判決が下される。その怖さを「痴漢冤罪」によって、多くの人は感じています。そんな理不尽な制度は一刻も早く是正されるべきなのに、今やもっと広い範囲で、「誰もが逮捕されてしまう」社会になろうとしている。それが「共謀罪」だと、私は思っています。

最近、電車のホームから線路に飛び降りて逃走する男性、のニュースを何度か目にしました。何のために「逃走」するのだろうか、と最初、不可解に思っていたのですが、「痴漢逮捕」されたら仕事も家庭も一瞬にして失う、逮捕を免れるためには「逃げるしかない」というのが、もはや都市伝説のようにある、ということを知り合点がいきました。

痴漢は犯罪ですから、痴漢したのに「逃げる」のは犯罪ですし、どうしても痴漢の衝動が抑えられないという人は、しかるべき専門医に行き治療しなければなりません。もちろん、被疑者・被告人の権利も日本国憲法が保障しているように、認められるべきと私は考えますが、これが「冤罪」の場合はどうでしょうか。

ここでは「痴漢冤罪」から、起訴された事件の99.9%が有罪になる日本の検察の在り方、司法の問題について、少し考えてみたいと思います。

この問題を、広く世に問うたのは、『それでもボクはやっていない』(周防正行監督/2007)や、この映画のモデルになったと言われる、三鷹バス痴漢冤罪事件の裁判報道でしょう。「マガジン9」でも何度か取り上げてきましたが、今もよく読まれている記事です。

事件の裁判報道や映画からは、「冤罪が生まれる背景事情」がよくわかります。映画監督の周防さんは、映画制作のために事件や裁判取材を重ねた経験から「検察の在り方検討会議」の法制審議会に有識者として参加。取り調べの全面可視化の必要性などを精力的に訴えてきました。しかし、結局は全事件のわずか2%に満たない、裁判員裁判などにかけられる殺人などの重要事件についてのみの可視化が決定しただけです。重要事件の中には、痴漢事件は含まれません。その時の体験や感想(徒労感)などは、『それでもボクは会議で闘う――ドキュメント刑事司法改革』(岩波書店)に詳しく書かれています。

映画や裁判で明らかになった検察や司法の在り方の改革や、そのために必要な法整備を求める声ではなく、「痴漢冤罪で捕まったら一生が台無しになる」その「事実」だけが広まってしまっているように感じます。あとは、「何を言っても女の意見だけで痴漢が成立する・痴漢冤罪詐欺」といった、トンチンカンな論争とか。

自分に落ち度がなく「やってもいない」のに、国家権力によって逮捕され、有罪判決が下される。その怖さを「痴漢冤罪」によって、多くの人は感じています。そんな理不尽な制度は一刻も早く是正されるべきなのに、今やもっと広い範囲で、「誰もが逮捕されてしまう」社会になろうとしている。それが「共謀罪」だと、私は思っています。

共謀罪については、自分は「反権力」じゃないから、関係ない。そう思っている人も多いでしょう。しかし、痴漢冤罪と同じです。「やっていない」としても、捕まる時には捕まってしまうのです。

周防監督は、共謀罪については、「新たな冤罪を生む恐れがある。法ができてしまえば解釈・運用でどうにでも変質しうる。裁判所の歯止めなど期待できない。それは法制審議会に委員として参加した際、痛感したことだ」とばっさり切り捨てています。

こんな世の中になってしまったのだから、自分の身を守るためには、捕まる前に「逃げる」ことも、時と場合によっては必要なのかもしれない。しかしなぜそんな社会や法制度を、私たちは主権者として許してしまっているのか。このまま「権力」のやりたい放題でいいのか…。

ニュース番組が伝える、線路の上を走って逃げる男性の後ろ姿を見ながら、「あれはいつの日かの、私かもしれない…」と、考えざるをえないのです。

(水島さつき)

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