『空腹ねずみと満腹ねずみ』(ティムール・ヴェルメシュ著 森内薫訳/河出書房新社)

 ドイツの民放報道番組『苦界に天使』のリポーターを務めるタレント、ナデシュ・ハッケンブッシュが、アフリカにある世界最大の難民キャンプに渋々取材に向かうところから話は始まる。彼女に同行するのはテレビ局のクルー、そして雑誌『イヴァンジェリーナ』のライター、アストリッド・フォン・ロエル。同誌に記事を寄せる彼女は、ナデシュの魅力をウェットに、そしてかなり「盛って」語る。

 難民キャンプに到着したナデシュは当初、テントから外へ出ようとしなかった。ところが、突然何かの啓示を受けたかのように、彼女は難民キャンプの青年・ライオネルと手に手をとり、ドイツへ向けて大行進を始めるのである。

 アストリッドの情緒を込めて描く本人像に彼女が追いつき、そして追い越していくかのようだ。テレビ局は、「マライカ」(スワヒリ語で「天使」の意味。ライオネルが名づけた)のナデシュが難民を率いて進んでいくさまをドキュメンタリー風に放映する。視聴率はうなぎのぼり。ディレクターの社内での出世も間違いなし。 

 前半の展開から、読者は2015年に中東やアフリカから南東欧諸国を経由してドイツを目指した難民たちや、乗っていた木造船が黒海で難破してトルコの海岸に打ち上げられたシリアの3歳の少女のことを思い出しながら、2018年に中米諸国を発って徒歩で米国に向かった難民キャラバンの光景を連想するだろう。

 難民の数は、スタート時の15万人から行く先々で人々を吸収しながら膨らんでいく。道中での水や食料の調達、排せつ物の処理などはライオネルの仕事だ。彼は機敏に対応し、難民相手に商売をするブローカーとも切った張ったの交渉を行う。

 ドイツ連邦政府が本格的に介入を始めるのは、ナデシュたちがトルコを通過するころからである。

 そこでは登場人物たちの思惑が錯綜する。語り手が目まぐるしく変わるにもかかわらず、読者を混乱させず、物語に引き付けるのは、作者・ヴェルメシュが長くゴーストライターを務めていたからか、登場人物たちに憑依するかのような描写のおかげだ。その力量は、アドルフ・ヒトラーを一人称で語らせた前作『帰ってきたヒトラー』で証明済みだが、本作ではドイツの女性タレント、テレビ・ディレクター、連邦内務大臣らに加えて、アフリカの難民やトルコの官僚まで登場人物が多岐にわたるものの、彼ら、彼女らがリアリティを損なうことはない。

 翻訳者の力量も大いに評価されるべきだろう。連邦内務省の事務次官が同性の恋人と戯れながら、この問題に考えを巡らすところで、頭の中で言葉が入り乱れていくシーンは傑作である。ドイツ語のユーモアをよくぞここまで日本語に置き換えたものだと感心する。

 素晴らしい翻訳のおかげで、700ページ近くに及ぶ本書が放つ、ときにブラックな笑いに身をよじりながら読み進んでいくうちに、先頭集団はドイツとオーストリアの国境に到着する。そのとき、難民の数は30万人、隊列は50キロメートルにまで伸びていた。

 そこで迎える壮絶なラスト。読者は言葉を失うに違いない。

(芳地隆之)



『空腹ねずみと満腹ねずみ』(上)(下)
(ティムール・ヴェルメシュ著 森内薫訳/河出書房新社)

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