第88回:リョーコー二等兵が咲かせた桜(三上智恵)

 2月24日の沖縄県民投票は、選択肢を増やす折衷案で何とか全県で実施することになった。しかし、差し迫った自衛隊配備を問う石垣の市民投票は市議会で否決、等々、沖縄の基地をめぐる動きはいつも慌ただしく、伝えるべき問題は次々に起きて、増えて、何一つ楽観できない。なので、私はいつもこの連載では危機感を訴えてばかりなのだが、今回はちょっと離れて、いい報告も書こうと思う。こんな幸せな気持ちで書くのは、たぶん初めてかもしれないから。

 1月26日の土曜日は、一年前に交わしたリョーコーさんとの約束を実現する大事な大事な日だった。『沖縄スパイ戦史』の主人公格である元護郷隊員の瑞慶山良光さん、戦争中は16歳でリョーコー二等兵と呼ばれた少年兵だった彼が、桜を撮影中に私に言った。

 「護郷隊の関係者やたくさんの人にこの桜を見てもらって、平和のことを考えてもらいたいと思って桜を植えてるんだが、三上さんのお力で、みんなを呼んでもらって…」

 第一、第二護郷隊合わせておよそ1000人の少年ゲリラ兵部隊が、陸軍中野学校卒業生の指導のもと、沖縄北部の山々で壮絶な戦闘を展開したことは『沖縄スパイ戦史』に描いたとおりだが、戦死者160人のうち、リョーコーさんは所属していた第二護郷隊の死者69人分の桜を自宅の裏山に植えると決めて、この20年コツコツと一人で頑張ってきた。50歳を過ぎてキリスト教に救われ、穏やかな生活を取り戻したものの、戦後35年間もPTSDの発作に苦しんだ。そのたびに頭の中が戦争になって暴れ、日本兵がとりついたみたいだと周囲に怖がられて「兵隊幽霊」と呼ばれたこともあったという。

 ひどい時には、家の中に鉄格子の部屋を作ってその中に閉じ込められたという話には胸が痛む。護郷隊に行った15、16歳の息子が帰ってこないと母親たちが半狂乱になっている中で、リョーコーさんのお母さんは、骨と皮になったとはいえ、生きて我が子を抱くことができたのだ。彼を抱きしめて「なんでこんな姿になったの?」と泣いたというけれど、生きていてくれただけいい。そう思って神に感謝しただろう。でも、戻ってから1年ほどしてからPTSDを発症した。体は回復したけれど、心はパンクしていたのだ。このままではよそ様のものを壊しかねない、と心配した義兄が「座敷牢」を作った。

 生きて戻ってきた息子は戦争に心を潰されていた。どうにもしてやれず、ようやく腕に抱いた我が子を同じ手で監禁することになった母親の気持ちを思うといたたまれない。戦死者を出した遺族だけが、不幸だったわけではないのだ。戻ってきた少年兵も、その家族も、長い長い生き地獄を味わってきたのである。

 宗教に救われて家庭も持ち、ようやく落ち着いたリョーコーさんだったが、護郷隊の慰霊祭や、隊長たちが来るたびに持たれた集いなど、どれも長い間参加できなかったので、もはや繋がりは薄い。みんなを呼ぶと言っても連絡のしようがないのだ。戦友たちの名前もエピソードも、その記憶力はほかのおじいたちと比べてもずば抜けている。それは、あの戦争の世界から抜け出せないまま過ごしてきた時間がどれだけ長かったかを物語っている。しかし、戦後は誰とも会ってはいないのだ。

 皆さんに来てほしい、と桜の山で一人で唱えているリョーコーさんに、私は何とか応えたいと思った。そのためには、まずはこの映画を成功させて多くの人に桜を見たいと思ってもらい、さらに遺族や元隊員まで動かしていくしかない。その方法は? この1年、どうやってリョーコーさんの桜の山にたくさんの笑顔を集められるか。ずっと思案してきたのだ。

 思えば私の仕事、ドキュメンタリーで誰かを撮影するという職業は、その人にプレッシャーをかけることはあっても、救ったり幸せにしたり、喜ばせることは少なかった。基地建設に反対している家族、と紹介されたはいいけれど、子どもの顔まで全国にさらされて、常に基地反対のアイコンのように見られ、日常生活が不自由になっていくこともある。私の映画なんかに出てしまった結果そうなったのなら申し訳ないと思う。政治家や商売人でもない限り、全国に顔をさらされて得をする人はいない。

 そうやって出演してくれた人たちの生活に「圧がかかる」ことも心配しながら、それでもこの人だ! と思えば、私はお願いして付きまとって撮影するのだ。もちろん、考えうる限りの配慮をしているつもりだ。でも映画がヒットすればするほど、例えば辺野古について知ってくれる人が増える一方で、文子おばあの写真だけ撮って立ち去る人も増える。おばあは怒る。私は人寄せパンダではないんだよ! と。私はごめんね、いやな思いをさせてるね、と謝るが、事象はもう止められない。これは、大好きな人をさらし者にする仕事なのだ。

 特に、今回の映画『沖縄スパイ戦史』のインタビュー証言は、73年間語られなかったのには大きな理由があるわけで、証言内容に、近くの誰かを傷つける可能性を含んでいるものが多かった。新たな波風を立てるとわかっていて、そんな話を録画して全国に見せるのか? 戦争の被害者である人々に対して、その中の加害性にスポットを当てていくなんて、そんな残酷なことをお前にやる権利などあるのか? 何度、自問したかわからない。そしてその問題は今も払しょくできない。今日はこの映画が「キネマ旬報文化映画部門1位」になったと報道された。もう5つ、6つの賞を頂いている。認められたのは光栄だし、拡がる機会が得られて本当にありがたい。でも同時に私の心配も膨らむ。影響を受ける関係者が増えるのではないか。私が恨まれるならまだしも、証言した人が恨まれたら、どう責任を取るつもりだ? と。

 そんな気苦労はこの仕事をしている以上、仕方がないとも思う。それが嫌ならやめちまえ、とも思う。でも、たくさんの人たちを被写体にして映像をつなげてきた。その中で、せめて「撮影や顔をさらされたことは嫌だったけど、三上さんに出会ったこと自体は、まあ悪くはなかったわ」くらいまでは、最終的には思ってもらえたらと願う。だから、作品ができて終わりにしてはいけないと思う。しかし、それだって綺麗ごとだ。全員とずっとお付き合いします、なんて。

 そんな矛盾だらけの想いを抱えながらも、これだけは実現したいと思っていたのが、少年兵の桜を見る集いを、ちゃんとやることだった。徐々にではあるが、つらい体験をカメラの前にさらして下さったリョーコーさんの、たった一つの夢を叶えることができたら。そんなみんなが笑顔になれる場を作ることは、私たちの映画を見て、桜を見たいと思ってくださったファンの皆さんに対するお礼でもあるし、リョーコーさんが生きてきた地域の人たちに「少年時代の壮絶な体験」と理解していただく大きなチャンスでもある。だから特別無料上映会も組んだ。

 寒いから、野外では辺野古の由里船長手作りの豚汁をふるまった。高江のトディさんにはわざわざ本部の「波羅蜜」でしか食べられない売り切れ必死のスイーツを作ってきていただいたり、また同じ大宜味のコーヒー農家、大五郎さんのキザハコーヒーも破格値で提供してもらったりで、総勢200人を超える訪問客の皆さんには舌も胃袋も楽しんでいただけたようだ。

 肝心のリョーコーさんは、桜に囲まれた山の中腹の広場に「展望台」を去年から作ってくださっていて、桜だけではなく第一護郷隊が戦った八重岳や羽地内海が見渡せる絶景を私たちにプレゼントしてくれた。数日前にはコザの理容室で髪も整えて、手すりやロープもこつこつと強化し直して待っていてくださった。当日は少し雨交じりの曇り、時々晴。とにかく風が強くて寒かったのだが、11時ごろから続々と人が集まってきて、東京や名古屋から映画を見てきてくださった方々、リョーコーさんと久しぶりに再会する親戚、護郷隊の関係者と来客は途切れることはなく、1回目の映画上映は150人弱の人々で公民館はパンパンになってしまった。その様子は、今回は1分50秒の短い動画にしたのでぜひ見てほしい。

 終始笑顔のリョーコーさんを見ていて、去年夏、彼が私に電話で言った言葉を思い出した。

 「ぼくはね、三上さん。死んだ方とのおつきあいは上手なんだけどもね、生きている人とのおつきあいは上手じゃないんです。でも、映画のおかげで、最近は生きている人が多くお見えになるようになってね」

 リョーコーさんの一番大事な戦争体験を理解して、共有しようとしている人たちが次々と上がってきては、桜を見上げて歓声を上げている。「桜と、虫と一緒に暮らしているから寂しくはないんですよ」と言っていた初期のころの表情からは想像がつかないほど、朗らかな顔でリョーコーさんが笑っているのを見て、私は今まで味わったことがないような幸せを噛みしめていた。

 それは、リョーコーさんの気持ちが報われた瞬間を目の当たりにしたことが当然大きいのだが、実は、私の中で抱えきれなくなっていた大きな氷が春の日差しの中で少しずつ解けていくような、自分の解放でもあったのだと思う。たぶん私は、人を不幸にするために撮影してるんじゃないのに! と自分で自分に射た矢をはずすために、これをやらなければならなかったんだと気が付いた。そうか、彼のためと言いながら自分のためだったのかと、ちょっと恥ずかしくなったのだが、まあいいかどっちでも。たぶん二人とも今日は最高に幸せなんだから、と滲む桜を見ながらそう思った。

 そしてもう一つ、予想外に嬉しかったのは、第一護郷隊の隊長、村上治夫さんの娘さんと、その娘、つまりお孫さんの母娘が大阪からわざわざお見えになったことだった。少年兵から人気の高かった村上隊長については、映画公開後も個人の戦記などを調べているのだが、大人の兵士らの目からみてもかなりの人格者で、破天荒な「ラストサムライ」だったことがわかる。しかし、この映画では武人・村上ではなく、秘密戦を遂行した責任者としての側面を描いているため、ご遺族にとっては不本意だと思う。半分エンターテイメントの「青年将校と少年護郷隊」みたいな劇映画や漫画ができるなら、実際のエピソードをもとに隊長たちの活躍する台本を活劇調に書いてみたいほどだが、今回はできなかった。

 取材に協力してくださったのに申し訳ない気持ちでいたが、いくつか賞を頂いたことを報告した時、村上さんのご家族はことのほか喜んで下さり、孫娘に当たる敦子さんは「今ごろ祖父は天国で隊員たちと祝杯を挙げているかもしれませんね」とメッセージをくださった。護郷隊のことが世の中に伝わってよかった、と村上隊長本人があちらで再会したかつての部下たちと喜んでくれているとしたら、そんなに嬉しいことはない。

 「きっと村上隊長も、娘さんたちと一緒にここに来たかったのかもしれませんネ。来ていますよ、ここに」

 リョーコーさんもそう言って、目に見えないビッグゲストの来場をも喜んでいらした。加えてもう一つ、私の中で企てたいたずらがある。村上さんの娘さんたちが来てくれると聞いた数日前から、実は私も村上隊長が天国から娘さんと共に桜を見に来るんだな、と思ったので、それならリョーコーさんの第二護郷隊の隊長である岩波さんにも来てもらいたいと思ったのだ。岩波さんをあの世から呼ぶためにはどうしたらいいか。実は、昨年岩波さんのご子息から送っていただいた諏訪のリンゴがあり、最後の一つをもったいなくて食べられないでいた。それをリンゴマフィンにして会場に配ることにしたのだ。薄く切ったリンゴをバラの花びらのように重ねて飾ったマフィンは10個しかできなかったが、これで両隊長が参加してますね! とリョーコーさんに言うと、とても嬉しそうに笑って、岩波さんのマフィンを大事そうに食べて下さった。

 桜の山の中で大勢の笑顔に囲まれていたリョーコーさん。この初春の幸せな光景と、リョーコーさんが言ってくれた次の言葉。これを脳裏に反芻すれば、この先私が相当な困難に見舞われることがあっても乗り越えられると思えた。少年兵のカンヒザクラは、とっておきの贈り物を私にくれた。

 「皆さん、遠路はるばる来ていただいて、本当に感謝します。僕も三上監督の映画のおかげでね、この1年笑顔が増えたんですよ。この桜は来年も咲きますから。また笑顔で、お会いしましょう」

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)