第52回 安倍政権のブルシットがまかり通る理由は何なのか(想田和弘)

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、ニューヨーク在住の想田和弘さんのコラム連載です。

 安倍昭恵首相夫人を「私人」だとする答弁書を安倍内閣が閣議決定した時には、トランプ流「オルタナティブ・ファクト(代替事実)」、ここに極まれりと思った。僕に言わせれば、本欄でも紹介した「ブルシット(牛のうんこ)」そのものである。

 僕はここで、「首相夫人は私人か公人か」などという議論を蒸し返し、検証するつもりはない。なぜなら、首相夫人は公人に決まっているからである。私たちは「私人か公人か」を問うのではなく、むしろ「なぜ安倍首相は『妻は私人だ』などという、誰でも失笑するようなブルシットを吐き、それを閣議決定までできてしまったのか」という問いを立てるべきである。なぜなら「私人か公人か」を真面目に議論し、時間とリソースを使うことは、議論を本質から逸そうと試みる首相の狙い通りの展開だからである。

 共謀罪を巡る議論で首相が「『そもそも』には『基本的に』という意味もある」とブルシットな答弁をし、誤りを後で訂正するどころか、閣議決定までしたことについても同様のことが言える。マスメディアやソーシャルメディアには、「そもそも」に「基本的に」という意味がないということを真面目に論証しようとする議論が一時溢れていたが、そんな努力は徒労である。「そもそも」に「基本的に」という意味は、そもそもないんだから。私たちがにわか言語学者のようになり「そもそも」の意味を問わされることで、共謀罪の中身についての議論へのエネルギーが食われてしまう。これまた首相の狙い通りである。

 思えば、安保法制を通すときに集団的自衛権を合憲だとした議論や閣議決定も、ブルシットそのものであった。そもそも合憲なわけがないものを合憲だと言い張ったのだから。私たちはその不毛な議論に付き合わされて、もっと本質的で大事な議論へのエネルギーを消耗させられた。つまり私たちは米軍や自衛隊といった戦力といったいどうつき合い、世界における暴力の問題とどのように向き合っていくのかという、大変困難な問題である。

 ブルシットは、市民社会にとって猛毒である。それは権力者によって用いられるとき、事実やルール、法の支配や民主主義までをも溶解させる。にもかかわらず、政治家たちはブルシットをやめるどころかさらにエスカレートさせ、なおかつ権力の座に居座り続けている。こんな不条理がまかり通ってしまうのは、いったいどうしてなのだろうかと、多くの人が不思議に感じているのではないだろうか。

 その答えは、実は単純だ。というより、安倍首相自身が、国会で答えを披露している。彼は昭恵夫人や迫田国税庁長官らの関係者を証人喚問すべきだと迫る民進党議員に対して、次のように応じた。

 「その世論調査によりますと、内閣支持率は53%ということでございまして、自民党の支持率、あるいは民進党の支持率はご承知の通りでございます。この件については、従来より委員会で何回もご説明してきたとおりでございます」(安倍晋三首相)

 これをわかりやすく翻訳すれば、次のようになるだろうか。

 「不正をしようが、追及から逃げようが、ブルシットを吐こうが、安倍政権は主権者によって支持されている。だから問題ないし、証人喚問はしない」

 不遜極まりないが、ある意味、誠に素直で正直な言い分でもある。これは珍しくブルシットではない。むしろ安倍首相の本音であろう。デモクラシーの本質部分をついた発言でもある。

 というのも、デモクラシーというシステムには、誠に困った部分がある。権力者も法によって縛られる存在だとの建前はあるけれど、権力者が法を超越しても主権者が容認してしまうならば、オーケーになってしまう。権力者の権力の源泉は、私たち主権者にあるからである。

 逆に言うと、私たちが容認しないのなら、安倍政権はブルシットを使うのを控えるだろうし、NHKを支配することも、森友問題で逃げ続けることも、原発を推進することも、辺野古を無理やり埋めたてることも、秘密保護法や安保法制や共謀罪のような違憲立法を行うことも、自制するであろう。

 お隣の韓国を見よ。安倍首相によく似た朴槿恵前大統領を権力の座につかせたのも民衆だったが、彼女の不正を許さずその座から追い払ったのも民衆ではなかったか。

 デモクラシーの老舗・アメリカでもそうだ。候補者時代のトランプがブルシットや暴言を吐き、スキャンダルにまみれ、税金申告書の公表を拒否し、レイシストな政策を提言しても、それを容認した主権者が彼に投票したので、トランプは大統領になった。

 安倍政権の悪行は、私たち主権者の悪行である。私たちは安倍政権になってから何回も行われた選挙によって、政権与党に議席を与え続けることで、彼らの悪行を承認してきた。だからこそ彼らは悪行を平気でエスカレートさせることができる。

 そのことを忘れてはならないと思う。

第51回までのバックナンバーはこちら

想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。