第12回:私の8月15日(渡辺一枝)

 今日は旧盆のさなかの8月15日。18歳になる初孫の誕生日でもある。
 私は、母が遺した仏壇の引き出しを開けて、収められた小さなスケッチブックを取り出す。
 これは父の遺品だ。私は父を知らない。このスケッチブックだけが、父に繋がる縁だ。
 私は1945年1月9日に“満洲国”ハルビンで生まれたが、父はその年7月20日に臨時召集を受けた。いわゆる「根こそぎ動員」だ。8月9日ソ連軍侵攻、8月15日敗戦。父はそれきり戻らなかった。

 4歳の時に両親をスペイン風邪で亡くした父のことを、母は「天涯孤独な人だった」と言い、そして「だからあなたが生まれた時、それはそれは喜んで『俺もやっと、家族が持てた』と言って、家にいるときは片時も離さずあなたを抱いていた。目の中に入れても痛くないっていうのは、あんなことを言うのだろうね。目を細めて抱きながらあやしていた」と言った。
 生後6ヶ月までの日々、私は毎日のように父の腕に抱かれたのだろうが、私にその記憶はない。ない記憶を弄りたくて、遺品のスケッチブックを開く。A6版の掌に乗るような小さなスケッチブックを開く。
 「1933.3.19 七里ヶ浜」の文字がある風景画、「33.4.22」と日付のある風景画、これらは19歳の父が描いたものだ。エスペラント語を習っていた頃に描いたものだろうか、握り拳や、茶碗を持つ手のスケッチにはアルファベット文字が書かれている。

 父の面影を追って、私が初めてハルビンを訪ねたのは母が亡くなった翌年、1987年春だった。旧い住所を頼りに、私が生まれた家を探したが見つけられなかった。だがその時に出会った中国人のお婆さんは、家に招き入れてお茶を振舞ってくれた。お婆さんの好意に胸がいっぱいになりながら私は、これだけは伝えたいと思って言葉を口に出した。
 「私たちの国は、あなたがた中国の人たちに大きな過ちを犯しました。本当に申し訳ない思いでいっぱいです。それなのにこんなふうに温かく迎えて下さって、ありがとうございます」。するとお婆さんは、まるでどうということもないというふうに笑顔を見せながら応えてくれた。
 「そんなことは、あなたのせいではないですよ。一部の日本人、軍部がいけなかったのです。あなたも犠牲者だったのですよ。あなたがここで生まれたなら、ここは故郷なのだから、何度でも訪ねていらっしゃい」
 次に行った時に私は生家を見つけることができた。父と母が暮らした家を見つけることができた。父が触れた空気に、私も触れたように思えた。そして図らずもその旅で、残留日本人に出会ったのだった。
 それからは、帰国を望みながら中国に暮らす残留日本人を訪ねて、“満洲”各地を歩いた。哈爾濱(ハルビン)、長春、牡丹江、佳木斯(ジャムス)、斉斉哈爾(チチハル)、吉林、瀋陽、黒河、大連、方正、大慶…と。その旅を拙著『ハルビン回帰行』(朝日新聞社)にまとめた時に私は初めて、父が言ったという「俺も家族が持てた」という言葉を理解できたと思った。

 今日は8月15日。あの日父はどこでどんな思いで敗戦の報を聞いたのだろう。父が遺したスケッチブックを開いて私は、18歳の誕生日を迎えた孫に、彼のひいおじいちゃんが19歳の時に描いたスケッチを見せようと思う。

一枝

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 下記は、2017年の8月15日に執筆したコラムです。あわせてお読みください。
 

私の8月15日 (2017.08.15)
 
 8月15日朝、いつものように朝食の支度を済ませ、購読紙の東京新聞を開きました。
 一面の「平和の俳句」が目に入った途端、涙が溢れました。“満州”が胸に満ち、溢れ出たように思いました。
 「八月は母國という語を抱きしめる」
 その句は、英文学者の小田島雄志さんが投稿された句でした。小田島さんは敗戦の1年後、15歳の時に満州から引き揚げて来た方です。私は小田島さんより15歳年下で、母の背に負われて引き揚げてきたのは1歳半の時でした。ですから小田島さんが体験した“満州”も引き揚げ時の光景も、私の記憶には全くありません。
 それなのになぜでしょう。「母國という語を抱きしめる」と読んだ時に、“私の中の満州”が一気に胸にせりあげてきたのでした。
  
 子供の時から私は、自分のことで泣いたことがありません。4つの時に、倒れた墓石の上に転んで大腿骨を骨折したその時も、骨折院に入院して痛い治療をされた時も、「先生のバカァ!」と喚いても泣かなかったそうです。
 引揚者で母子家庭は、差別か同情の対象でした。差別的な言動に遇えば、言い返すか手足で相手を攻撃しました。同情に遇えば、ふくれっ面をしてそっぽを向きました。
 差別や同情に晒されるのは我慢ができないことでした。涙を流せば差別する相手や憐れむ相手の思い通りの私になってしまうということは、幼い私が直感的に感じていたことでした。
 だからそんな時には、怒りを相手にぶつけたのでした。母や叔母達には「強情っぱりな子だ」と言われていました。
  
 母が死んだ後で幾度となく訪ねたハルビン、そこから通った旧満州各地で会った残留邦人の方たち。母國を恋いながら、かの地で亡くなった方たち。
 「落葉帰根」の思いを抱き続け、戦後数十年経ってようやく帰国したものの十分な生活保障もないまま、母國に抱きしめられぬまま故人となった方たち、お一人お一人の顔が浮かんできたのでした。
 ハルビン外僑養老院で亡くなった亀井さん、林さん、玉田さん、鳥越さん、上田さん。朝鮮人の伊さん、白さん、安さん、アメリカ人のマグリー・フラー、ロシア人のコーリャン、ポポフ、マリナ…
 黒河や斉斉哈爾、牡丹江、長春、海拉爾(ハイラル)で会った残留孤児の劉さん、王さん、李さん、丹さん、楊さん、張さん…
 ハルビンや孫呉で幾度となく会い、帰国されてからも埼玉の帰国者定着促進センターで、また故郷の山梨に帰郷されてからも会い、そこで亡くなった岩間典夫さん。
 方正で会った松田ちゑさん、大友愛子さん篠田君子さん。方正は何度か訪ねたのに皆さんが帰国されてからは、とうとう会えずじまいのまま鬼籍に入られました。そして方正に稲作指導に通っていらした藤原長作さん。
 長春で、そして哈爾濱でも会った松永緑さんは故郷の佐賀県に帰国されてから、何度も遊びにいらっしゃいと誘ってくれましたが、とうとう再会できぬまま旅立たれました。

 「八月は母國という語を抱きしめる」。小田島さんの句に“満州”で会った人たちのお顔が走馬灯のように思い浮かび、だのに、そこには父の顔はありませんでした。
 2017年8月15日、私が自分に涙を流した朝でした。

                                   いちえ

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。