第496回:名付けられない空気の問題〜暴走する言葉〜の巻(雨宮処凛)

 台風被害が深刻な9月11日、第4次安倍第2次改造内閣が組閣された。

「千葉の惨状を放置して組閣かよ」という非難の声と同時に、その布陣にも疑問の声があちこちから上がっている。

 IT担当大臣が78歳の「はんこ議連」議員だったり、文科大臣がよりによって疑惑だらけの萩生田光一氏だったり、「気候変動問題はセクシー」発言で何かを極めた感がある小泉進次郎氏が環境大臣だったり。その上、今井絵理子氏が内閣府政務官に抜擢され、防災、原子力、宇宙開発、男女共同参画など17分野を担当するというのだからいろいろ不安でたまらない。

 だけどそういうことに対して、いちいち「本気で」怒る気力も湧いてこない。なぜなら、どれほど怒りを表明しようとも、政治に関心のない大多数の層からしたら、「意味不明な理由でギャーギャー文句を言うだけのヤバい奴」にしか見えないことを、嫌というほどわかっているからだ。

 「野党がクレーマーにしか見えない問題」もそうだけど、ここ数年、内容云々の前に「コミュニケーションの作法・様式」によって聞く耳をまったくもってもらえないどころか「おかしな人」扱いされるという現実に辟易している。

 例えば私は2006年からいろんなことに怒って運動をしているが、13年前、「怒ってる人」はここまでタブーな存在じゃなかった。少なくとも、「怒ってる」だけで引かれるような状況は今ほどなかったように思う。当時から「怒り」は「取り扱い注意」の感情だったけれど、「怒ってる人」はまだ許容され、正当な怒りを表明すればきっと誰かが賛同してくれると思えるくらいには、この社会への信頼があった気がする。だから、怒れた。

 しかし、今。

 例えば年金2000万円問題に怒る野党に、私の知人は「年金もらえないなんて前から分かりきってることなのに、そんなことで大騒ぎして仕事してるふりできる野党って楽だよなー」と、与党ではなく野党を批判し、呆れてみせる。怒っている人間、お上に逆らう人間、空気を読まない人間は嘲笑され、無視されるような空気。高校生が政治の話をしているとTweetすれば、文科大臣に「こうした行為は適切でしょうか?」と絡まれ、選挙でヤジを飛ばせば警察に排除される。発言の内容云々より、「感情をむき出しにしていること」「逆らうこと」「スマートじゃないこと」「洗練された作法でないこと」が憎まれる。

 そんな空気について、ずっと考えている。

 いつからこれほどに「怒る」ことはタブーとなったのか。そして、いつからこれほどに「変えられない」「何をしても無駄」という空気が強固に作られたのか。

 自分の運動歴から振り返ると、10年前、09年は派遣村で年が明けた。貧困問題が大きく注目され、それを放置し「自己責任」と突き放し続ける政府への怒りがその年9月の民主党への政権交代へと繋がった。

 11年には東日本大震災が起き、全国各地で脱原発デモが相次いだこの年は「市民デモ元年」なんて呼ばれた。翌12年には原発再稼働に反対して、毎週金曜日、10万人が官邸前に集まり、その現象は「紫陽花革命」と呼ばれた。「原発がメルトダウンして、民主主義が再稼働した」。そんなふうにこの現象を語る人もいた。

 15年には安保法制に反対する運動が広がり、国会前を10万人が埋め尽くすような光景が発生した。大学生や高校生も声を上げたことがメディアの注目も集めた。

 そうして、今。

 第二次安倍政権が始まって、7年。自分が以前のようには怒れなくなっているのを感じる。そもそもこの国で怒るには瞬発力を鍛えておくことが不可欠で、私はずっと鍛えてきたつもりだ。が、鍛えてきた瞬発力で怒ると、たちまち「言葉の通じないヤバい奴」扱いされるのを感じる。さっと引かれるのがわかるのだ。それを如実に感じるようになったのはここ数年のことである。

 そんなこんなを考えていて思い出したのは、16日に出版した『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』で対談した、批評家で元障害者ヘルパーの杉田俊介氏の言葉だ。

 「『権威主義パーソナリティ』とか『自発的隷従』という言葉がありますが、強い者、権威ある者の考えそうなことを下の人間が先回りしてやってしまう。わかりやすく言えば『忖度』ですね。権力者が命令してやらせるのではなくて、支配される側が自分からそれを正しいと思って実行するというのがポイントです。
 かつてハンナ・アーレントは、上官の命令に従ってユダヤ人の大量虐殺を実行したアイヒマンを『凡庸な悪』と形容しましたが、それよりも進んで、統治者が望みそうなことを勝手に推測して実行してしまう。まさに『忖度する悪』です。その結果、現実には社会的弱者に近い人でも、トランプや安倍晋三といった権威と一体化することで自分が優越した存在であるかのように思えるのかもしれません」

 忖度。災害を放置しての組閣。だけどそれほど高まらない怒りの声。それどころか声を上げる人を寄ってたかって叩くような風潮。

 きっと、何かのタガが外れているのだと思う。同時に、言葉が恐ろしいほどに軽くなっているのだと思う。

 例えば相模原事件から2ヶ月後、アナウンサーの長谷川豊氏は「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ! 無理だと泣くならそのまま殺せ!」とブログに書き、それは当然、大炎上したが、その後彼は、日本維新の会の公認候補となっている。そういうことに私は怒りを感じるけれど、もう怒っても無駄なのかもしれないとも思ってしまう。昨年の杉田水脈氏の「生産性」発言もそうだ。そうして丸山穂高氏の「戦争」発言。北方領土での発言のみならず、竹島についても「戦争で取り返すしかないんじゃないですか?」とTweetした。そんな丸山氏が入ったN国の政見放送や立花氏の発言の数々。

 言葉が暴走している。暴走しているのに、ひどく軽い。

 例えば映画『主戦場』を見た時、驚いたのは右派が使う言葉だ。それは私の全く知らない、だけど右派の間では広く共有されているロジックに満ちていて、同じ言葉を使っていてもまったく話が通じないような感覚に愕然とした。同じ日本語を使っているのに、話がまったく通じない。このようなことがこの国でかつてあっただろうか?

 一方で、リベラルと言われる人々が使う言葉にも疑問を感じることがある。

 例えばリベラル系の集会に行くと、ごくたまにだけど「安倍政治を許さない」と繰り返しているだけ、みたいな集会もある。それは完全に「身内の言葉」で、政治に無関心な層の心には何も響かないだろう。そんな時、言葉に対して「サボっている」と悲しくなる。

 最近、ある勉強会に参加して、日本がこの20年ほどでどれほど自己責任社会になったかという事実を改めて突きつけられた。私が物心ついた時に存在した「一億総中流社会」から、信じられないほどかけ離れた競争社会に私たちは住んでいる。もはやあの頃の日本は影も形もないような状況。そこでは他人はすべて競争相手で蹴落とす対象でしかない。「人の命を財源で語るな」。第二次安倍政権になってから、生活保護引き下げに抗議してそんな声を上げてきたけれど、年々その言葉が届かなくなっている理由もわかった気がした。

 そうしてふと思い出したのは、やはり『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』の一節だ。

 私との対談の中で、はからずも杉田俊介氏とソーシャルワーカーの向谷地生良氏は、まったく同じ出来事に言及している。それはAIをめぐる、あるエピソード。向谷地氏は以下のように言っている。

 「実は、あの事件の年の3月に、ひとつ記憶に残っていたニュースがあるんです。マイクロソフトが開発したAI(人工知能)の実験で、インターネットにAIを接続したら勝手に学習して、ユダヤ人のホロコーストを否定したり、ヒトラーを礼賛するような発言をするようになったので開発が中止されたというものです。なので、7月に相模原の事件が起きたとき、何がざわっとするものがあったんです。もしかしたらあの青年も、このAIと同じような影響を受けていたんじゃないかと」

 杉田氏は以下のように語っている。

 「彼が事件前後に書いているものを見ても、一貫性なくいろいろな主張をしていて、なんというか、彼自身がAIかBotのようにも思えます。ネット上を飛び交う言説を吸収してディープラーニング(深層学習)をくりかえすうちに、そういう発想を偶然持ってしまった、というような」

 「たとえば認知科学の分野では、二重構造論というのがあるそうです。人間の脳の中で、理性というのが非常にスローで、マニュアル対応しかできない。感情というのはそれに対して速く、かつ自動的に反応するので、人間の行動の中で一見非合理な現象というのは、理性と感情の反応速度の差が生み出すんだ、という議論です。人間というのはそういう二重構造がもともとあって、そのずれが人間として重要なのですが、グロテスクなマジョリティの人々は、そういうズレそのものを感じさせない。そこには理性的な判断がなく、非常に幼稚な感情とネット上の言説のデータベースが粗雑に直結されているような人格性。そういう感じがします。外部の情報環境に溢れる悪意を吸い込んで自分の思考に組み入れてしまう、AIのような人格というか。以前、AIをネットに接続したらヒトラーを礼賛するようになったというニュースがありましたね。そういうキメラ(複合生物)的な人格として、他人から見ると恣意的にしか見えない生命の線引きを、なぜか確信を持ってやってしまっている」

 なんとなく、言いたいことはわかって頂けるだろうか。

 私はずっと相模原事件がひっかかって仕方ないのだが、その理由のひとつに植松聖被告自身の存在が妙に空虚で、「実存」的な悩みや叫びが感じられないということがある。その点と、AIの話は妙に符合するのだ。彼はこの世界から何かを「受信」してしまったのだろうか。そして昨今の、暴走する言葉を吐く人も。

 いろんな悪意が溢れている。ネットにも、リアルにも。そこには様々な陰謀論も転がっていれば、歴史修正主義も猛威を振るっている。

 そうして今、私たちの前に広がっているのは、たとえそれがフェイクだとわかっていても、「見たいものしか見たくない。信じたいものしか信じない」という「決意」の前に、「真実」は無力だという事実だったりもする。

 データや根拠を示せばいいと楽観的に信じていたけれど、今やそれすら無意味になっているのを感じる。最近、精神科医の香山リカさんがTwitterで徴用工の話を書いたことをご存知だろうか。香山氏の亡き父親が過去、徴用工が虐待されているのを見たという話だ。そのTweetに対して「嘘つき」などのコメントが押し寄せた。「証拠を出せ」という人に香山氏が徴用工についての本を紹介したところ、「本は証拠として弱い」「時間を有意義に使いたいから読まない」という反応だったという。

 そういう空気の中で、丁寧な調査報道とか、真実を探るルポルタージュとかがどんどん無力化されているような気がする。言葉は軽くなり、一方では暴走し、AIにディープラーニングをさせればヒトラーを礼賛するような世界で、何をどうしてどうやったら今の異常さを伝えられるのか、もはや途方に暮れている。

 なんだかものすごく抽象的なことばかりの原稿になってしまった。

 だけど今、私が一番ヤバいと思うのは、「〇〇問題」と一言では決して名付けられようもない、こういう問題である。バラバラに存在する、だけど絶対に無関係ではないものたちの関連が、私たちに日々与える影響について、である。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。