もしかしてコロナ?!PCR検査騒動記(田端薫)

 緊急事態宣言が解除されてまもなく、夫が言った。「熱が出た、頭も痛い」。ずっと床屋に行けなくて伸び放題のぼさぼさ頭、何度も洗って毛羽立ったマスク姿の夫からは、不穏な気配が漂ってくる。すわっ、コロナか? ここ数ヶ月近所の散歩と歯医者、八百屋へ出かけるくらいで、外出自粛の優等生だったのに……。

 熱は37.5から38度の間と微妙なラインを行き来している。翌日、近所のかかりつけ医を受診してレントゲン検査と血液検査を受ける。結果、肺に異常はなく、血液検査でも細菌感染を疑う数値は見られない。たぶん気管支炎でしょうとの診断を受けて帰宅した。

 4日後、発熱と息切れなどが収まらない、というので再び受診。症状は軽微なものの、新型ウイルスによる感染症との疑いは否定しきれない。PCR検査を受けられないかと申し出たところ、数ヶ所あたってくれた。だがそのすべてがドライブスルー。うちに車はない。「自家用車のない人はどうすればいいのでしょう」と聞くと、ドクターは言った。「症状が悪くなったら、救急車を呼んでください」。車を持っているか否かで、検査を受けられるか否かが決まる? もしかしたら、それが生死の分かれ目になるかも知れないのに……。

 納得がいかず、自治体の相談センターへ電話したり、かかりつけ医に再度交渉したりの末、自治体が指定した専用の車(おそらく介護タクシーとか民間救急車の転用?)で、地区の医師会がお寺の駐車場に設けた検体採取場でドライブスルー検査を受けられることとなった。発熱から1週間。濃厚接触者として息を潜めていた私も、ようやく肩の力が抜けた。

 なぜこれほど検査へのハードルが高いのだろう。なぜ日本ではPCR検査が極端に少ないのだろう。3ヶ月以上も延々と続くこの素朴な疑問の答えは、いまだ不明なままだ。

 「陽性者が増えたら医療崩壊する」「検査技師は過労死寸前、キャパシティ満杯」「検査は治療のために絞るべき。安心のための検査は有害無益」「ワイドショーにあおられて、神経症になっているだけ」などなど、検査の拡充を求める世論に対して、政権擁護派のみならず、様々な方面から異論が噴出した。

 その論争は、3・11後の放射能被曝を巡る言い争いを思いおこさせる。専門家のいうことがばらばらで、誰を信じていいのかわからない。数字やグラフは山のように出ているが、で、どうなの? と素人は頭を抱えるばかり。

 「正しく恐れる」。3・11の時もさんざん言われた言葉だ。「御用学者」派も「放射脳(汚染を過剰におそれ、不安をあおる)」と呼ばれた人たちも、双方が競い合うようにこの言葉を使った。「メディア・リテラシー」も耳にたこができるほど聞かされた。科学的ファクトに基づいて、感情やイデオロギー、先入観にとらわれず、情報を見極めよ、と。

 「安全と安心」も悩ましい。「安全は科学的ファクトだが、安心は気持ちの問題。ゼロリスクなんてありえない。むやみに恐れるのはカルト」という文脈で使われることがしばしばあったからだ。

 震災後、私を混乱させたこれらの言葉が、再びよみがえってくる。

 思うに、これまで私たちは「念のため検査しましょう」とか「一応抗生物質を出しておきます」とか、安心のための過剰医療にならされてきたのではないか。ここに来て急に「検査は必要最低限に」と言われても、戸惑うばかりだ。

 そうかといって、スポーツの試合再開のために、一律に定期的に選手に検査をして、安全性をアピールするというのも、妥当なのだろうか。PCRにしろ、抗原・抗体検査にしろ、それが社会にでるための条件になり、「陰性証明書がなければ出社するな」「陰性証明がでているのなら、体調が悪くても出社しろ」「証明書のない人は入店お断り」など、差別や排除に利用される社会もごめんだ。

 一方、職場の上司に「検査はするな」といわれたという話も聞いた。ある飲食店の従業員が「熱があるので、コロナかもしれない、休ませて欲しい」と申し出たところ、「たいした熱じゃないんだろう、黙っていればわからない。もしコロナだとわかったら店を閉めなければならない。大ごとになる」と、受診を止められたという。感染者を非国民扱いし、謝罪させる空気が、検査を思い止まらせ、その結果じわじわと水面下で感染は広がる。

 「検査を受けてはっきりさせたい」という気持ちと「陽性がわかったら叩かれる、あいまいなままやり過ごそう」という迷い。その双方の間で揺れながら、コロナカオスは続く。

 ちなみに夫の検査結果は陰性でした。お騒がせしました。

(田端薫)