第499回:台東区が避難所にホームレス受け入れ拒否。の巻(雨宮処凛)

 「地球史上最大規模」とも言われた台風19号が関東に迫る中、信じられないことが起きた。

 関東が暴風雨と大雨に晒されていた10月12日、東京都・台東区の避難所で、ホームレスの人が受け入れを断られたのだ。ホームレス支援をしている一般社団法人あじいるがその件をネットで発信すると、瞬く間に拡散された。受け入れ拒否の理由は区民が優先、住所がないから、など。あじいるのtweetにはこうある。

 「台東区長が本部長の台東区災害対策本部に問い合わせると、『今後避難準備・避難勧告が出る可能性があるが、ホームレス(住所不定者)については、避難所は利用できないことを対策本部で決定済み』と言われました。事実上、台東区の災害対策は、ホームレスを排除しています」

 台風接近を受けて、ここ数日ずっと「命を守る行動を」という言葉を耳にしてきた。「とにかく命が最優先」「危険を感じた場合はすぐに避難すること」「安全な場所に身を置くこと」。

 ホームレスの人たちは、その「安全な場所」をもっとも確保しづらい人たちだ。今回の台風到来を受け、多くの人が窓ガラスに養生テーブを貼るなどして補強したが、彼らにはまず家がない。行きつけのネットカフェだって閉まっているかもしれないし、ダンボールハウスなどがあったとしても台風ではひとたまりもないだろう。だからこそ、「命を大切に」して避難所に行ったのである。しかし、彼らはそもそも「命」にカウントされていなかった――。結局は、そういうことではないだろうか。避難所に断られた人は、建物の下でビニール傘を広げて一晩を過ごしたという。

 愕然としながらも、この国の「変わらなさ」に遠い目になった。

 思い出したのは、10年くらい前の出来事だ。2007年の台風だったろうか、やはり川が氾濫し、川沿いに住んでいたホームレスの人々の小屋が流され、何人かが遺体で発見されるという痛ましいことがあった。私はそのことをワイドショーで知ったのだが、絶句したのは、小屋ごと流されるホームレスの人々の映像を見て、出演者たちが笑っていたことだった。「やれやれ、困ったもんだな」というような、呆れた笑い方。しかし、画面に映し出されているのは、命の危機が迫っている状況である。しかも死者が出ていて、必死に小屋にしがみついているその人は、死者となった一人かもしれないのだ。

 それにもかかわらず彼らは笑っていて、その様子が全国に放送されていた。なんだか見てはいけないものを見た気がした。番組の最後には、そのことに対して謝罪か何かがあるかと思ったら何もなくて、次の日も次の日も、釈明も謝罪も何もなかった。私はだんだん、自分がおかしいのかもしれないという気持ちになってきて、その出来事を忘れようとした。「見なかったこと」にしたかった。だけど、台東区の一件を知って、あのワイドショーで見た光景がまざまざと蘇った。この国の一部の人にとって、ホームレスの死は、笑い事であるらしい。

 そういう状況に対して、どこから何を言えばいいのか、戸惑っている。

 なぜなら、ネット上には、避難所に拒否されたことに関して「台東区、ひどい!」という声もあれば、「納税してないんだから当たり前」という声もあるからだ。

 が、例えば、災害救助法と照らし合わせると、台東区の対応はアウトである。同法では、現在地救助の原則を定めているからで、住所があるかどうかなどは関係ない。災害対策基本法も「人命最優先」を掲げている。憲法に照らしても当然アウトだろう。

 だけど、「ホームレスを避難所に入れないのは正しい」と思う人たちに、そういうことを言っても意味がない気がするのだ。聞く耳を持ってもらえそうな言い方としては、「このような対応は、台東区が世界から批判される大ニュースになる」といったところだろう。だけど、それじゃダメだと思うのだ。「これをやったら自分の立場が危うくなる、批判されるからやらない」というのは、例えばセクハラの何が問題かはまったくわかっていないけれど、とりあえず保身のためにしない、というのと同じである。そのあたりが「はじめの一歩」かもしれないが、このようなことを考えると、「自身の中にある、差別とすら気づいていないほど根深い差別」を自覚することの難しさに頭を抱えたくなってしまう。

 そういえば、年越し派遣村の時にも「ホームレスもいるじゃないか」という批判があった。

 わざわざ正月休みの中、派遣村に寄付金や食料を持参してくれるほどの「善意の人」がそう口にしたのだ。だけど、派遣村に来た人とホームレスの違いはなんだろう? 一言でいえば、家がないという意味では全員がホームレスである。しかし、批判する人は、数日前に職と住む場所を失くした人と、数ヶ月前、数年前に失くした人を分けたがるのである。そして前者は「社会の犠牲者」だが、後者は「好きでやってる」と勝手に決めつけるのである。当人に話を聞きもせずに。

 そうして、失業者とホームレスを線引きする。その線引きは、「助ける価値がある人とない人」という線引きだ。一言でいうと、「命の選別」だ。だけど、当の本人は、自分がそんなに恐ろしいことを口にしている自覚などない。避難所受け入れを拒否した職員だってそうだろう。殺意があるわけでもなく、「死ね」と思っているわけでもない。ただ、面倒だからとにかくいなくなってほしいのだろう。断れば、どこか別の場所に行くと思っているのかもしれない。

 しかし、災害時の避難所は、そこで断られたら命を落とす確率が高い場所だ。台風の中、すでに別の場所に行く時間的猶予などない。そんなこと、少し考えればわかるのだ。わかるけれど、なぜか一部の人に対しては、そういう想像力を働かせなくてもいいことになっている。明文化されていなくても、そういうルールができている。日頃の台東区の職員間のコミュニケーションの中で、そういう空気ができている。そういうことではないだろうか。だからこそ、今回のようなことが起きたのではないだろうか。現場がたまたま避難所で、台風という災害時だったらからこそ、こうやって注目されただけで、このような「命の選別」は、普段から当たり前にあったのではないだろうか。

 非常時には、平時に行われていることが剥き出しになる。今のところ、他の区ではホームレス排除はなかったらしく、そこは胸をなで下ろしている。

 さて、北九州の「抱樸」というNPO法人がある。そこでは奥田知志さんという牧師さんが30年間にわたってホームレス支援をしている。私は奥田さんを心底尊敬しているのだが、そんな奥田さんたちが炊き出しをする時のテントには、大きな字で「おんなじいのち」とひらがなで書かれている。

 なぜ、「おんなじいのち」なのだろう?

 今回のことが起きるまで、ずっとそう思っていた。いや、もちろん意味はわかる。ホームレスだろうがなんだろうが、人はみな「おんなじいのち」と言いたいのだろう。だけど、そんなに大きく書くほどのことなのかな。どこかでそう思っていた。しかし、今回のことを通して、痛感した。「おんなじいのち」と、常に声を大にして、テントにも大きく書いておかないと、そんなことすら理解してもらえない。同じ命という扱いを受けられない。それが、この国のホームレスを巡る実態なのだ。

 ヘイトスピーチやLGBT差別に対して、私たちの意識はこの数年で大きく変わった。少なくとも、差別や偏見に敏感でいなければいけないという意識は共有された。だけど、ホームレスをめぐる視線はどうだろう。私はちっとも変わっていないと思うのだ。17年には、TBSの番組で、あるホームレス男性が「人間の皮をかぶった化け物」などと名付けられて報じられ、大きな問題となった。その後、番組は倫理違反があったとして謝罪した。

 台風が来る前の10月10日、れいわ新選組の木村英子議員と舩後靖彦議員が主催した院内集会に行った。

 この集会には、憲政史上初めて視覚障害を持つ国会議員となった堀利和氏が参加していて、堀氏はある言葉を紹介した。

 「ある社会がその構成員のいくらかの人々を締め出すような場合、それは、もろく弱い社会である」

 障害者をめぐる運動の中で出てきた言葉らしいが、これは障害者に限らず多くの人にあてはまるだろう。

 そんな台風が関東に大打撃を与える中、安倍政権はびっくりするほど何もせず、13日にやっと対策本部を立ち上げた。が、被害はますます拡大し、いまだ死者・行方不明は増え続けている状態だ。

 台風報道を見ていて驚いたのは、ずーっと以前、もう10年以上前から指摘されている「避難所のプライバシー問題」と「ペット同伴問題」がまったくと言っていいほど改善されていないことだ。

 これこそ政治が率先して取り組むべきことだと思うのだが、「国民の命」は、この国において、随分軽いようである。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。