第63回:ソーシャルメディア時代のジレンマ(想田和弘)

 冷たい雨が降るパリのホテルで、この原稿を書いている。

 新作『港町』(2018年、観察映画第7弾)が、ポンピドゥセンターで毎年開かれるドキュメンタリー映画祭、シネマ・デュ・レエルに招待されているのだ。

 パリに来る直前まで、僕は関西のメディアの取材をまとめて受けるため、大阪にいた。だから時差ボケで変な時間に眠くなり、変な時間に目が覚めてしまう。とはいえ、パリの時間に無理やり体を調整してしまうことにもためらいがある。なぜならここで5泊した後は、すぐに香港へ飛ぶからだ。ならばいっそのこと日本時間のままでいようか……。

 などと考えながらスマホでツイッターをチェックしてみると、タイムラインが騒がしい。トレンドには、「証言拒否」「刑事訴追の恐れ」「佐川氏」などの文字が並んでいる。

 ああ、国会で佐川氏の証人喚問が始まったんだな……。

 せっかくパリにいるのに意識を日本へ連れ戻されるのは嫌だなとは思いつつ、やっぱり気になるので速報やツイートを読み始めてしまった。

 どうやら佐川氏は「刑事訴追の恐れがあるので、お答えできません」というセリフを乱発し、重要な質問には証言拒否を貫いているらしい。一方で首相夫妻や官邸の関与については、きっぱりと否定しているらしい。自民からは丸川珠代議員が質問に立ち、「少なくとも総理、総理夫人、官邸の関与はなかったという証言が得られました。ありがとうございました」と言って質問を締めたらしい。

 僕はたまらなくなって、次のようなツイートを連投した。

「刑事訴追の恐れがあるので、お答えできません」は流行語大賞の予感大。 #菅官房長官語で答える のほか、#佐川氏語で答える も作ろうかな。

「刑事訴追の恐れがあるので、お答えできません」を連発するのは佐川氏個人の権利だけれど、公僕としての意識や矜持がかけらもなく、徹頭徹尾「私」の人が公務員のトップ的地位に上り詰めていた事実は、日本の民にとって痛恨以外の何ものでもない。

丸川珠代は佐川氏にトカゲのシッポになることを求めて、佐川氏は自らシッポになったわけだが、佐川氏がそうしようと思ったモチベーションがよくわからない。官邸の指示がないのに改竄したのなら、そのモチベーションもわからない。

 インターネットが発達する以前は、海外旅行に行って帰国すると、自分が日本にいない間にいろんなニュースが進展していて、軽い“浦島太郎”の気分を味わったものである。しかし今やそんなことは起きえない。世界のどこにいようと、ソーシャルメディアを通じて日本からのニュースに瞬時に連れ戻される。どころか、僕自身が発信元にもなれてしまう。

 いや、それは不正確な言い方かもしれない。

 僕の目に日本のニュースが飛び込んでくるのは、僕自身が日本のニュースに対して興味があるからだ。ソーシャルメディアのアルゴリズムは、そういう風にできている。

 逆に言うと、もし僕に日本のニュースに対する興味がなかったならば、たとえ日本にいても佐川喚問などのニュースは僕の目には触れなかったのではないか。ソーシャルメディアのアルゴリズムは、そういう風にできているからだ。

 だからこそ「興味のある人間」と「興味のない人間」の間で、情報と意識の乖離が進んでいく。人々の間に埋めがたい溝が形成され、分断されていく。

 実際、初めてフェイスブックで『港町』に関する広告を出してみようとして、ちょっとびっくりした。「ドキュメンタリー」「映画」などといった“関心事”を指定し、“住んでいる地域”を限定すると、それに該当するユーザーだけに対して広告が表示される仕組みになっているのだ。要は「映画『港町』に興味のありそうな人」にターゲットを絞れるわけである。しかもその広告は、いわゆる“普通の投稿”として届けられるので、一見広告には見えない。

 目の前の映画をプロモートする立場からすれば、とても便利で合理的に見える。けれども、それで本当によいものかという疑問も感じる。

 なぜなら「興味のありそうな人」だけに向けて発信を続けていたら、「今は興味がないけど、何かの拍子に興味を持つ」という“アクシデント”が起きる可能性は失われて しまう。それは私たちの人生や社会にとって、長期的には大きな損失になりうるのではないだろうか。

 僕自身が掲げている「観察映画の十戒」は、撮影中に予期せぬアクシデントが起きやすいように設計されている。事前のリサーチや打ち合わせを行わず、行き当たりばったりでカメラを回すのは、自分の想像を超えた人物や出来事に出会いたいからだ。

 『港町』も、まさにそのようにして撮られた映画だ。

 前作『牡蠣工場』のための風景ショットを撮ろうと思い、カメラを持って牛窓の町をうろうろしていたら、港で偶然、86歳の漁師・ワイちゃんに出会った。ワイちゃんいわく「明日漁に出る」と言うのでその様子を撮らせてもらうことになり、漁を撮影した後、獲れた魚を卸しに行くというのでついて行ったら、そこは市場だった。すると競りが始まったので撮らせてもらい、さらに競りでワイちゃんの魚を買った魚屋さんについていくと、今度はそれが街の人々や野良猫(!)に届けられるまでを撮影することができた。そうこうするうちに84歳のクミさんがフレームの中に乱入し、まったく予期せぬ「告白」をされた。そして知らない間に映画の場面が揃っていった。

 つまり『港町』は、アクシデントの連続で奇跡的に“撮れてしまった”映画だ。そういう意味では、自分で撮ったという気すらしていない。むしろ「さずかった映画」のように感じている。だからこそ僕はこの映画が気に入っている。自分の能力や限界を超えた映画だからだ。

 自分の能力や限界を超えるには、偶然の力を借りる必要がある。そのためには、アクシデントが起きようとするのを、妨げてはいけない。というより、むしろ歓迎し抱擁しなければならない。

 しかしソーシャルメディア全盛のこの時代では、コミュニケーションのあり方が緻密かつ“効率的”になりすぎて、この「偶然、アクシデントが起きる」ということが、本当に難しくなってきたように思う。この記事も本当は僕のことや映画などまったく知らない人にも読んでほしいのだが、その確率はたぶんかなり低い。

 なぜならこの記事はソーシャルメディアで拡散されることになるわけだが、その世界はすでに想田に対して「興味のある人」と「興味のない人」の間で分断されてしまっていて、両者の間で情報が往来しにくくなっているからだ。ネットの中には壁などないはずなのに、考えてみれば逆説的な現象である。

 このジレンマをどうしたらいいものか、僕にはよくわからない。

 よくわからないまま、毎日走り回っている。

 原稿が書きかけのうちにパリでの上映を終え、香港国際映画祭へ飛び、昨日は香港で『港町』の最初の上映を終えて、いまはホテルで遅い朝食をとり、首相官邸をネタにしたエイプリルフールの投稿に興じている。

 そしてそうこうしているうちに、世界は確実に激変しているのである。

〈観察映画の十戒〉
(1)被写体や題材に関するリサーチは行わない。
(2)被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、(待ち合わせの時間と場所など以外は)原則行わない。
(3)台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
(4)機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則僕が一人で回し、録音も自分で行う。
(5)必要ないかも? と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。
(6)撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。
(7)編集作業でも、予めテーマを設定しない。
(8)ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある。
(9)観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。
(10)制作費は基本的に自社で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だから、ヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。

想田和弘監督の最新作『港町』は、2018年4月7日(土)よりシアター・イメージフォーラムほかにて公開!

公式サイト→http://minatomachi-film.com/

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。93年からニューヨーク在住。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。監督作品に『選挙』『精神』『Peace』『演劇1』『演劇2』『選挙2』『牡蠣工場』『港町』『ザ・ビッグハウス』などがあり、海外映画祭などで受賞多数。最新作『精神0』はベルリン国際映画祭でエキュメニカル賞受賞。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』『観察する男』『熱狂なきファシズム』など多数。