第86回:埋められたのはこの国の未来~辺野古の海に土砂投入(三上智恵)

 ポイント・オブ・ノー・リターン。もう引き返せない地点。政府は辺野古への土砂投入を12月14日だと一方的に通告し、「原状回復が困難な新たな段階に入った」と盛んに喧伝した。

 今日ここに至った事態を、そのストーリーに沿ってシリアスに受け止めようと思えば、それもできる。そりゃあ悔しくて悲しくて、言葉もない。なぜ大差で辺野古移設反対の知事を押し出したのにこうなるのか。この国の民主主義は機能していないのか。国は、県との協議は形だけだという本音を隠しもせず、話し合いの間にも埋め立て作業を全力で進めた。身を焦がさんばかりの怒りモードに入っていくことだってすぐにできる。しかし、辺野古の報道に取り組んで21年、運命のXデーをこう度々設定されては鼻白む感がある。ポイント・オブ・ノー・リターンだって、既視感だらけだ。

 2004年、沖合埋め立て案のやぐらが辺野古の海にどんどん建っていった時も、スパッド台船がたくさんのサンゴを踏みつぶした時も、もう元には戻らないと気持ちが崩れそうになった。沿岸案に代わってV字の滑走路に名護市長が合意した時も、これまでの闘いが無に帰したと文子おばあと涙を流した。オスプレイが配備されてしまった日も、2014年夏に辺野古が80隻を超える船に包囲された日も、最初のブロックが海に投入されてしまった日も、護岸工事に着手した日も、日本中から機動隊が来て高江の工事が始まった日も、毎回私は半泣きで取材準備をし、ああもう戻れない、と自分の非力を呪った。

 全部私にとってはポイント・オブ・ノー・リターンだった。だから、今回が最大級で、今度こそもう諦めるポイントだよと言われても、最大級の悲しみ方が、もはやわからない。当初は8月17日の予定だったのが、翁長前知事の急逝で飛んでしまった。8月だったら、もっとどん底に悲しかったかもしれない。でも今回は少し違っているような気がした。泣くような日でもない気がしていたし、これ以上に怒れる自信もなかった。どんなトーンでこの日を迎えたらいいのか。早朝の真っ暗な道を辺野古に向かい、気持ちが定まらないまま現場に着いた。

 投入地点が見える陸上のカメラ位置を確認して、船上撮影するカメラマンを港まで送って段取りをし、ようやくゲートにたどり着いたら朝一番、「遅い!」と文子おばあに怒られた。「もうあたしはそこでさっき一戦交えたんだよ。車いすごと5人に丁寧に運んでもらったさ」。まだ暗いうちに一度排除されたと言って、おばあはどこか自慢げに笑った。なんだか明るい。頑張っても頑張っても、基地建設を止めることができない、と文子おばあが涙をこぼす姿を何度も見ているので、ちょっと拍子抜けした。あえて、もう引き返せないのかな? とシリアスな表情で迫ってみると、「諦めてはだめ。時間はかかってもね」とおばあは冷静に言う。おばあ、時間はかかってもって、もう21年だよ? と切り返すと「まだまだ。あと10年、20年かかっても。粘って勝たないと、どうする」と諭された。思い定めた表情。ここまで来て、諦めてたまるかという気迫がビンビン伝わってきた。

 海上では、国が県の指導を無視して本部半島から積み出した赤土を含む土砂が、台船に載って近づいていた。10時過ぎ、いよいよ護岸に接岸。土砂はショベルカーでトラックへと移されていく。政府が辺野古に基地を造ると言い出してから21年、なんとか今日まで守り抜いた海に、こんなものを入れられたくない。窒息していく海を見たくない。あの世に行っても辺野古の闘いを心配し見守ってくれているであろうおじい、おばあ、懐かしい人たち、翁長前知事にも本当に申しわけがない。カヌーチームも同じ気持ちなのだろう。フロート内に突っ込んでいっても海保だらけの海域でどうなるかは百も承知で、果敢にフロートを越え、全力で漕いでいく。次から次から台船にアプローチするが、海猿に確保される。しかし確保されても高くプラカードを掲げる彼らの姿に泣きそうになった。たとえ土砂を入れられても諦めるつもりは全くないんだ、と全身で表現していた。

 そうだ。今日、政府が「ハイ、沖縄の抵抗はこれまでね」という区切りを演出するなら、こちらは「いえいえ、昨日も今日も明日も粛々と反対しますよ。子や孫のために。私たちの国の民主主義のために。諦められるわけがないでしょう?」と全国に示す日にすればいいのだ。

 「まだまだ今からですよ」

 「たとえ完成したって、使わせない闘いをします」

 「今日は踊ろうと思ってハーモニカを持ってきたのに」

 「かえって県民の心に火をつけてくれてありがとう。これで県民投票は、みんなで危機感を共有できますよ」

 動画をご覧いただけばわかるように、私が現場で集めたインタビューは、全然下を向いていない。翁長前知事の妻である樹子さんも駆け付けて下さって、ゲート前は故・翁長前知事の魂も供にあると大変湧き上がったが、その樹子さんは本土のメディアに囲まれる中、「こんなに民意がないがしろにされて。これでいいと思ってるの? 皆さんがしっかりして!」と逆に記者たちに檄を飛ばす場面も。うちなーんちゅ、うしぇーてぃないびらんど(沖縄県民をなめたらいけませんよ)を地で行く県民パワーが現場には溢れていた。痛快ですらあった。

 しかし、もちろん明るいばかりではない。国会議員の照屋寛徳さんも糸数慶子さんも涙ぐんでいたし、山内末子さんは翁長さんに申し訳ないとマイクを持つ手を震わせていた。政府の思惑通りにへこたれるもんか、という反発は、確かに新たなエネルギーの渦を作り上げていた。しかし一方で、この20年を思うと「この日を迎えないために頑張ってきたのに」とウェットな悲しみに包まれる。いつもスマホを駆使して高江や辺野古の状況を発信してくれる大袈裟太郎さんは、自分はまだ2年余りしかかかわってないけれど、と言いながら、みんなの悔しさを思って泣いていた。それは前日の彼のブログに書かれているので引用したい。

 明日、14日はいよいよ辺野古の土砂投入予定日だ。
 20年続いてきた運動の岐路に、僕は立ち会わなくてはならない。
 この重みに、僕は耐えられるだろうか。

 20年前、山城博治はまだ40代前半、今の山本太郎ぐらいの歳だったはずだ。
 玉城デニーは30代後半、今の村本大輔ぐらいの年齢だった。
 稲嶺進は50代前半、今の横川圭希ぐらいの歳だった。 
 目取真俊は30代中盤、ちょうど今の僕ぐらいの歳だっただろう。
 石原岳は20代中盤、今のアツシぐらいの歳だった。

 太郎さんは、自分がいなかった18年間を現場で過ごした人たちの気持ちを丁寧に想像して下さっていて、こんな感性を持った若い世代の人たちが輪に加わっていることに感激した。

 私が辺野古の問題に出会ったのは32歳の時だった。ここまで長く苦しい道のりになるなんて思いもしなかった。でも、あれから21年も辺野古と向き合ってきたおかげで、政府というものがこんなに不誠実だとか、この国がこんなに壊れちゃってることとか、アメリカはやっぱり日本を利用したいだけだし、日本自体、属国であることに疑問すら持っていないことを学んだ。そしてジュゴンや希少生物の宝庫である大浦湾の豊かさや、東海岸に生きる人たちの喜びと悲しみ、基地と共存を強いられた辺野古集落の悲哀、それを越えていく人々の文化や知恵や、何よりも、圧倒的に強いものに対しても、諦めず、折れずに闘っていく尊厳に満ちた人々にたくさん出会うことができた。翻弄されただけではない。私は実に多くのものを「得て」いたのだ。こんな「負けた」格好の日に、私はそう思うことができた。

 それに引き換え、勝ったつもりの政府はこの日、実は大事なものを手放したのではないだろうか。

 なかなか振り向いてくれなくても、何度も手を振り払われても、それでも父の手を握ろうとする子どもに下した最後の一撃。どこかで、それでも家族だと思ってくれるだろうと信じて背負ってきた重い重い荷物は、もう持てなくなってしまった。岩屋防衛大臣はいみじくも言った。「辺野古移設は日本国民のため」と。やはり、家族として大事にされる対象ではなかったのだという現実を、一度は里子に出したその子に気づかせてしまった。親を慕う気持ちがあればこそ、重さにも耐えた。そこを利用するだけ利用してきたのではないか。家族だという幻想さえ打ち砕いてしまうなら、冷酷な他人の荷物など、抱えて一歩だって歩けるわけがない。

 さらに、人口のわずか1パーセントに過ぎない一部の国民の苦しみなど興味もない、と見ぬふりを決め込んだ圧倒的多数の国民にとってもそうだ。掴み取っていたつもりの「主権」を等しく失った日なのだが、そのことを自覚している人は少ない。

 沖縄は、日本の戦後民主主義を映す鏡である。果たして今、国民は主権者として扱われているか。基本的な人権が保障されているか。三権分立は機能しているか。地方統治機構は国の下部組織ではないという地方自治の精神は生きているか。沖縄の現状からわかることは、どれをとっても今の日本は、はなはだ不完全だということだ。他府県の皆さんは、それは沖縄だからであって、私たちはまだちゃんと民主主義に守られているはず、とおっしゃるだろうか。残念ながら、それが日本の民主主義の到達度であり、国民の民度のレベルであり、この国の正体だ。

 沖縄の現状をまっすぐ見つめてしまうと、この国の正体にがっつり向き合わされることになる。それは面倒だし、正視するには勇気も必要で、簡単ではない。辺野古の問題から目を背けるのは、沖縄に興味がないからではなく、無意識にこの国の現実から目を背けたい、突きつけられても何もできない自分と向き合いたくない、という防衛本能のなせる業なのだ。その「自己防衛由来の無関心の壁」に阻まれて、私がいくら映画や講演で全国にこの問題を伝え、燃えてるのは沖縄だけではない、皆さんの服にも火がついてるんですよと力説しても、「沖縄は大変ね」という言葉が返ってくる。あくまで「私たちはまだ大丈夫だけど」と思おうとしている。自分は加害者でも被害者でもない、と思いたい人たちが辺野古のニュースをスルーする。しかし、誰が加害者であるかを見極める目を磨かない限り、自分が被害者になるのを止めることはできない。だからスルーした人はぜひ、今回の15分の動画を見てほしい。

 ありとあらゆる民主主義の手法に則って辺野古NOを突きつけ、それでも進む工事に体を張って抵抗してきた沖縄県民の21年の蓄積を粉砕し、頭上から投下された政府の土砂。

 埋められていくのは、辺野古の海だけではない。この国の未来だ。

 圧殺されたのは沖縄の声だけではない。いつか助けを求める、あなたの声だ。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)