第13回:被災地ツアー報告①「綺麗な花を見て、みんなが『ああ、綺麗だなぁ』って、いい気持ちになってくれたら」(渡辺一枝)

 7月22日〜24日の2泊3日で、友人たちに声をかけての「被災地ツアー」を催行しました。今回の通信はその時の報告です。現地の状況や施設の様子など、以前に私が個人的に行ったときの報告と重なる部分もありますが、ツアーの報告としてお読みいただけたら幸いです。

新聞・テレビからは伝わらない福島を、知ってほしい! 

 2011年の福島第一原発事故を受けて各地に出されていた避難指示は、2016年4月の田村市の避難指示解除準備区域が指定解除されたのを皮切りに、その他各地でも徐々に解除が進められていった。南相馬市は2016年7月12日に帰還困難区域を除いて居住制限区域、並びに避難指示解除準備区域が解除された。2017年3月31日には飯舘村、川俣町、浪江町の同じく帰還困難区域以外が、4月1日には富岡町の居住制限区域と避難指示解除準備区域も解除された。2019年4月10日には大熊町の帰還困難区域を除く地域が、2020年3月には双葉町の居住制限区域と双葉駅周辺の一部の地域、大熊町の大野駅周辺の一部地域、富岡町の夜ノ森駅周辺の一部地域も解除された。 
 解除されていった地域の佇まいは、大きく変わっていった。変わり様は、大きく二つに分けられる。真新しい建造物ができて以前とはまるで違う場所になるか、以前の風景がまるで朽ち果てて、原始の世界に戻ってしまったかと思わせる様な光景になってしまったか。ほとんど月一度の割合で福島通いを続けている私も、変化の激しさに憤りを覚え、悔しく、また虚しくやりきれない思いに陥る。憤りを覚えるのは、特に前者の光景に接するときで、それが「復興」の名の下に行われている景色の造り替えだからだ。こうした福島だけを見た人は、福島は粛々と復興に向かっていると思うかもしれない。置き去りにされた福島は忘れられていくだけかもしれない、そんな焦りにも似た気持ちを、私は抱いていた。被災地ツアーを企画したのは、そんな気持ちからだった。 
 私が福島へ行くときにいつもお世話になっている今野寿美雄さんのガイドで、今野さんの車で移動するという計画で日程を組んだ。 
 
 下記の様に予定を組んで友人たちに声をかけ、参加を募った。 
 参加者はI・Mさん(女性)、I・Yさん(女性)、N・Yさん(男性)、N・Kさん(男性)そして私の5名だった。  

7月22日

 東京駅発7:40(上野駅7:46、大宮駅8:05)「やまびこ125」に乗車。福島駅で今野さんと合流し、飯舘村、浪江町の帰還困難区域、および避難指示解除になり住民が戻っている地域を回る。帰還困難区域への入域は予め申請書を提出する必要があり、手続きは今野さんにお願いする。 
 宿泊は南相馬市小高の双葉屋旅館。 
 小高区は2012年4月16日に帰還困難区域を除き避難指示解除になり、日中のみ入れる様になったが夜間の宿泊は止められていた。双葉屋旅館の小林さん夫婦は解除後すぐから自宅の整理とともに、一時帰宅した人が休息できる様に旅館の一部を開放した。女将の友子さんは周辺に花を植える活動を始めた。その後「準備宿泊」として住民の夜間の滞在ができる様になると、一時帰宅の住民たちが宿泊できる様にした(2017年7月に避難指示解除になってからは、一般客も宿泊できる通常の営業形態に戻った)。また、こうした活動と併せて地域の放射線量測定を始め、測定データをメッシュマップに記録して情報発信もしてきた。友子さんは旅館の隣にコミュニティサロンを開き、住民と支援者をつなぐ活動も続けてきた。 
 ツアーでは夕食後に、南相馬在住の被災者から話を聞く時間を持つ。 

7月23日

 浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町などを回りながら、各施設見学。見学予定施設は下記だが、いくつかは翌日24日に見学を回すこととする。 

*東日本大震災・原子力災害伝承館 
*双葉町産業交流館(屋上から中間貯蔵施設を視察) 
*浪江町復興祈念公園 
*浪江町請戸漁港 
*東京電力廃炉資料館 
*特定廃棄物埋立情報館「リプルンふくしま」
*中間貯蔵施設資料館 
*原発悔恨・伝言の碑、伝言館 
*原子力災害考証館 

 この日に回れる場所を回っていわき市湯本へ移動。
 宿泊はいわき市湯本の古滝屋 。
 オーナーの里見喜生さんは東日本大震災後、旅館を支援物資受付拠点とし、またボランティア宿泊施設として提供。被災して通学できなくなった学生の宿泊も受け入れてきた。被災地スタディツアーを企画し、自ら運転して被災地を案内しながら、2011年冬からは語り部として活動をしてきた。歴史や文化を奪った原子力災害がなぜ起きたかを考える場が必要だと思い立ち、水俣に行って歴史考証館を見学し「原子力災害考証館」の開設に思い至った。旅館の宴会場だった部屋をその場とし、今年3月に開設した。そこでは被災地の住民が生きた証しや、その地に流れた歴史や文化の証しなどを展示している。 
 夕食は里見さんと共にしながら、お話をお聞きする。 

7月24日

 田村郡三春町にある県の施設「コミュタン福島」を見学して後、東京へ。この日今野さんは夕方に東京で用事があるので、帰路は今野さんの車でそのまま帰京の途に着く。 

飯舘村 ──菅野榮子さんに会う

 ツアー1日目(7月22日) 。飯舘村を通るときに、できれば菅野榮子さんに会いたいと思っていたけれど時間的に無理かもしれないと思い、今野さんにはあえて伝えずにいた。でも、高速を降りて辿る道は飯舘村佐須へ、榮子さんの家へ向かっている。今野さん、ありがとう! 
 榮子さんの家の近くまで行ったら、榮子さんが仲良しの菅野芳子さんと一緒に球根を植えたダリアが見事に咲いていて、前回(5月14日)の訪問時の榮子さんの言葉を思い出す。「根っこがな、こんなしていっぱいくっついてっけど、そこから芽を出すのは一つだけなのな。あとのは『あなたが芽を出して花を咲かせてください。私はその肥やしになりますから。そんで綺麗な花が咲くようにしますから』って、ダリアって、そうなんだよ」。あのとき私は競争社会の人の世を思ってしまったけれど、こうして綺麗に咲いた花を見たら、私の思いは間違っていたと気付く。農業者として土に生きてきた榮子さんは、作物が実り種の命を繋いでいく自然界の摂理を言っていたのだと思う。 
 たくさん咲いた中の真紅の花色を眼裏に残して、榮子さんの家に着いた。部屋の中でニンニクの皮むきをしていた榮子さんはガラス戸越しに今野さんに気付いて、戸を開けてウッドデッキに出てきてくれた。
 「中に入って」と言う榮子さんに、「ごめんなさい、今日はこれから他所を回るから時間がないの。ここで失礼するけれど、榮子さんの顔が見たくて寄ったの。榮子さん、ダリアが綺麗に咲きましたね」と言うと、榮子さんはダリアの球根が届いた経緯や私が送った雑誌『銀花』のダリアの記事のことなどをひとしきり語りながら、このダリア園に榮子さんらが立てた佐須地区老人会の札を巡って、行政区内には「勝手なことばっかりやっている」と陰口を言う人もいるらしいことを話してくれた。
 地区内に帰村した人はわずかだけれど、和気藹々と過ごす日々ではないらしいことが気がかりだが、榮子さんは、「綺麗な花を見て、みんなが『ああ、綺麗だなぁ』って、いい気持ちになってくれたら良いんではないの。私はそう思ってる。区長さんに説明したら、区長さんも『判った』って言ってたよ」と言った。もう一度「上がってお茶飲んで行って」と言う榮子さんに、私ももう一度「ごめんね。今日は回るところがあるから、またゆっくり寄らせてもらいます。ニンニク味噌のお料理、食べさせてくださいね」と断ってお暇をした。 
 「畜魂碑」の建つ道を通って村の中心地へ向かうと、最初に目に入る施設は葬祭場。今野さんの「これはなくてはならない施設です」の声に、一同深く頷いた。週2日午前中のみ開いている診療所の角を曲がって、「希望の里学園(小中一貫校)」と「までいの里のこども園(認定こども園)」やスポーツ施設の外観を見て、その先にある人工芝の緑が広がるパークゴルフ場を見る。そこは、以前は山だったところだ。 
 数年前に『たぁくらたぁ』編集長の野池さんと、元酪農家の長谷川健一さんを訪ねに行った時のことだ。ここを通りながら二人同時に、「あれ? 山がなくなっちゃった」と顔を見合わせた事があった。農地のそこかしこで除染が進められている頃だった。農地除染は表土を剥いで、新たに山砂で覆土する。そのための山砂を採土するために、山が削られていたのだった。 
 山が削られた現場は見ていたが、そこがこんなに“綺麗な”芝生のパークゴルフ場になっていたことに、また驚いた。飯舘村の住人で、ここでパークゴルフを楽しみにやって来る人が、いったいどれほど居るのだろうか?ツアーの参加者たちも、ここが山だったという今野さんの説明に驚き呆れているようだった。 
「いいたて村道の駅までい館」、「交流センターふれ愛館」を車の窓越しに見ながら、そこに設置されたブロンズ像やベンチの値段を今野さんから聞いて一同呆れながら過ぎ、川俣町山木屋へ向かう。 
 県道は比曽川を越える。2019年の台風で汚染土を詰めたフレコンバッグが流れてしまったことは記憶に新しいが、ここを通らなければそれを思い出すこともなかったかもしれない。現地に実際に身を置くことの大切さを思う。ツアーを企画して良かったと思った。 
 原発事故後の放射線プルームによって山木屋も高線量地域となって避難指示が出されたが、2017年3月31日に避難指示が解除された。昼食はその年9月にオープンした「語らい処やまこや」でとった。私はもりそばを注文したが同行の3人はもりそば+天ぷらを、もう一人はもりそば+おはぎを注文した。ここは味も良いが、盛りも良い。天ぷらの量も多く、おはぎのなんと大きなこと! 食べきれない天ぷらは、店から持ち帰り容器を二つ貰ってそこに詰めた。浪江町で浪江小解体の様子を撮影中の写真家・中筋純さんに差し入れようという、今野さんの発案だった。

帰還困難区域 ──今野さんのご実家へ

 昼食後、いまだ帰還困難区域となっている浪江町津島へ向かう。今回のツアーではそこで、今野さんのご実家に入らせて頂きたくお願いをしていた。帰還困難区域も国道に面した住居は見て過ぎることは出来る。そこが自宅であれば、自分で鍵を開けて入ることもできる。だが、そうでなければ予め入域の日時と人員を申請する必要があり、手続きも今野さんにお願いした。昼食後に車を発車させる前に、今野さんはスクリーニング場に電話をした。申請書には入域を14時から15時と書いたが時刻を30分早めて13時半からに変更することを伝えたのだ。 
 津島のスクリーニング場は、以前の活性化センターから津島中学校にかわっていた。入り口で申請書の提示を求められて今野さんは窓を開けてそれを出し、警備員は身分証明書の提示も求めた。今回は今野さん一人が運転免許証を見せただけで済んだが、別の場所や別の時には、全員の提示が必要だったりする。それで今回は参加者全員に免許証あるいは健康保険証など身分証明書を持参して貰ったが、出さずに済んだ。
 そして同じく運転席の窓越しに、人数分の装備品が入ったビニール袋が渡されると、今野さんはプレハブの更衣室が並ぶ前まで車を進めた。車から降りて各自受け取り、更衣室でビニール袋から出した白い防護服上下を着用し、白い長靴式の靴カバーを履いてふくらはぎで上の紐を閉め、白いキャップを被り、もう一枚の青いビニールの靴カバーを履き、綿手袋、ゴム手袋と薄手のビニール手袋がまだ入っているビニール袋を持って再度車に乗り込んだ。これから津島地区内の赤宇木集落に向かう。 
 2011年3月、原発事故が起きた後で、私は友人の伝手を頼んでウクライナ製の線量計を入手していた。0.3マイクロシーベルトを超えると警戒音が鳴るように設定されている。今回もそれを持参したのだが、津島地区へ入ってから、ピーピーと音は鳴りっぱなしだった。線量計が示す数値は、0.75、0.8と上がり、その辺りを上下する。 
 赤宇木へ入る分岐点で、ゲート前に待っていた警備員に運転席の窓を開けて申請書を提示した今野さんは、「予定より早く進められたから時間早めてもらいました。ありがとうございます。今日は暑いから30分くらいで戻ってきます」と挨拶して、ゲートの鍵を開けて貰った。左右から木の枝が覆い被さってくるような道を行くと、前方に居た猪がチラとこちらを見て藪の中に消えた。 
 小阿久登(こあくと)共同墓地の脇を行く。赤宇木のこの地域に暮らしていた人たちの祖先が眠る埋葬地だ。今野さんの先祖もまた、ここに眠る。2000年に亡くなった今野さんのお父さんが、この地区では初めての火葬だったそうで、それ以前は土葬だったという。墓碑が並ぶ手前に地面に矩形に石が並べられていて、そこは棺置き台だったそうだ。円形ではなく矩形なので、この地域での土葬は座棺ではなく寝棺だったのかもしれない。この集落での人々の暮らし、野辺送りの葬列の様を想い描いた。祝言も葬儀も、結(ゆい)でなされていたことだろう。「他所の子どもも、自分の子どもと同じように悪いことをすれば叱ったし、良いことをしたら褒めたよ。そうやって育てられたし、育ててきた」と赤宇木に自宅があった人から聞いたことがある。集落全戸が、緩やかに大きな一家族のように繋がり付き合っていたのだろう。 
 今野家の祖先は赤宇木六騎衆と呼ばれて、この地に根を下ろしたのは平安時代の末期らしい。また津島は、戦後に満州から引き揚げてきた元満蒙開拓団だった人たちの入植地でもあった。縄文時代の土器も多数出土しているなど、古くから営営と人々が暮らしを築いてきた地域でもある。車の中から共同墓地の墓碑に手を合わせながら、帰還困難区域とされた津島の歴史を改めて思った。外では鶯が鳴いていた。 
 
 今野さんの実家の前に着き、車を降りた。行く手を阻む草をかき分けて家の前に立つ。入り口のガラスが破られていて、猪が突き破ったのだという。今野さんが扉の鍵を開けて「どうぞ」と言われ、中へ入った。部屋の中は野獣に荒らされて、あらゆるものが散乱していた。居間の長押には先祖たちの写真が並び飾られていた。曽祖父母、祖父母、両親、叔父夫婦と、先祖代々の遺影だった。写真を見上げて今野さんが言った。「分家5代目の俺で終わり。事故後、息子は一度もここに連れて来ていません。墓参りにも」。Nさんが「これらの写真は避難先に持っていかないのですか」と聞くと、今野さんは「我が家だけじゃなくてどの家もみんなそうだと思いますが、ご先祖さまが家を守っていてくれる。どうぞ守っていてくださいという思いで、置いてあります」と答えた。 
 主の住まない屋敷のガラス戸の向こうは茂った草に覆われているが、かつてここに暮らしがあった頃には、心地よい風が抜ける部屋だったことだろう。畳の向こうの板敷の間には、10年前に慌ただしく避難したあの日のままに、ハンガーに掛かったシャツやタオルの洗濯物が下がっていた。今野さんは「兄貴のシャツです」と言った。 
 部屋自体がそのまま神棚であったという広間の棚には、「御年神 大蔵御祖神 若年神」「大國主神 言代主神」と書かれた2枚の半紙が下がっていた。依り代に認められた文字は、10年を経た今も墨痕鮮やかだった。 
 黙礼をして今野さんのご実家を後にした。車に乗り込む時に今野さんが、「靴の青いカバーを、外側を中に畳むように外してビニール袋に入れてください。外側に手が触れないように気をつけて」と言い、私たちは座席に腰掛けて、言われたように靴カバーを外し席に収まった。汚染された靴カバーで車内を汚さないためで、外側に手が触れないようにというのは被ばくを避けるための注意だった。 
 ちょうど近所の今野さんの同級生の家にも両親が帰ってきていて、今野さんは運転席の窓を開けて挨拶を交わした。今野幸四郎さん夫妻で、お墓参りに来たのだと言う。お母さんは「花がないから、家の花を切ったんだ」と言って、紫陽花の花束を抱えていた。翌週30日は津島訴訟(津島地区住民が国と東電を相手取って、地区の空間線量を事故前に戻す原状回復や慰謝料を求めた裁判)の判決日で、「応援に行くよ」と今野さんが言うと幸四郎さんは、「ありがとう。俺は欠席するよ」と答え、互いに「元気で」と挨拶を交わし合って別れた。 
 幸四郎さんは津島訴訟の原告で、以前に私は、裁判傍聴で幸四郎さんの意見陳述を聞いていた。三春の友人から滝桜の種を貰って苗木に育て、自宅周辺や津島の各地に植えたことを述べられた。苗木を植えて6年目で花が咲くが、ちょうど花を咲かせ始めて津島でも随所で滝桜の花見ができるという頃に、原発事故で避難することになってしまったことを切々と訴えられていた。道の向こうに、草木の藪に覆われて「今野牧場」と書かれた畜舎が見えた。幸四郎さんは65頭の乳牛を飼う酪農家だったが、原発事故で、その生業も奪われた。 
 行く時に猪を見た辺り、むせるように緑が繁茂する草藪には藪萱草(ヤブカンゾウ)と菊芋が、鮮やかにオレンジと黄の花を咲かせていた。 
  
 国道114号沿いの石井ひろみさん、菅野みずえさんの家の前を過ぎる。ひろみさんが嫁いできた時にはかまどを使って煮炊きをしていたという築100年の広い屋敷も、解体されるのを待つ。隣のみずえさんの家の通り門は藤蔓で覆われてしまって、門の向こうは玄関口まで草が繁茂していた。以前に一度、家の中に入らせていただいたことがあったが、やはり旧家で立派な神棚が設らえれた間があり高い天井や居間の空間など、ここには心地よい暮らしがあったことを強く感じ、その日常が奪われた無念を思ったのだった。みずえさんの家も解体される。きっと両家は同じ時期に解体されるのだろう。 
 その先を行くと整地されて代赭(たいしゃ)色(くすんだ黄赤)に山砂が広がるところがあるが、復興拠点となった地域の耕作地とされる場所だ。復興拠点になる以前には柳が繁茂していたが、もともとは田んぼだった場所だ。今は柳林は刈り払われて、再び耕作地らしく改められた。だが今、ここで何が耕作できるというのだろう。それより何より戻って農業をやる人がいるだろうか。みんな故郷に戻りたい、帰りたい。けれどみんなが帰りたい故郷は、放射能で汚される前の、大事に土を育ててきた田圃や畑が広がる元の姿のままの故郷なのだ。 
 スクリーニング場に戻り、車から降りて白装束を脱いだ。脱ぎ方は青い靴カバーを外した時と同様に、外側に触れずに中に畳み込むように脱いで丸めてビニール袋に収め、袋の口を閉じて係員に渡した。この白い服やキャップ、靴カバーは、決して放射線を防護するものではなく、汚れが衣服につかないようにするためだけであって、被ばくを避けるためのものではない。係員はそれを受け取った後で、一人ひとりの靴底に線量計をかざして測り、「はい、基準値内ですね。大丈夫です」と言った。 
 今回の被災地ツアーを計画したとき私は、スクリーニング場で防護用品を受け取って、スクリーニング場でまたそれを返すまでを、参加者に体験して欲しかった。ただ「我が家に帰る」「墓参りをする」のに、このような手続きが必要な帰還困難区域であることを知って欲しかった。体験をさせてくださった今野さんに、深く感謝している。 
 以前に今野さんは、実家に帰省したときの想いを短歌に詠んでいる。

日々憂う 久々に生家に居わすご先祖に逢いに来るにも白装束で
日々憂う わが息子先祖に逢えぬ十年の月日流れど未だ叶わず
日々憂う ふるさとは生者の居らぬ地となりて御霊の眠る黄泉の世界か

(続く)

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。