第91回:『沖縄スパイ戦史』番外編・護郷隊を描き、詠む 元少年兵・平良邦雄さん(三上智恵)

 昨年公開した映画『沖縄スパイ戦史』の制作にあたって、これまで記録されてこなかった多くの貴重な戦争証言に接することになった。しかし、映画の中に収めきれたのは、ほんの一部であり、それ以外の膨大な証言をそのまま放置するのは罪に当たる。そう思って一念発起し、証言集を出版することにした。

 目下、その原稿を執筆中なのだが、すでにあるインタビューを活字にするだけでもかなりの厚みになるのに、私の北部の沖縄戦を巡る興味はまだ暴走を続けていて、新たな取材や撮影が積み重なっている。そこで今回、2019年の慰霊の日が迫っているこの6月に合わせて『沖縄スパイ戦史』撮影以後に出会った元隊員の平良邦雄さんの新証言を映像と文章で紹介しようと思う。

 今年91歳になられる平良邦雄さんは、神奈川県厚木市在住。実は、那覇の映画館で『スパイ戦史』を見た甥御さんから私に連絡があり「内地にいるうちのおじさんも元護郷隊。相当面白い証言ができると思う」と紹介してくださった。そして邦雄さん直筆の絵をいくつか見せて頂いたのだが、鉛筆画で表現された密林の中のアジトの様子、夜な夜な飛んでくる日本の特攻機、陥落する恩納岳など、山中にいた護郷隊員でなければ見ることのできない光景が独特の写実的なタッチで描かれていて圧倒された。

 護郷隊の写真が一枚も残っていない中で、邦雄さんの絵は大変貴重だ。しかも、出身は大宜味村だが、関東に60年以上暮らしていて、記憶の中だけで描いたはずの恩納岳の姿、背負った爆弾の形や手榴弾の絵などが、どれも昨日のことのように鮮明に描かれていることに驚いてしまう。


 さらに、邦雄さんは戦争当時の心境を詠んだ短歌をかなりの数書き溜めていらっしゃって、一句ごとにそこに歌われる情景が時空を超えて空気感まで伝わってくるようだった。これはぜひ神奈川までお会いしに行かねばなるまい。私はすぐに邦雄さんに電話をした。すると、90歳というのは何かの間違いじゃないかというほどの、明瞭なやりとりができることにも驚かされた。ご本人も、護郷隊のことを話せるなら願ってもない、と喜んでくださった。

 もう一つ、極めつけが、護郷隊の資料などほぼ何もこの世に残っていない中で、邦雄さんは当時民間人のふりをするために着用していたご自分の子ども用の着物の現物をお持ちだった。その着物が持つストーリーがまた魅力的だ。その顛末はこうだ。

 護郷隊が解散し、16歳の邦雄さんは満身創痍で家族の避難する大宜味村の山に戻った。やがて米軍の掃討作戦に遭い、家族と共に民間人として投降しようとするが、やはり兵士だと疑われて捕虜収容所に入れられてしまう。姉たちはやせ細った弟の体を案じ「このままでは邦雄は収容所に入ってすぐ死んでしまうだろう。死んだらみんな一緒くたに土に埋められて骨を探すこともできない」と泣いて抵抗したが、弟と引き離されてしまった。諦めきれない姉たちは一計を案じ、弟を救出すべく邦雄さんのいる田井等収容所に「お菓子」とこの「子ども用の着物」を持って3人で乗り込んだ。そしてずっと下痢が止まらず骨と皮だけになった弟を見つけて、姉たちはすすり泣いたという。

姉達が 不意に訪れ 我見るや すすり泣きする 捕虜収容所

 しかし、すぐに作戦を決行。背の小さい邦雄さんに少年の着物を着せてお菓子を手に持たせ、それを食べながら姉に手を引かれて子どものふりをしてMP(軍の警察官)の前を堂々と素通りし、まんまと収容所を出た。そしてやってきたトラックに飛び乗って北を目指す。ところが、途中の何もないところで降ろされてしまった。

 邦雄さんは息も絶え絶えで、もう僕をこのままアダンの下に置いて行ってほしいと弱音を吐くが、姉たちは諦めない。そこに一台のジープがやって来た。一番下の18歳の姉が車上の将校たちに向かって親指を立て、ヒッチハイクのポーズをとる。すると女の子たち三人を見て喜んだ将校たちが「車に乗れ」と言ったのをいいことに邦雄さんを乗せようとした途端、その男に乗せられないと拒否されてしまう。姉たちは弟を毛布でぐるぐる巻きにして息だけできるようにし、これは荷物だ、と言い張って荷台に乗せた。そして二人の姉は邦雄さんの両脇に、若い姉は将校たちの「おだて役」に回って隣に座り、車を走らせた。将校たちのジープだったおかげで、要所要所の尋問も受けることなく、フリーパスで大宜味の隣の大保まで動けない弟を運んできたという。

 救出作戦を大成功に導いたこの着物を、命を救ってくれたお守りとして邦雄さんは神奈川の自宅に大切の保管していたのだ。当時は山にいる敗残兵たちも、住民たちの着物を民家から探して奪うように持ち帰り、軍服を脱いで民間人になりすまして身を潜めていた。しかし銃を持つ指のタコや、軍靴を履いていた足の白さ、うちなーぐちの問いかけに対する反応など、あらゆる点からチェックして、米軍は元兵士を見抜いていたという。

菓子を持ち 子供の如く 手をつなぎ MPすき見て そっと逃げ出る

 救出の話が先になったが、邦雄さんはもともと飛行兵に憧れる軍国少年だったという。少年飛行兵を目指して何度も試験を受けるも、低身長を理由に落とされていた。伊江島飛行場の建設に駆り出されていた時も、ゼロ戦で降り立った将校に憧れ、黙って機体に体を滑り込ませて操縦かんを握り尾翼を動かすなど、空の神兵になる日を夢見ていた。そのため護郷隊に召集された時も怖さは感じなかったという。

 沖縄戦前夜の1945年3月、大宜味村、国頭村、東村の少年たちは恩納村熱田にあった国民学校に集められた(現在の安富祖小中学校)。そして銃剣術やゲートルの巻き方、兵隊の基礎を叩きこまれ、特殊な爆薬の扱い方も教わった。その中には陸軍登戸研究所が開発した秘密兵器、秘匿名「ハハリウ」も含まれていたという。

 この「ハハリウ」は毒性が強かったらしく、雨に濡れた爆薬が手に着いたまま手づかみでものを食べたところ、すぐに一滴残らず吐いてしまったという。ほかにも黄色薬などで爆弾を作り、木に巻いて爆発させて倒し、米軍の戦車を止めるために道に置いたり、また橋脚に仕掛けて橋を壊したりして米軍の北上を防ごうとしたが、映画にもある通り、米軍のブルドーザーや橋を架ける施設部隊の装備は最新式で、あっという間に木を片付け、橋を架けてしまい、少年たちをいたく落胆させた。結局落ちた橋や道をふさぐ大木は、米軍に追われて避難する住民たちを困らせ、飢えさせる結果となっただけだった。

今生の 別れとなるや 初陣に 身の爪髪を せめて名残に

 邦雄さんの初陣は、石川岳の闘いだった。4月初頭に選抜隊に選ばれ、水盃と恩賜たばこをあたえられて「海ゆかば」を歌って送り出された。髪と爪を切って形見とし、それを炊事班の友人に預けて出陣したが、のちにこの炊事班の少年たちは、芋を拾いに行った畑で弾を浴び、邦雄さんの目の前で死んでしまう。遺品を預けた邦雄さんが逆に生き残った形だ。

 初陣の石川岳の激戦で命からがら生き延びた邦雄さんだが、彼はそこで嘉手納と読谷の二つの飛行場にいた特設飛行場大隊の兵士たちが敗退し、石川岳に逃げ込んできた一団と出会う。あえて上陸地点にとり残された悲運の第44飛行場大隊、56飛行場大隊およそ3000人はほぼ全滅の憂き目にあうが、500人ほどが何とか石川岳までたどり着いたようだ。生き延びて遊撃戦に加わるという名目で山に入ったものの、そんな力が残っている者は少なかった。闘う武器も食料もなく敗走してきた彼らの目には、岩波壽元隊長率いる少年兵たちのゲリラ部隊が輝いて見えた、と書かれた手記もある。

 邦雄さんはここで懐かしい人に遭遇した。それは、大宜味村にいた時、軍に供出する木材の伐採を手伝っていたころに可愛がってもらった渡辺中尉との再会だった。

 「この人は嘉手納かな、飛行部隊にいた。恩納岳に来るまでに将校服はもうボロボロになって、飯盒一つだけ持ってた。将校帽もない、軍刀もない、鉄砲もなくて。で、よく覚えていてくれて『君、平良くんじゃないか?』と。山の中で会った時はお腹がすいたとばかり言ってた。飯をくれと。支給された玄米があったから、飯盒の代わりに缶詰に紐をつけたもので炊いてあげたら、この人炊き終わらないうちに食べちゃった。熱いのを、生で。待ち切れなくて。飛行場がやられて恩納岳に来て、だけどあれは食べ物を探してきたようなもんで、もう兵隊らしくなかったよ。俺たち護郷隊の配下に配置されて」

 正規兵である飛行場大隊の生き残りたちの中で戦意のある兵は、この後岩波配下に入り、激戦となった眼鏡山、三角山の戦闘の前線に立ち、その多くが戦死した。生存者が少ない第44飛行場大隊の慰霊碑は、恩納村安富祖にある第二護郷隊の碑の隣にひっそり立っている。岩波隊長が戦後、悲遇の飛行場施設部隊の数少ない生存者にぜひ一緒に祀ってほしいと頼まれ、快諾したものだという。私は、毎年慰霊の日に第二護郷隊の関係者に会いたくてそこに行くが、第44飛行場大隊は、毎年住職がお一人でお経を読みに来るだけで、関係者の参拝に遭遇したことはない。生存者・遺族共にどれだけ少なかったのかを物語っているようで気の毒としか言いようがない。

 邦雄さんも証言しているが、このように中部から逃げ延びてきた飛行場部隊や海軍らで360人ほどだった第二護郷隊の恩納岳陣地はごった返して千人規模に膨れ上がり、用意した食料はすぐに底をついてしまった。そのため岩波隊長は恩納岳を諦めて北上する決断をし、一度それぞれの故郷に帰ってちゃんと食べながらまた集合をかけた時に集まろうと言って分散、事実上の解散となった。7月中旬のことだった。

 邦雄さんは言う。

 「この飛行場大隊が恩納岳に来てくれたおかげで、俺たちは死なないですんだ。彼らが全部僕らの食料も食べちゃってなくなったから、大隊長は移動の決断をした。そうでなければ、食べ物があったら、最後まで恩納岳に籠って戦って、みんな死んでいたと思うよ」

 少年兵らが憧れていた日本の軍隊は、彼らより先に戦意を失い、敗色を漂わせ、餓鬼と化しつつあった。炊事班が握り飯を運ぶと我先に、一粒でもコメが多い握り飯をめがけてあちこちから手が伸びてきたという。名護の多野岳にいた第一護郷隊も同様に敗走してきた八重岳の宇土部隊を山中で引き受け、食事は不足し混乱を招いた。大人なのにしっかりしろ、と不甲斐なく思った少年兵らの証言も多い。一方で、彼らのおかげで自分たちは撤退できた、とする邦雄さんの解釈は、皇軍の成れの果てをまざまざと見た元軍国少年の、せめてもの敬意と優しさなのだと思った。

敗走する護郷隊が陣地のあった恩納岳を振り返ってみた図。山全体が艦砲射撃を受け白煙が上がっていた。この中で残された仲間たちも絶命していた

朝夕に たったの一つ 握り飯 兵どもは 我先に手を

 第二護郷隊の死者は69人とされているが、戦闘で死んだものばかりではない。病気やそのほかの理由で生き延びることができなかったケースもあった。陣地内では赤痢も蔓延していた。代えもない軍服のズボンが真っ黒になっている者は、赤痢で血便が止まらないためで、赤痢だと一目でわかった。

 「塩屋出身の仲里弘…だっけかな。彼は赤痢でお尻から血が出て拭く暇もないから、小さな川のせせらぎにもう、ズボン降ろしたまま座ってた。恩納岳を撤退するときに、おい、一緒に行こうと何度も手を引こうとするんだけど、もう俺はだめだから、いいよ。ほって置いてくれって。先に行ってくれって」

 やがて邦雄さんも赤痢に罹患した。血便が止まらず、逃げるときにもズボンを上げている暇がないほどで、そんな情けない姿を軍医が見たのだろう。「君、赤痢じゃないか」と声を掛けられ、軍医はクレオソート(別命・征露丸:当時はロシアを征服するという意味でこの字が使われた)という薬をくれた。護郷隊には衛生兵もいなかったが、嘉手納飛行場から逃れてきた正規兵の第44飛行場大隊には軍医がいた。邦雄さんはそれで命拾いをしたが、あの赤痢の辛さだけは体験したものでないとわからない、という。

自画像

腹はへり 赤痢の辛さ 弾よりも 突如軍医の助け 神あり

 あとになって恩納岳の様子を見に戻った仲間から聞いた話だが、と前置きをしたうえで邦雄さんは言う。傷病兵たちはみんな自決していたと言うが、中には隊長たちに殺されたのも多かったのだろう、と。

 川沿いにたくさんの遺体が並んでいたという。それは負傷兵らが水を求めて川のそばに這いつくばって行って事切れたたものだと私は当初想像していたが、仲里君のように赤痢で動けなくなった少年たちも川辺から離れられなかったのだ。第二護郷隊の生存者が語る辛い記憶の中でも最も厳しいのが「隊長らによる最後の処置」の話であるが、もちろんそれは、一義的には負傷兵が敵の手に渡って秘密戦の情報が漏れることを恐れてのことだ。しかし、それだけではなく、助からない部下たちの苦しみを一瞬で終わらせてやるのも幹部の務めと、心を鬼にして引き金を引いたこともあったのかもしれない。

 部下を処置したとされる岩波隊長は、戦後11年たって初めて、船に乗って再び沖縄島を訪れた。そして第二護郷隊の慰霊祭に参列する遺族の姿に「只々、胸がふさぐ思いがした」と手記に書いている。そして隊員たちが歌う「護郷隊の歌」には「とめどなく涙が流れた」とある。その時、岩波隊長の心に去来した山中の記憶とは、いったいどんな場面だったのだろうか。

 陸軍中野学校出身のエリート将校とはいえ、弱冠23歳の若者であった岩波さんの脳裏に焼き付いて離れない悔恨の場面の中には、死にきれないでいるズボンを真っ黒にした子どもたちの姿や、部下を連れて逃げることを断念したあの日、銃に手をかけた残酷な光景があったのかと想像してみる。どんな反省や後悔や謝罪も届かない、どんなに自分を責めても一生掻き消すことができない重い記憶を抱えて生きることになった青年将校たちの戦後も、また想像を絶する過酷なものだったに違いない。

 恩納岳の陣地では、夜になると日本の特攻機の音が聞こえてきた。太平洋側の米軍艦船に突っ込む特攻機は恩納岳上空を通った。通り道だった。とても寂しい音だった、と邦雄さんは言う。今日もまた一人の少年が死んでいくのか。自分たちの運命も忘れて、操縦かんを握ったまま人生を終えていく飛行兵に思いをはせては涙を流していたという。

特攻の 片道きっぷ 爆音は 儚む命 寂しげにきこゆ

 邦雄さんの同級生で角力仲間だった大宜味朝光くんは、撤退する途中で仲間と芋を取りに行ったときに米軍にやられて亡くなった。最後に彼から水が欲しい、とせがまれた達雄くんの証言によると、「飲んだら死んでしまうから飲ませられない」と伝えても「飲ませないならお前らを殺す」と言われ、仕方なく飲ませてやると間もなく息を引き取ったという。

 彼が死ぬ前に、邦雄さんにこんな話をした。「邦雄、ぼくは裁縫針と糸を持っているんだ。これを母さんのお土産にしようと思う」と。もちろん、戦場にそんなものがあるはずはなかった。過酷な状況の下、意識が混濁する中にあっても、16歳の少年の優しさが向けられる相手は、常に母親であったのだろう。

 多くの少年兵が「お母さん、お母さん」と言いながら死んでいったという証言を聞くにつけ、息子の呼ぶ声を幻聴でもいいから聞こうと戦後も繰り返し山に入っていった母たちの、終わらぬ悲しみを思う。妻がいるものは妻の名前を呼んで死んでいったというが、息子を持つ身として思うのは、せめて嫁の名前を呼んで死んでくれたら幾分かましではないかということだ。恋愛もし、ひょっとして子宝も残していくなら良い方だ。生まれてわずか十数年、恋人に出会う青春もなく、母である自分を呼びながら苦しんで逝ってしまった姿を想像しただけで私は頭がおかしくなりそうだ。

昨夜の友 今宵は屍 土の墓 深夜の歩哨 悼みふるえる

 第二護郷隊が解散になって、それぞれが故郷の山を目指して分散していったが、邦雄さんは赤痢に加え、数カ月も脱ぐこともできない軍靴の靴ズレが悪化して化膿し、「足が腐った」ような状態になり、赤い肉が盛り上がって歩くこともできなくなった。米軍が、北上する敗残兵を捕まえようと布陣していた大保集落のあたりをようやく突破したころには、立つこともできず、横になっても骨だらけになった体が地面に当たって眠れなかった。

肉は落ち 骨は甍の波のごとし 背中になじむは 草の床のみ

 「大保から東村にいく道路は1本しかないから、横断しないと大宜味にはいけない。鉄砲を持ってるとなおさら危ない。俺は腐った足で、一人で横断するとき、隙を狙ってパッと2mくらいの幅の道路を越えてさっと入って、それですくんでおって、発砲されなかったから大丈夫だなと。その後もう歩けなくなって、倒れこんじゃったわけ。小屋があって、そこに入ったけど、骨が痛くて寝れなくて。だから草が一番楽だった。そこに偶然、故郷の子が通りかかったわけ。あぁ兄さんじゃないか、って言われ、歩けないんだって言ったら、家族の避難小屋は近くだからと報告にいってくれた。近くで歩けなくなっていると言ったのに、おふくろは『そこまで来たならここまで歩いてこい』って言ったそうだ。母は強しと思った」

 そして奇跡的な再会を喜び合った家族だったが、お母さんが出してくれる食事は何を食べても腹を下してしまい、どんどん細くなってミイラのような体になっていったという。そんな状態で7月、家族に抱えられるように山を下りていく邦雄さんは、手に持っていた黒砂糖の入ったお茶の缶が爆弾ではないかと疑われ、米兵に銃を向けられた。その時にお母さんは彼をかばって米兵に向かってこう叫んだ。

 「この子を殺すなら私も一緒に殺せ。いいよ、さあ撃ってみろ!」

 16歳でゲリラ兵として闘い、赤痢になって肋骨があらわになり、足はただれて肉が飛び出して歩けなくなった息子。何を食べさせても身にならずに衰弱する一方の息子を生かそうと必死だった母としては、この上目の前で息子を殺されるくらいなら何もかもいっぺんに終わらせてくれ、と思ったのだろう。そんな母を見ていた姉たちが、冒頭の弟救出作戦に乗り出していくのである。まるで映画のワンシーンのようなこれらのエピソードの中に、どれだけ悲惨な状況にあっても家族を思い、絶望せず、逞しく状況を跳ね返していく沖縄の人々の底力を感じることができる。

病む我を つれ去らんとする米兵に 母 身もかまわず 雄叫びさけぶ

 先月、邦雄さんを救出した3人の姉のうちの最後のお一人が他界された。お元気だと聞いていて、お話が聞けたらと思っていた矢先だっただけに非常に残念だった。しかしその法事があったために、邦雄さんはもう行けないかもしれないと話していた沖縄の土をまた踏むことになった。その機会をとらえて、私たちも安富祖小中学校や斬り込み入った万座毛など、当時邦雄さんが辿った足跡を一緒に回りながらお話を聞くという、またとないチャンスに恵まれた。今や護郷隊のおじいたちも90歳前後である。映画の中でも現場まで連れ出す形のインタビューは控えていたが、特別に足腰も達者でいらっしゃる邦雄さんならひょっとして、とお願いしたところ、ご自分としてもゆかりの地をこの機会に回りたいと快諾してくださった。

 恩納村で待ち合わせをしたところ、朝から辺野古や喜瀬武原を回ってからニコニコと安富祖公民館に現れた。そして日が暮れるまで精力的に目的の場所を探したり、今は米軍基地になって入山できない恩納岳を眺めたり、それぞれの場所で溢れ出るような証言をカメラの前でお話しになり、本当にありがたい機会となった。これも、お姉さんが今を生きる沖縄の子や孫たちに証言を残したいと、最後に作ってくれたチャンスだったのかもしれない。

 これまで沖縄戦を学ぶ中でもあまり光が当たらなかった護郷隊については、元少年兵たちの証言を記録するのも時間との闘いである。戦場で何度もピンチを切り抜けてきた強運の持ち主である平良邦雄さんが90歳を超えてもなおここまで元気で生かされているのはなぜなのか。まだまだ沖縄戦の中から大事なことが学ばれていない、貴重な体験を今こそ語れ、とあの世にいる仲間たちの手でこの世に留め置かれているのかもしれない、と私は思った。

 偶然が重なって私のカメラの前で堰を切ったように話す平良さんを見ていて、そういう私自身も大事なメッセージを届けたい後生(グソー)の人々の見えない力で動かされているに過ぎないのかもしれない。それならばこそ、この動画と文章をインターネットに残し、多くの人に伝えるお手伝いが出来たら本望だと思う。令和の時代に大事なメッセージを届けるべく、神々が守りぬいたある少年兵の記録として。

神を呼ぶ となえ祈るや 降る弾も うその如くに 我が身さけゆく

※絵と短歌は平良邦雄さんの作品です。無断転載は固くお断りいたします

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)