第68回:民主主義の旗を下ろさぬ覚悟(想田和弘)

 ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンが、8月27日付のニューヨーク・タイムズに「なぜそれがこの国でも起こりうるか:私たちがポーランドやハンガリーになる可能性は高い」と題するコラムを寄稿した。本文を読めばわかるように、「それ」とは「独裁国家になること」である。

 クルーグマンによると、ポーランドとハンガリーはEUのメンバーでありながら、すでにデモクラシーの国とはいえない状況にある。両国では「選挙を維持しながらも、司法の独立性を破壊し、報道の自由を抑圧し、大規模な政治的腐敗を組織的に行い、反対意見を禁じて」しまった。その結果、法と正義(ポーランド)やフィデス(ハンガリー)といった与党による支配が、将来にわたって続くであろうことを指摘する。その上で、「それらはすべて、わが国でも簡単に起こりうる」と警告し、「自由の伝統の強さを考えれば、アメリカが専制政治に陥ることはない」といった、アメリカによくある楽観論を拒絶するのである。

 「実際、共和党は法と正義やフィデスのアメリカ版になる準備ができているし、なろうとさえしている。今すでに持っている権力を使って、永続支配をねらっているのだ。(中略)私たちは今、ナイフの刃の上に座っているようなものだ。もし間違った方向へ落ちてしまったら、つまり11月の中間選挙で共和党に両院を支配させてしまったら、私たちは想像以上のスピードでポーランドやハンガリーのような国になるだろう。(中略)私たちはポイント・オブ・ノー・リターン(引き返せない地点)に非常に、非常に、近い」

 僕はクルーグマンの見立てに同意せざるをえない。

 アメリカでは裁判所や検察の独立性がかろうじて保たれているし、権力の監視をするジャーナリズムも生きている。それに共和党やトランプに対峙する政治勢力も一定の強さを保持している。だが、この期に及んで主権者が共和党による両院の支配を選ぶなら、司法や議会のチェック機能がいつまで持ちこたえられるかわからないからである。

 しかしクルーグマンが気づいていないのは、日本はおそらくすでに「ポイント・オブ・ノー・リターン」を過ぎてしまったということである。彼が記述するポーランドやハンガリーの状況を、もう一度読んでほしい。

 「選挙を維持しながらも、司法の独立性を破壊し、報道の自由を抑圧し、大規模な政治的腐敗を組織的に行い、反対意見を禁じてしまった」

 これ、日本にぴったり当てはまるじゃないか。

 そう、思う人も多いのではないだろうか。

 実際、日本はすでにクルーグマンがいうところの、事実上の専制政治に陥っていると思うのである。しかもあれだけのスキャンダルや失政が明らかになっても下がらない内閣支持率が示すように、日本の主権者はそのことを消極的にせよ容認しているのだから始末に負えない。僕は2013年、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)という本を書いたが、いま政治についての本を書くのなら、そのタイトルは「日本人は民主主義を捨ててしまった(と思う)」になるであろう。

 ずいぶん悲観的だと思われるかもしれない。

 しかし、偽りの希望を抱いたところで状況が好転するとは思わない。

 むしろ私たち民主主義者が肝に銘じなければならないのは、「何があっても自分だけは最後まで民主主義の旗を下ろさない」という覚悟なのではないだろうか。

 オーストリアの法学者ハンス・ケルゼンは、ボルシェヴィズムとナチズムが台頭し民主主義が死を迎えつつある状況で、「民主主義の擁護」(1932年)を書いた。彼が米国へ亡命する前のことである。

 僕はケルゼンが示した覚悟に共感する。

 「現在民主主義の友は、救命の可能性がほとんどなくなった重症患者について、なお治療を継続している医師の立場に似ている。しかし、現在民主主義を救う見通しが皆無になったとしても、民主主義への帰依を表明することは、全民主主義者の責務であろう。思想への忠誠は、その思想の実現性とは独立に存在する。思想への感謝は、その実現が葬られて後にも、その墓を乗り越えて存続する」

 「民主主義は、その敵に対する防衛を最も怠る国家形態である。民主主義の悲劇的運命は、その最悪の敵をも自らの乳房で養わねばならないところにあるようだ。民主主義が自らに忠実であろうとすれば、民主主義の否定を目的とする運動をも容認し、反民主主義者を含めたあらゆる政治的信念に平等の発展可能性を保障しなければならない。我々の前で展開しているのは奇妙な劇だ。民主主義は、最も民主的な方法で廃棄されようとし、民衆はかつて自らに与えた権利を奪ってくれと要求している」

 「民主主義者は、民主主義救済のための独裁などを求めるべきではない。船が沈没しても、なおその旗への忠誠を保つべきである。『自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほど、やがていっそうの強い情熱をもって再生するであろう』という希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈みゆくのである」(ハンス・ケルゼン「民主主義の擁護」長尾龍一・植田俊太郎訳、岩波文庫『民主主義の本質と価値 他一篇』に収録)

 ケルゼンがこう書いて間もなく、ドイツで民主主義が墓に葬られたことは、歴史が示すとおりである。しかしその後、第二次世界大戦という恐ろしい犠牲を払いながらも、デモクラシーは再生した。ケルゼンが希望し予言したように、民主主義は墓を乗り越えて存続したのである。

想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。