第561回:「普通の生活がしたい」という悲鳴。の巻(雨宮処凛)

 「普通の生活がしたいです」

 最近、そんな言葉を耳にする機会が増えた。

 コロナによって失業したり、住まいを失ったりした人の相談に乗る際に聞く言葉だ。日々支援団体に寄せられるSOSメールにもそんな言葉が目立つ。

 普通の生活。それがどんなものかと聞くと、「普通に帰れる場所がある生活」「布団で寝れること」「普通にご飯を食べられること」「時間を気にせずいられる家がある生活」「外で寝ないでいい日々」なんて答えが返ってくる。

 多くが若い世代から発されている。彼ら彼女らの望む「普通の生活」があまりにもささやかなものであることに、いつもショックを受ける。この国では、こんなことすら実現できていない人たちが多くいる。

 「普通の生活がしたい」。そんなあまりにささやかな願望を聞くたびに思い出す映画がある。土屋トカチさんの『フツーの仕事がしたい』だ。

 2008年に公開されたこのドキュメンタリー映画は、「現代に蘇るリアル蟹工船」なドキュメンタリーである。主人公は、36歳のトラック運転手。月の労働時間は552時間にものぼる。そんな劣悪すぎる職場で声を上げた男性の闘いと、職場からの嫌がらせを余すところなく描いた作品なのだが、私はこの映画の上映会のトークに出た時に話したことを今も鮮明に覚えている。

 それはタイトルの「フツーの仕事がしたい」について。

 08年当時の私は33歳。そんな私が20代の時、同世代の若者たちが口にしたのは「普通の仕事がしたい」なんてものでは決してなく、「特別な仕事がしたい」「個性的な仕事、自分にしかできない仕事がしたい」というものだった。「一億総中流」という言葉がまだ現役だった時代、「普通の仕事がしたい」なんて口にする人がいたら、「上昇志向ゼロのダメな人間」「つまらない奴」「チャレンジ精神ゼロの無難で無能な人間」と馬鹿にするような空気は確実にあった。

 一方、「公務員になりたい」なんて人は「なんらかの特殊な趣味を持つために自由時間がほしい人」、もしくは「人生を諦めた人」扱いされることもザラにあり、それどころか「正社員になりたい」と口にする者でさえ、「懲役40年」なんて揶揄された。公務員や正社員を目指すよりも、自分で起業したり、好きなことを仕事にしたり、フリーランスのカタカナ仕事で有名になったり、とにかく自らの力でのし上がる人間が偉いのだ、という感覚。90年代後半、バブルは崩壊しても、「おいしい生活」的なバブル価値観は色濃く残っていた。

 当時の空気を非常によく表している文章があるので紹介しよう。93年に発売された『完全自殺マニュアル』の「はじめに」だ。歴史に残る名文と言われ、私も当時、何度も読み返した。そこには私たちが死にたくなる理由が多く書かれているのだが、以下のような記述がある。

 「あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ」

 この本が発売された93年から、28年。

 今、こうして書き写してみると、当時「絶望的」に思えた人生が、なんて贅沢なものなのだろうとため息がこみ上げる。

 学費や生活費のためにバイトに追われるのではなく、「4年間ブラブラ」できる大学時代。そうしてブラブラしてても「どこかの会社に入社」できる売り手市場。その果てに結婚、出産というライフイベントも自動的に訪れ、定年が60歳というのも夢のようである。老後は生活費のため、低賃金で働くのではなく「趣味を生かした生活」を送れるなんて、今思うと、ほとんど「貴族」のようではないか。

 90年代、私の中にも確実にあった「普通の仕事なんかじゃなく特別な仕事がしたい」という思い。それは、高度経済成長とバブルがもたらした経済的余裕から生まれた「気分」だったのだと、改めて思う。

 さて、そうして今、周りを見てみると、「特別な仕事がしたい」「特別な生活がしたい」という言葉を聞くことはなくなり、耳にするのは「普通の生活がしたい」となったことは書いてきた通りだ。

 それも、住まいがない人が住まいがほしいと思い、満足に食事をとれない人が食事をとりたいと望み、布団で寝られない人が布団で寝たいと願うような、本当に、最低限の、生存ギリギリの「普通」である。それほどに、日本社会は壊れたのだと思う。

 コロナ以前、様々なアジアの国に行くと、その国でバリバリ稼いで成功しているような若者たちの姿を目にすることがあった。例えれば、バブルの頃の日本にたくさんいた「スカしてて金持ってそうな若者」たちだ。高級ブランド品に身を包み、我が物顔で闊歩する若者たちの姿は、この国では久しく見ていない気がした。一目見て、羽振りがいいとわかるような若い世代。翻ってこの国の若者たちはどんどん貧しくなっている。

 もうずっと前からこの国の若者たちは、「内向きになった」なんて言われて批判されてきた。しかし、たった一度の「新卒での就職の失敗」が、場合によっては数年後のホームレス化につながりかねない状況が、もう20年以上続いている。若者たちは、上の世代が正社員になれなかっただけで、結婚も出産も諦めていることを知っている。失敗すれば自己責任となじられるのがわかっていて、なおかつ誰も助けてくれないことがわかりきっている中で、誰が何かに挑戦しようなどと思うだろう。

 先月、5月の自殺者はわずかひと月で1745人。女性の自殺者は前年同月比で2割以上増えた。

 最近聞いた言葉の中には、「週に一度でいいから普通のご飯を食べたい」というものもあった。

 若者に「普通の生活がしたい」と言わせてしまう国は、どこかが完全に終わっていると言っていい。

 そんなこの国で、オリンピックが開かれようとしている。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。