「慰霊の日」に考えたこと(マガジン9編集部)

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 6月23日、沖縄の「慰霊の日」は、仕事の合間にこのサイトを少しずつ眺めていました。朝日新聞と沖縄タイムスの共同企画で公開された、1935年に沖縄県で撮影された写真たちです。サトウキビ畑での作業、サバニ(小型漁船)での漁、浜辺を駆け回る子どもたち、活気溢れる市場…かつて朝日新聞の記者が撮影・保管していたものだそうで、戦前の沖縄の写真は現存するものが非常に少ないだけに、貴重な資料だといえます。
 なぜ「現存する写真が少ない」のかといえば、言うまでもなく県内にあった写真の多くが、戦火で焼失してしまったから。写真に写し出された光景はどこまでも平和でのどかだけれど、わずか10年後にそこで起こったことを思うと、穏やかな気持ちではいられなくなります。魚を担いで歩く少年、銛で突いた魚を誇らしげに掲げる漁師、市場で働く女性、セーラー服に身を包んだ少女たち…彼ら、彼女ら一人ひとりには、いったいどんな運命が襲いかかったのか。思いは尽きません。

 先日亡くなられた元沖縄県知事・大田昌秀さんが建立した「平和の礎」を、大学時代に初めて訪れたときのことです。碑に刻まれたおびただしい数の戦没者の名前をたどりながら歩くうちに、その中に「○○の妻」「○○の子」といった、個人の名前ではなく続柄だけが書かれているものがいくつもあることに気付きました。
 一瞬「なんだろう?」と不思議に思ってから、すぐに思い至りました。家族や近しい親族がみんな亡くなって、その人の名前すら知る人がいなくなってしまったのだ、と。後から聞いたところでは、生後すぐの赤ちゃんが名前を付けられることさえなく亡くなったケースもあるとのことでした。
 突然に命を絶ち切られたのみならず、生きた証としての名前すら残すことができず、その人の人生に思いを馳せて弔う人さえいなくなってしまったという残酷さ。人は、肉体的な死と後の世の記憶から消え去ったときの二度死を迎える、という言葉があるけれど、それでいえば、この人たちは「二度の死」をいっぺんに迎えなくてはいけなかったのだ、ともいえるかもしれません。
 「沖縄戦でたくさんの人が亡くなった」ことは知識としては知っていたけれど、想像をはるかに超える事実の過酷さに、しばらく碑の前から動くことができませんでした。

 亡くなった人たちにも、きっと毎日笑ったり怒ったり泣いたり、家族と過ごしたり友達や恋人と遊んだり、将来の夢を思い描いたり、それぞれに異なる彩り豊かな人生があったことでしょう。そうした「個」を見えなくさせ、単なる「記号」や「数」にしてしまうのが、戦争というものなのだと思います(と書きながら、自民党改憲案が13条にある「個人の尊重」を単なる「人」の尊重に書き換えていることを思い浮かべてしまいます)。
 二度と、あんな残酷な碑銘が刻まれるようなことがないように。改めて、その思いを強くした今年の「慰霊の日」でした。

(西村リユ)

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