国のかたちをデザインする(芳地隆之)

 2005年に始まったマガジン9は今年3月から15年目に入りました。当初は「マガジン9条」として、日本国憲法9条の精神をいかに生かすかについて、作家、学者、アーティストなど各方面で活躍されている方々へのインタビューを重ねてきました。

 それらをまとめた『みんなの9条』(集英社新書)を読むと、たとえば、先に亡くなられた橋本治さんは外交能力の問題として、辛淑玉さんは異文化共生の手段として、辻信一さんは経済成長神話の限界として、雨宮処凛さんは生きにくい時代の閉塞感として、実に多彩な視点から語ってくださっており、戦争放棄をうたった数行の条文がいかに私たちの発想を広げてくれるのがわかります。

 そんな9条を捨てる手はない、と私は思っているのですが、9条が常に憲法を巡る議論の中心になっていることは否めません。憲法と自衛隊の矛盾を克服するための護憲的改憲論など、9条のもつ平和主義を尊重しつつも改定の必要はあるという意見は、2017年8月の「マガ9編集部スタッフ座談会:あらためて『9条』の話をしよう」でも出されています。

 2月28日付「朝日新聞」に掲載された歴史社会学者・小熊英二さんの「論壇時評」(「この国のかたち タブーなき議論で再確定を」)では、韓国国会の文喜相議長による「天皇は元慰安婦に謝罪すべき」発言と、それに対する日本政府の撤回と謝罪の要求が取り上げられました。小熊さんは、日本政府が文議長の発言のどこか不適切なのかを明確にしていないことを指摘。ありえそうな理由として、①日本に謝罪すべき過去はない②神聖不可侵な天皇への不敬発言③現天皇に直接の戦争責任はない。また現憲法下の天皇は政治的機能がなく外交に関与できないから要求は不適切だ④こうした要求を正式の外交関係から離れた場で軽々しく行うべきではない、を挙げ、こう述べています。

 「私も③と④の理由から、議長の発言は不適切だと思う。だが、文議長は、日本政府が①と②の理由で謝罪要求したと受け止めたようだ。だから議長は、『謝罪する側が謝罪せず、私に謝罪しろとは何事か』と反発したのではないか」

 問題をややこしくしているのは、日本政府が批判の理由を説明することなく、文議長に「けしからん」と言っていることにあるのでしょう。小熊さんは「こんなことが起きるのは、日頃から天皇の地位や『国のかたち』を自由に議論して、共通了解を作っていないからだ」と書いています。

 小熊さんは「論壇時評」の冒頭で、高額なF35A戦闘機の購入で、自衛隊の整備費が減り、既存機の稼働率が下がっており、「日本政府は自国を守るために必要なものが何かを包括的・体系的に評価しないまま、ハードウェアを購入している」という米国の元海兵隊大佐の言葉を紹介しています。国を守るという肝心要のところさえ場当たり的な対応になっているのも、私たちが「この国のかたち」はどうあるべきかを議論してこなかったからではないでしょうか。

 「国のかたち」とは何か? はこれまでも語られてきました。しかしながら、「美しい国」とか「小さくともキラリと光る国」、あるいは「毅然とせよ」とか「世界の真ん中で咲き誇れ」みたいな、美辞麗句や変な命令口調の表現が多い。余計な形容を排してシンプルに考えるには憲法に戻ることが一番です。

 「9条をどう生かすか」から始まったマガジン9は、LGBTに対する偏見や差別は14条や24条、貧困は25条、国民投票は96条と、常に憲法と密接にかかわる問題を取り上げてきました。上述の日韓の摩擦は、天皇の地位と国民の主権を規定する1条が対象です。日本や日本を巡る諸問題を憲法と照らし合わせながら考えることで、「この国のかたち」が見えてくる。それは憲法をもって日本をデザインすることといえるかもしれません。

 そのための議論に多くの方々に加わっていただきたいですし、マガジン9が憲法を考えるためのプラットホームとして機能していけるよう応援してくださるとうれしく思います。

 私は、日本の各地方が自分のことは自分で決められるようになり、その集合体として国を成り立つ形をひとつの理想とみているのですが、国って、結構身近な存在だと思うのです。

 マガジン9で話し合ってみませんか。

(芳地隆之)

問題含みのイベントを返上することで、この国のかたちが見えてくるかもしれない