第5回:ふくしまからの日記③(渡辺一枝)

 今回の「一枝通信」は、前回も書いた4月19・20日の福島行きについて、書き切れなかった分の報告です。19日は、いつものように福島駅で今野寿美雄さんにピックアップして貰い、国道114号線で、まず浪江に向かいました。浪江に行くたびに、変貌していく町の姿を目の当たりにして、「復興」とは何だろうと思います。19日の夜から訪れたいわき市での報告も、あわせてお読みください。

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4月19日(月)道の駅なみえ

 19日は富岡町の板倉正雄さんを訪問する前に、浪江町の「道の駅」で昼食を済ませた。
 2020年8月にオープンした「道の駅なみえ」は、木材をふんだんに使った平屋建て。館内は明るく心地よい空間で、野菜、海産物など産直品の販売所、焼き立てのパン工房、フードコートの他にキッズスペースや会議室を備えている。今年3月には併設の2号館も新たにオープンし、「なみえの技・なりわい館」と銘打って、地元の酒蔵である鈴木酒造店と大堀相馬焼協同組合の窯元がここで事業を再開し、商品を販売している。

銘酒「ただいま」

 鈴木酒造店は被災前には浪江町請戸の海岸近くに在ったが、3・11の津波で酒蔵は倒壊し、避難先の山形県長井で、2011年11月から鈴木酒造店長井蔵として酒造りを再開していた。「道の駅なみえ」が出来る時に、地場産品を売る事業者として出店を希望し、被災から10年目のこの春、故郷での事業再開が叶った。
 私が初めて請戸に行ったのは2011年の秋だったが、辺りは津波被害の爪痕がそのまま残っていた。倒壊した建物跡に転がった酒瓶を見た時、「ここは酒屋だったんだよ」と案内してくれた人が言った。それは壊れた防潮堤のすぐ間近で、こんな海辺りに酒蔵が在ったことに、とても驚いた。それから間も無くのことだったと思うが、津波で全壊した酒造店が避難先の山形で事業を再開したという新聞記事を読んで、それが請戸で私が見た店のことだと知った。私自身はアルコールと縁の無い生活なので、それは記憶のヒダに畳まれたままで忘れていたのだが、この日に「道の駅なみえ」2号館に行って思い出した。
 鈴木酒造店は江戸時代から続く老舗だそうで、当主であり杜氏でもある鈴木大介さんは、研究施設に預けてあった「磐城壽」の酵母菌が無事であることを被災後に知って、酒蔵の再開を決意したという。「磐城壽」は漁港のこの町で、祝い酒として船乗りたちに好まれていたという。鈴木さんは、山形県の長井に後継者が居なくて閉じていた酒造会社を紹介されてそこを買い取り、鈴木酒造店長井蔵として事業を再開したのだった。そしてこの春、鈴木酒造店請戸本蔵として故郷で復活した。故郷での事業再開にあたって、新たに「ただいま」という銘柄の酒を造ったが、そこには生業を継続できることが復興だとの思いが籠っている。請戸本蔵では銘酒「磐城壽」や「ただいま」など酒類の試飲ができる。

大堀相馬焼

 浪江町の名産品の一つである陶器、大堀相馬焼は独特の二重焼(ふたえやき)の技法と「走り駒」の絵、青ヒビが特徴だ。二重焼というのはロクロで成形する時に外側と内側の2枚を作り、焼く前に被せて一つにするというもの。二重なので熱いお茶が入った湯呑みを持っても熱さを感じず、しかもお茶は冷めにくい。外側にすかしが入っているので、見た目も非常に凝っている。伝統祭事の「相馬野馬追」に因んでいるのだろう「走り駒」が描かれている。成形後に鉄分を含んだ釉薬をかけ、焼いた後で冷やすことで表面に生じる不定形なヒビに墨を塗り込む。ヒビは黒く見えるが、青ヒビと呼ぶ。
 被災前には23の窯元が在った大堀地区は原発事故により帰還困難区域となり、作陶家たちも避難を余儀なくされた。協同組合と一部の作陶関係者は、避難先の二本松市で「陶芸の杜おおぼり 二本松工房」を開き、他にも避難先で再開した人もいるが、再開できた窯元は被災前の半数に満たない。「道の駅なみえ」2号館の商品棚には、事業を再開している作陶家たちの作品が並んでいた。またここにはガス窯と電気窯を設置した窯場も設けられ、希望者は作陶体験ができ、窯元が交代で指導にあたっているそうだ。

4月19日(月)9年目の津波

学校解体

 「道の駅なみえ」は、たいそう賑わっていた。観光客なのか、住民が避難先から一時帰宅で立ち寄った人たちなのかは判らないが、浪江で暮らしている人たちではなさそうだった。
 昼食を済ませて道の駅を出ると、町に人の気配は無かった。
 浪江中学は、解体作業の最中だった。町内の学校解体のニュースが報じられた時、町民の中から解体前に閉校式をしたいという声が上がった。原発事故は卒業式を控えていた時期だったから、学舎や級友たちとの別れもできぬままの避難だった。子どもたちの親、またその親も、という具合に町の人たちは、世代を超えて各学校に尽きぬ思い出がある。解体は仕方ないこととしても、せめてお別れの場を持って気持ちの整理をしたかっただろう。閉校式をするまで解体を待って欲しいと、急遽署名も集められた。だが待ったなしに、事業計画通りに解体は進められていった。

浪江中学の解体作業現場

どこもかも更地に

 町の中は、どこもかも更地になっていった。
 「ここが堀川さんの家があったところです」。案内してくれていた今野さんが指したところは一面に砂利が敷かれていて、そこにかつては人の暮らしがあった痕跡は皆無だった。ここで学習塾をやっていた堀川文夫さんは、伝手も知り合いも居ない富士市に避難した。
 今野さんはまた「ここは美和子さんの家」と、堀川さんの家の跡地に繋がる更地を指して言った。井上美和子さんの実家があった場所には、枝ぶりの良い梅の木がただ一本立つばかりだった。結婚して実家を出て南相馬に住んでいた美和子さんは、今は避難先の京都に居る。やはり避難している父親から家の解体の相談を受けた時に、もう戻ることのできない浪江だと思ったので「みんな無くしても良いよ」と一旦は返事をしたが、思い返して解体業者が入った日に「あの梅の木だけは残して」と頼み、そして梅の木は残った。門の脇にあった梅の木、学校への行き帰り、いつも目にしてきた梅の木だ。梅の木が残ったから、「ここが私の家だった」と思い起こせる。何も無くなってしまったら、どこに家があったかも判らなくなる。そこで生きた日々も消されてしまうように思える。美和子さんの浪江での日々は、梅の木に確かに刻まれて残された。
 今野さんの家の跡にも行った。更地の片隅に、黄水仙が咲いていた。解体前の、まだここに建物の在った時にも何度か訪ね、中に入らせても頂いた。ここで生まれた息子の命名書が、壁に貼ってあった。今野さん自作のウッドデッキがあり、同じ年頃の子どものいる近所の人たちとバーベキューをした日々を、懐かしく語ってくれた今野さんだった。解体中の、ユンボがその家を壊していく様も見てきた。容易に崩れないのはしっかりと耐震構造にしたからだと今野さんは言ったが、私には不条理に抗う家の意思だと思えた。
 浪江の町はどこもかも更地になっていった。環境省は、2018年3月末までに解体申請したら費用は国が持つが、それ以降は自費でと通達した。2019年、20年には、町中のそこここで工事用車両が動いていた。そして家々は消されていった。今野さんはその様を、「9年目の津波」と言った。

なみえ水素タウン構想

 浪江中学の解体現場の前に、「立ち入り禁止、火気厳禁」と赤地に白抜き文字の看板があった。またその隣には、「浪江町水素エネルギー活用促進に向けた柱状パイプラインによる輸送実証実験場」の看板があった。そこには1本の細い柱が立っていて、柱の上部に結んだパイプが延びて、その先のどこかに繋がっていた。看板が立っているだけで柵など無いから、見ただけではこの柱やパイプのどこが危険なのかは判らない。パイプは何本かあって、仔細に見るとそれぞれ太さが違う。高い位置にあるので目視ではよく判らないが、太い線は親指程度、細い方は小指ほどの太さのようだ。これらは、水素を流すパイプだという。
 浪江町が掲げる復興計画の一環に「単なる復旧ではなく新しい試み」として企業誘致があり、町内に3ヶ所の産業団地を整備している。その一つの棚塩産業団地は、元々は東北電力の「浪江・小高原子力発電所」建設用地だった場所だ。しかし地域住民の反対が強く、また当時は女川原発も稼働していたことから東北電力は計画断念を表明し、浪江側の発電所用地を町に無償譲渡していた。そして2011年3月、東電福島原発事故が起きると浪江町議会は原発誘致を白紙撤回したのだった。
 原子力で被害を受けた浪江町は「なみえ水素タウン構想」を打ち出して、新しいエネルギー、水素での復興まちづくりを目指すという。そして棚塩地区には水素製造装置の「福島水素エネルギー研究フィールド(通称「FH2R」)」が建設され、2020年3月から稼働している。浪江中学に隣接するここは、「FH2R」で製造した水素を送る実証実験場なのだった。

地図は塗り替えられて

 在ったものが否応なしに遮二無二に消され、想像すらできなかったものが造られ、こうして地図は塗り替えられていく。何か新しいものが造られるたびに、「復興」が喧伝されるが、 そこに住民の意思はあるのだろうか。家族のささやかな歴史も、地域での思い出も、子や孫がここで育つのを見る喜びも、それら一切を喪って人々は途方に暮れているのではないだろうか。
   福島駅から浪江町には、国道114号線で行った。帰還困難区域の津島地区は、残っている家は草木に覆われ原野に戻ろうとしているようだった。被災前に田んぼだったところは、それからの日々にいつしか柳の林になっていたのだけれど、今日そこを通れば、木々は抜かれて、耕作地として整地されていた。実証田にするらしいが、一体誰が戻って田植えをするというのだろう。ここは放射線量が高くて人が住めない帰還困難区域だ。
 町中に向かう道筋で、主の戻らない家の庭先には紫のライラックが咲いていた。花の香を、愛おしむ人さえいないのに。

4月20日(火)いわき市

古滝屋「原子力災害考証館 furusato」

 いわき湯本の中心地に在る古滝屋は、元禄8(1695)年創業の老舗旅館だ。当主の里見喜生さん(52歳)は、16代目になる。創業以来、戊辰戦争、温泉の枯渇、二度の大戦という危機をくぐってきたが、喜生さんの代になって、東日本大震災と原発事故という危機に見舞われた。
 被災後、ここは支援物資の受け渡し拠点になり、ボランティアの宿泊、また被災地で通学できなくなった学生の寄宿を引き受けてきた。そうした中で喜生さんは被災地のスタディツアーを創設し、支援活動を通して、人に喜んでもらう身の丈に合ったサービスで心と体を癒す温泉旅館の営業と共に「伝える」ことを考えてきた。
 2011年の冬から語り部活動に関わり、歴史・文化を奪った原子力災害がなぜ起きたのかを考える場が必要だと思うようになった。そして熊本県の水俣を訪ね水俣病の歴史考証館を視察し、公的施設と民間施設が異なる視点で資料を展示しながら補完していく必要性を感じた。民間だからこそ出来る事があると、旅館の20畳の宴会場を改装して「原子力災害考証館」を造ろうと考えた。ところがすんなりと運んだわけではない。「原子力災害」ということから「放射能」を連想して、いわきが観光に行くところではないと思われマイナスイメージを作るという意見もあった。その意見は理解できたが、過ちを繰り返したくない思いの方が強かった。
 「何が被害を深刻化させたのか、私たちは何を失い、何に気付き、何を取り戻さなければならないのか、命の営みにとって本当に大切なものは何か、それを2度と失わないようにするためにどのような社会にするのか。それらの問いに向き合える場を作りたい」と思った。
 資料を保存し、それらを展示する。思索するスペースを提供し、意見交換会を開催する。双葉郡を中心としたツアーを実施し、原子力災害で故郷を追われた住民が生きた証し、先祖代々から続く歴史や文化の証しを伝え、またそうした証しを残していきたいと考えている。
 そして原発事故から10年経った2021年3月12日に、「原子力災害考証館 furusato」は開館した。展示は3ヶ月ごとくらいで替えていくそうだが、私が訪ねたこの日は、中央に大熊町の木村紀夫さんの次女、汐凪ちゃんの遺品のランドセルや靴、マフラーなどが展示され、正面の壁には遺体捜索中の様子を写した大判の写真があった。瓦礫の中から見つかったマフラーは、泥を落とそうとしたら、そこからポロッと顎の骨がこぼれ落ちたという。被災から5年9ヶ月経って、行方不明の汐凪ちゃんの遺骨がこうして見つかったのだった。その事実を、そして何よりも、一人の少女が生きていた証しをこの場は伝えていた。
 右手の壁には、写真家の中筋純さんが定点観測的に同じ場所を撮り続けてきた写真を、横長のシネマスコープ状に繋ぎ合わせたものが貼ってあった。上の段は撮影時2013年の商店街の様子、下の段の写真は2020年に撮ったもので、まさに今野さんの言った「9年目の津波」が街を襲ったのだと思えた。2013年の写真にある、「BRIDGESTONE 乗り物センター三原」の看板を掲げたシャッターを閉じた商店は、歌人の三原由紀子さんの実家だ。
 「二年経て浪江の街を散歩するGoogle ストリートビューを駆使して」 (三原さんの歌)
 地図から消された故郷の町をスマホを片手に歩く歌人の心に、私も想いを重ねる。
 20畳と決して広くはない空間だが、「考証館」は大切な大きな問題を投げかけている。「原発事故は」などと大きな主語で語るのではなく、木村紀夫さん、三原由紀子さんという個人、いわば小さな主語が「原子力災害」を伝えている。多くの人に訪れて欲しい場所だ。「考証館」は古滝屋の9階にあるが、宿泊客でなくても見学はできる。入館料は無料だ。

「原子力災害考証館 furusato」の展示の様子

いわき放射能市民測定室たらちね

 原発事故後のいわき市で、子どもたちに食べさせる安全な食材を求めて放射能測定を始めた母親たちは、「いわきアクション!ママの会」を立ち上げた。そして2011年11月に認定N P O法人「いわき放射能市民測定室たらちね」の活動が始まった。
 食材の放射能測定から始めた活動は、行動していく中から次々に新たな課題を見出して、それらに対処すべく事業の幅を広げてきた。2013年3月に甲状腺検診プロジェクトを開始、2015年4月ストロンチウム90とトリチウムの測定開始、9月福島原発沖での海洋調査開始、2017年6月「たらちねクリニック」開設、2018年1月子どもの遊びやマッサージの施設を開設、2019年8月ゲルマニウム半導体検出機を購入、2020年5月トリチウム測定設備の導入準備を開始という具合だ。さらに今後も電解濃縮装置を使用してのトリチウム分析、またストロンチウム90土壌汚染マップ、炭素14の分析などを進めていく予定だという。
 私は「たらちね」の活動は送られてくる通信などから承知していたつもりだったが、今回訪問して、その活動の重要性をきちんと受け止めることができた。事務室で事務局長の鈴木薫(かおり)さんからお話を聞いた後、施設内を案内していただいた。

■放射能測定
 測定室の前の廊下に並べ置かれた新聞紙で作った箱型容器には、どれも土が入っていた。依頼を受けた学校や幼稚園・保育園など、子ども達が過ごす施設の庭の土を検査するのだという。鈴木さんは「土を乾かすのに一番良い方法が、新聞紙で湿気を吸わせることだったのです」と言った。
 測定室には、様々な装置があった。ガンマ線測定器だけでも5台(3種類)あり、これらは下限値が異なるので、食材、土壌、資材など測定する品目・量・下限値を見極めて適切な測定器を選んで測定するという。
 ゲルマニウム半導体検出器は、放射性核種を分別する能力が高く、誤検出の可能性も少ないという。土壌には放射性セシウム以外の天然の放射性物質も入っているが、ガンマ線測定器だと、それらが一緒になって判別が難しい。ゲルマニウム半導体検出器だと区別がつきやすく、検体の量が少なくても正確な値を検出でき、検出下限値を大幅に下げることができるそうだ。これまでガンマ線測定器では海水からセシウム134を検出できなかったが、ゲルマニウム半導体検出器では、複数の海水から検出することができたという。セシウム134が検出されるということは、福島第一原発事故由来のセシウムである証拠となる。
 β線の測定器も2台あり、トリチウムを測定するためにトリチウム電解濃縮装置を導入した。現在の環境トリチウム濃度は、1〜0.4Bq/Lと言われるが、検査の精度を良くするためにはトリチウムを濃縮する必要がある。電解濃縮法は、水を電気分解すると水素ガスと酸素ガスが生成され、軽い水素ほど早く電気分解される。軽水素、重水素、トリチウムの順に分解され、トリチウムは分解されにくく試料水中に残ることになる。この電解濃縮を使って65時間かけて1Lを50mlまで濃縮して測定すると、検出下限値が0.2Bq/Lになる見込みだという。

「たらちね」の放射能測定室前に並んでいた新聞紙製の容器。それぞれ検査する土が入っている

■クリニック
 クリニックには医師が常勤していて、甲状腺検診やホールボディ・カウンターだけではなく風邪など一般の診療も受け付けている。ホールボディ・カウンターがあるので、原発作業員の内部被曝測定を事業体単位で受け付けてきていたが、今年度からは原発作業員や除染作業員の健康診断にも力を入れていくつもりだという。
 被ばくの観点から、子どもの健康を総合的に診断する「こどもドック」を行なっているが、それだけではなく心のケアを大事に考えて、子どもたちの遊びやマッサージのスペースも作られていた。診察室、ホールボディ・カウンター、遊び、マッサージなどそれぞれのスペースが壁の装飾など子どもの気持ちを配慮した設えになっていて、スタッフの方たちの心意気と尽力に頭が下がる。これからも微力ながら支援をしていこうと思う。

「ふたばの教育」

 今回の福島行で、どこで入手したのか覚えていないのだが、「ふたばの教育vol.11 2021春号」というA4版の冊子を持ち帰っていた。この冊子は「双葉郡8町村各校の取組と子どもたちの今を伝える広報誌」で、「福島県双葉郡教育復興ビジョン推進協議会」の発行だ。
 今号の特集は「ふたば生徒会連合」で、各校の生徒会の活動が紹介されている。
 ふたば生徒会連合は2017年に発足し、双葉郡8町村各中学校の生徒会とふたば未来学園中学校・高等学校の生徒会で構成され、「双葉郡ふるさと創造学」サミットの一部企画運営や地域の復興・魅力の発信など「他地域には見られない先進的な取組」を行なっているという。
 冊子のページを繰っていくと、各校の生徒たちが「ふるさと創造学」でどんなことをしてきたかが写真入りで紹介されている。例えば浪江町立なみえ創成中学校は町内を自分の足で歩き、体験を含め見聞したことをまとめ、双葉中学校の生徒は町の名所、名店、伝統工芸や伝統芸能について調べ歴史や文化を学び、また富岡第一・第二中学の富岡校の生徒は一人一テーマで各自が課題を設定して復興・再生・創生のための研究を進めた。ふたば未来学園高校の生徒たちは、専門家や地域の人と連携しながら社会に山積する困難な課題に挑戦したと紹介されていた。
 双葉町には「東日本大震災・原子力災害伝承館」があるが、県内各地の学校がそこを課外学習の場として活用している。旅行会社のHISと提携して、バスで子どもたちを送迎しているそうだ。この伝承館で語り部をしている友人から聞いたことがあるが、見学後の子どもたちの感想には、卒業後は研究者あるいは作業員になって、廃炉のために尽くしたいというような言葉が少なからずあるという。
 「ふるさと創造学」も「伝承館」見学とそれによって導き出される感想も、それだけを聞けば好ましいことに思えるかもしれない。だが、「放射能のホント」(復興庁が発行するパンフレット)や「放射線副読本」(文科省が作成した副読本)が学習の手引きとして学校で使われていることを考えると、私は素直に受け止められない。
 故郷のために何かしたい、役に立ちたいという子ども達の思いを、大人は利用しようとしていないか?
 原発は子ども達に、未来の社会に、本当に大きな負の遺産を残してしまったと、改めて強く思う。

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 4月19・20日も、実りの多い福島行でした。考えることが多々ありました。
 いつもは大抵、福島駅から新幹線で帰りますが20日はいわき市からの帰途でしたから、常磐線で帰りました。新幹線と常磐線では軌道の幅が違うのでしょうか、それとも何か別の理由なのでしょうか、常磐線は車体がよく揺れました。被災前の話を聞くと、東京に行くときには多くの人が常磐線を使っていたと言います。その日々に思いを馳せて、揺られて帰りました。

一枝

●お知らせ①

トークの会「福島の声を聞こう!vol.37」を催します
2012年の3月から、被災地当事者の声を聞いて欲しいと続けてきた「トークの会 福島の声を聞こう!」の第37回目。密を避けるため人数限定ですが、お近くの方はぜひお越しください(受付は6月7日午前11時開始です)。

ゲストスピーカー:門馬昌子さん
1943年いわき市生まれ。1965年から38年間、いわき市と相双地区の高校で英語教師を務める。2011年3月の原発事故で、浪江町の自宅から東京都北区に避難、現在に至る。
「10年が過ぎて、ここも更地になりました。向こうの家も解体されて、更地になりました。いつも買い物に行っていたスーパーも、毎月お世話になっていた床屋さんも、とうに店仕舞いをして建物は跡形もありません。馴染んだ風景が消えてしまって、ここに帰ってきても異邦人の気分です。子どもたちが通った学校も解体されました。子どもらは、いいえ、その学校の卒業生である親たちもまた、自分たちが育まれ守られてきた学舎に感謝を込めてお別れを言うこともできぬままに。そこで生きて過ごしてきた証が消されていく……、個人の存在を否定されているような、尊厳を踏み躙られているような、そんな気分です。 どうか、福島の声を聞いてください!」

日 時:6月21日(月)午後7時〜9時(開場は午後6時半)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
定 員:25名
参加費:1500円
申し込み・お問い合わせ:セッションハウス企画室
Tel:03-3266-0461
メール:mail@session-house.net
お名前・人数・電話番号をお知らせください。受付は6月7日午前11時〜(これ以前のお申し込みはご遠慮ください)
※当日はマスクの着用をお願いします。

●お知らせ②

トークの会の記録集 PART 2ができました
「トークの会 福島の声を聞こう!」の内容を収録した記録集のPART2(第15回〜第34回までを収録)ができました。
『福島の声を聞こう!PART 2 あれから10年 9人の証言』(風來舎刊 A5版 238ページ定価1700円)。藤島昌治さん、田中徳雲さん、菅野哲さん、今野寿美雄さん、松本徳子さん、熊本美彌子さん、村田弘さん、横山秀人さん、島明美さんが、それぞれトークの会で話してくださった証言が載っています。書店販売はしていませんので、直接「風來舎」へご注文ください。

風來舎
Tel:026-219-1707 Fax:026-219-1721 
メール:info@furai-sha.com
〒380-0821 長野県長野市上千歳町1137-2 アイビーハウス2F

※第1回〜第14回までのトークを収録した『福島の声を聞こう!PART1 3.11後を生き抜く7人の証言』も、書店では入手困難となっています。ご希望の方はあわせて「風來舎」へお問い合わせください。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。