『満鉄全史「国策会社」の全貌』(加藤聖文著/講談社学術文庫)

 南満洲鉄道株式会社、通称満鉄が設立されたのは1906年11月26日。日露戦争が終わった翌年のことだ。それから日本が第二次世界大戦で降伏する1945年8月15日までの40年弱の満鉄の歴史を描いたのが本書である。
 満鉄研究は膨大な数を及ぶ。私自身もそれなりの文献を渉猟し、理解をしてきたつもりなのだが、なかなか通史としてみることが難しい。満鉄、もしくはその周辺に現れる傑物に引きずられてしまうからだ。
 たとえば台湾総督府民政長官を経て、満鉄の初代理事長に就任した後藤新平。スケールの大きな構想力から「大風呂敷」の異名をとった彼は隣国ロシアとの関係を重視した。あるいは奉天(現瀋陽市)郊外の柳条湖で満鉄本線を爆破し、これを軍閥・張学良の仕業として満洲を支配下に置いた石原莞爾。その満洲事変後、日中戦争の拡大には異を唱え、世界を文明間の対立とみなす『最終戦争論』を記すも、軍部に疎ましがられ予備役にされた。そして満鉄総裁となる松岡洋右。13歳で渡米し、米国の大学を卒業後、外務省、満鉄理事、副社長などを歴任。外務大臣の時は自らの意に反する日本の国連脱退を表明し、日本の孤立を進めた。
 彼らを横串で通してみる。しかし、満洲の全体像は見えない。著者が述べる通り、「満洲支配は何ら統一された意思も構想も実行もないまま、さまざまな矛盾を抱えながら進められ、そして破綻していった」からだ。そして満鉄は「その時々の政治情勢の影響を受けながら対立と協調と支配を繰り返すこと」になった。
 その影響なるものが「国策」である。日露戦争後、ロシアの租借地であった遼東半島と東清鉄道南部支線(満洲を東西に横断する同鉄道がさらに南部の旅順に伸びた部分)を得てスタートした満鉄は、中国東北地方の開発を担う立場から、満洲国誕生以降は統治機能を果たそうとするも挫折する。迷走のなかで突出した個性が現れては消えていき、実質的な支配力を強めていったのは満洲国産業部次長・総務庁次長の岸信介に代表される官僚であった。リーダーなき満洲国はやがて瓦解する。
 本書は新たな史実、これまでなされなかった分析、従来の定説と思われていたものの見直しなど、多く発見をもたらしてくれるが、中国国内では閲覧を許されない資料が少なくないという。大陸に進出した日本人は何をしようとしていたのか。あの時代を掘り下げていかない限り、私たちに未来の東アジアは見えてこないだろう。

(芳地隆之)


満鉄全史「国策会社」の全貌
(加藤聖文著/講談社学術文庫)

※アマゾンにリンクしています

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!