第16回:被災地ツアー報告④子どもたちに「放射能」を語る言葉を持ちたい(渡辺一枝)

7月に行った被災地ツアー報告、の続きです。

富岡町から楢葉町へ

ふるさとを想い、まもり、つなげる

 朝、双葉屋旅館を出たときに一旦別れた高村美春さんとまた合流するために、ここで待ち合わせ。まずは富岡町役場に行った。驚くような看板が目に飛び込んできた。建物外の柱に立てかけた立て看板。「税金は 希望をつなぐ 未来への光 富岡高等学校 ◯◯◯◯」と書いてある。◯の部分には名前が記されていた。富岡高等学校は2017年で休校になっているから、これはそれ以前に設置され、そのままになっているのだろう。「そのままになっている」のは、役場職員が気が回らずに放置しているのか、それとも故意にそのままにしているのか、どっちなんだろう? いずれにしても「凄いなぁ」と思う。たぶん学校で標語を作る課題が出されて、それで選ばれた言葉なのだろう。税金に関して学習した時のものなのだろう。教育の中身が問われるような標語ではないか。凄いなぁと、ため息が出る。
 道路の向かい側には開設されたばかりの「とみおかアーカイブ・ミュージアム」があり、そちらに向かうと、ちょうど美春さんも到着したところだった。開設されたばかりだから、今野さんも美春さんも初めて訪ねる場所だという。「富岡町の成り立ちと複合災害がもたらした地域の変化を伝えます」という町立の施設だ。常設展示室と収蔵エリア、タウンギャラリーの三つのブースからなっていた。
 入り口でもらったリーフレットを読んで、私はその姿勢に好感を持った。

ふるさとを想い、まもり、つなげる、拠点施設です。

みなさまへ
 お伝えしたいのは、富岡町という「土地」と私どもが経験した10年間の出来事です。2011年3月11日まで、そこには「当たり前の日常」があふれていました。しかし、東日本大震災の影響で生じた原発事故は、富岡町で暮らすという「当たり前の日常」を、突然奪いました。3月12日、町民は、違う土地で暮らす覚悟ができないまま、ふるさとを離れました──
 当館は、富岡町の「特徴」と、この地域で生じた自然災害・原発災害の『特徴』を展示しています。みなさまがお住まいの土地と富岡町のにているところや異なる点を意識しながら、展示をご覧ください。そして、ご自身がお住まいの地域で『富岡のような複合災害が起きたら』どうなるか、を想像してみてください。少しだけ、明日への向き合い方が変わるかもしれません。

 常設の展示も興味深く見て、受付近くにいた係員たちに声をかけた。町の職員で学芸員資格を持つという若い男女だった。計画から設立、展示まで彼ら自身も関わってきたという。
 収蔵エリアはまだ何もできていないし、これから整えていかなければいけないことも多々あり、さらに充実させていきたいと思っていると抱負を語ってくれた。彼らの姿勢にもまた、とても好感を持った。

 原発事故で出た指定廃棄物の最終処分場へ入る道の前を過ぎる。墓地の脇に道路ができて、その道を上っていったところ、墓地の裏山が最終処分場なのだ。墓地には大きな立て看板があった。「放射性物質の最終処分場建設に反対の異議を唱える」と書かれていた。
 富岡町では「廃炉資料館」も見学を予定していたのだが、東京が緊急事態宣言中ということで休館だった。富岡町は福島県だが、廃炉資料館は東電の施設なので東京が緊急事態になると東京に合わせて休館となるのだそうだ。その理屈は今ひとつ納得できなかったが、残念ながら、見学は叶わなかった。以前に私は見学したことがあるが、館内をガイドしてくれた老紳士然とした係官の、「事故の原因は津波という天災ではなく、驕りと過信が生んだものでした。深く反省しています。反省と教訓を胸に責任を全うし、廃炉をやり遂げて参ります」という言葉が、何とも虚しく耳に残っている。騙されてはいけない。東電はここにこういう人を配置しながら、それで汚染水を海洋放出するというのだから。

原発設置の「飴」──キャンプ場でのランチ

 とみおかアーカイブ・ミュージアムを出るときに、今野さんと美春さんで相談の結果、お昼ご飯は天神岬キャンプ場でということになった。私は今野さんの車から美春さんの車に移って、この先は2台での移動だ。美春さんの車は新車で、ガソリンではなく電気で動く車だ。私は運転ができないので全く知識はないが、美春さんがいうには、ガソリン車と電動車は、全く違うらしい。「これは掃除機や冷蔵庫と一緒です」などと言う。前の車がダメになって買い替えなければいけなくなったときに、色々考えたという。「全くシステムが違うから、今ならまだそれを覚えられるが、もっと歳がいってからでは、覚えられないだろうと思ったから」と電動車にした理由を言った。こんなふうに先を見据えて今の行動を考えていく姿勢が、美春さんのとっても素晴らしいところだと、こんなことからも感じた。
 天神岬のキャンプ場は、とても気持ちの良いところだった。よく晴れて暑さもさほどでなく、私たちが陣取ったテーブルは木陰で、願ってもない位置だった。キャンプ場はたくさんの家族連れで賑わい、テントもそこここに張られていた。私たちのテーブルの隣にも家族連れがやってきて、どうやら彼らはここでバーベキューをするらしくバーベキューセットが置かれた。私たちはせんだん亭で1人前ずつパックしてくれた浪江焼きそばの包みを開いた。麺が太いのにツアー参加者の皆さんは驚いていたが、美味しくいただいた。
 ここは福島第二原発建設にあたって交付された電源三法交付金で町が作った施設で、町が管理している。キャンプ場やバーベキューのかまど、オートキャンプ駐車場などは有料だが、私たちのようにお昼を食べに利用するだけなら無料だ。施設内には子どもの遊具を設置した遊技場もあり、子育て中の親にとっては遠出の旅行をしなくても手軽に気分転換できる場所だろう。こうした施設もまた原発設置の「飴」なのだろうなと思う。

東京から楢葉町へ運ばれた「非核の火」

 お腹もいっぱいになって、再び出発。
 目的地の宝鏡寺へ着くと、早川御住職が庭木の手入れをしているところだった。身の丈ほどもありそうな大きな枝を払ってそれを運び出していたが、「何ですか?」とお聞きすると蝋梅だと言い、そして「これは性が悪い木なんだ」と言う。早春に香りが良くて、緑がかった薄い黄色の蝋細工のような花をつける蝋梅は好きな花の一つだが、なんと、それは性悪な木なのだという。どんなふうに性悪なんですかと聞くと「枝の張り方を見て下さい」と答えが返った。枝ぶりがやたらめったらで、始末が悪いらしい。もしかしたら蝋梅が性悪というのでなく、たまたまこの木の性が悪いということだったのかもしれないが、木にも性の良し悪しがあること、私には思いもよらなかったことで面白く聞いた。見ると枝先に種が付いていたので、頂いてポケットに入れた。植えてみよう。根付いたら、さぁ、どんな蝋梅が育つのか。
 建物の前に立つのは黒御影石に刻まれた「原発悔恨・伝言の碑」、またその隣にはコンクリート製の「非核の火」が小さな、けれど決して消えない火を灯し続けている。この灯は「ヒロシマ ナガサキ ビキニ フクシマ 伝言の火」だ。碑に添えられた鳩のモニュメントを見てI・Yさんが「あれ? これ上野にあるのと同じ?」と呟くと、今野さんがすかさず言った。「上野から移されたんです」。
 この「原爆の火」は「上野の森に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」が管理団体となって、上野の東照宮境内で30年間灯し続けられてきた。灯す会は毎年8月に被爆や戦争を語り継ぐ会を催していたが、宮司が代替わりし重要文化財の前で火が燃えているのは危険だからと移設を求められていた。移設の受け入れ先に難航したが、灯す会の理事長の小野寺利孝弁護士が宝鏡寺の早川篤雄住職に相談し、快諾されて移設が叶ったのだ。そして東照宮境内のモニュメントと種火を運んで、今年3月11日に点火式を行ったのだった。I・Yさんは以前に8月の上野東照宮での語り継ぐ会に参加していたので、このモニュメントを見て、上野にあったのと同じだと気づいたのだ。
 早川さんは、東京電力福島第二原子力発電所建設計画が持ち上がった時から反対運動に取り組んできて、設置許可処分の取り消しを求めて行政訴訟を起こした。裁判は地裁、高裁、最高裁と闘われ17年9ヶ月にも及ぶ長期にわたったが、いずれも原告敗訴の判決で終わった。
 原発の設置許可を取り消せという訴えは、決して我欲からの訳がなく、ひとえに地域の自然、人々の暮らしを守りたい一心からだった。建設を止め得なかった悔恨の思いが、この伝言館を造らせた。
 2011年3月の福島第一原発事故から10年の節目に開設された「原発悔恨・伝言館」には、早川さんが保存してきた1970年代の新聞などの多数の資料が展示されている。旧科学技術庁が作り、各地の公共施設などに貼られた「エネルギー・アレルギー」と文字があるセミヌードの女性の大きなポスターは、一際目を引く。これは科学技術庁が1977年10月26日の「原子力の日」に向けて制作したものだという。原子力を恐れるのは過敏なアレルギー症だと喧伝し、また広く知られていない「原子力の日」を記念日として知らしめようとの意図で作成されたのだろう。大手の広告代理店が作ったものだろうが、図柄といい、文言といい、あまりにも市民をバカにしているではないか。強い憤りを覚える。
 1956年に日本が国際原子力機関に参加したのを記念して、10月26日を「原子力の日」にすることが1964年に閣議決定されたのだという。壁の展示は、核燃料をエネルギー源として経済成長してきた日本の辿ってきた道筋を伝えている。
 これらの歴史的資料の他に原発事故後の除染の写真や線量マップ、震災関連死についての説明パネルなど、どれも貴重な資料が展示されていた。
 1階のフロアでは、原発事故に関連した資料が、地階には広島・長崎の原爆被害に関する資料やビキニ環礁で被爆した第五福竜丸など、アメリカの水爆実験やソ連、フランスの核実験に関する資料が展示されている。原発は「核の平和利用」であるという言葉がまやかしで、軍事力の保持・拡大につながっていくことを如実に語る伝言館だ。
 2011年3月の福島第一原子力発電所の事故では、福島県から避難を余儀なくされた人が数多いる。避難者たちは2012年12月3日、「福島原発避難者損害賠償請求事件(避難者訴訟)」を提訴したが、その原告団長が早川さんで、小野寺弁護士はこの裁判の弁護団長だ。こうして上野の森に灯されていた「原爆の火」は、宝鏡寺境内で「非核の火」となって、灯し続けられている。

広野町からいわき市「古滝屋」へ

スポーツ施設として再開──Jヴィレッジ

 楢葉町から広野町へ向かい、「Jヴィレッジ」へ行った。ここは東電が原発立地地域の地域振興事業として福島県に寄付し、1997年に開設されたスポーツトレーニング施設で、広野火力発電所に隣接している。私たちは施設内のカフェで一休みすべく、各自飲み物を注文した。
 炎天下、2面の芝生の競技場で練習している選手たちの姿があり、別の1面では手押しの散水車で芝生に水を撒いている人たちがいた。水撒きしている2人は裸足だ。灼熱の太陽に照らされているとはいえ、水を撒いたばかりの芝生を裸足で踏むのは、さぞ気持ちよかろうと思った。だが、今ここはスポーツ施設として再開されているが、少し前までは、全く様子が違っていた。
 2011年3月11日、ここは一次避難所になり多数の避難者でいっぱいになった。しかし原発から半径20キロ圏内だったため、避難者はここからさらに避難して行った。3月15日からは原発事故の対応拠点となった。9月にいわき市に作業員の宿泊施設が作られるまでは、作業員はここで宿泊(食事も)し、原発構内で作業をして戻れば、この敷地内の除染も自分たちでしていた。9月以降は、ここで作業服に着替えて原発へ向かうようになった。東電は2013年には石崎芳行氏を社長として、ここに福島復興本社を設立した。そして11面のピッチの内10面は、資材置き場、駐車場、プレハブとなった。
 年月を忘れてしまったが、私はその時期に一度、フクイチ(福島第一原発)構内の視察に入ったことがある。南相馬市の上野敬幸さんに誘われて、「たぁくらたぁ」編集長の野池元基さん、大熊町の木村紀夫さんらと一緒だった。Jヴィレッジに着いたのは、訪問を約束していた時刻よりも15分ほど遅れた時刻だった。駐車場に車を止めて入り口まで歩いて行くと、入り口の前には石崎氏以下十数名の社員がずらりと立ち、私たちを出迎えた。上野さんが遅れた詫びを言うと、石崎氏はいともにこやかな笑顔で「いいえ、お待ちしていました」と言い、そこにいた全員が深々とお辞儀をしたのだった。咄嗟に私の頭には、「慇懃無礼」という言葉が浮かんだ。
 あの時は、今は緑の芝生が張られている処はコンクリートの駐車場やプレハブの建物で、その建物の中で作業員が作業服に着替えていたし、私たちもまた防護服を着たり首から下げる積算線量計を身につけたりしたのだった。そこから東電のバスでフクイチへ行き、バスに乗ったままで構内を見て回った。一昨年の暮れに再度視察に入った時には1〜4号機を直接目視することができたが、このときの視察時にはまだ構内の放射線量が高くて、バスの車内からの視察だった。
 2017年3月いっぱいで、東電によるJヴィレッジ使用は終了して元通りにされ、2019年4月に、8年ぶりにスポーツ施設としての全面営業再開となった。だが当面は試合はせずに練習場としてのみの使用らしい。
 またJ R東日本と福島、双葉地方町村の協定でJR常磐線に新駅を作ることが決められ、「Jヴィレッジ駅」も出来た。2019年4月から営業開始し、当初はイベント開催時だけの使用だったが、2020年3月14日からは全日営業となったようだ。

「原子力災害考証館 furusato」

 Jヴィレッジを出て、この日の宿泊先のいわき市「古滝屋」へ向かった。ここは温泉街、いわき湯本の中心地にある老舗旅館だ。創業は元禄8年で、当主の里見善生さんで16代目になる。ここを宿に選んだのは、旅館の9階に開設された「原子力災害考証館」を参加者の皆さんに見て欲しかったことと、里見さんの話を聞いて欲しかったからだ。
 被災後、湯本に多くのボランティアが来てくれた時に、ここは彼らの宿泊施設となった。
 支援物資の受け渡し拠点ともなり、こうした活動をしていく中で里見さんは被災地のスタディツアーを始めた。ボランティアで来てくれた人たちが活動の疲れを温泉で癒すという温泉旅館として「身の丈にあったサービスを提供」する営業活動と共に、被災地の現状を「伝える」ことが大切だと考えたのだ。
 被災した年の冬からは語り部活動にも加わり、歴史や文化を奪った原子力災害がなぜ起きたのかを考える場の必要性を感じてきた。そして水俣を訪ねて水俣の歴史考証館を視察して、公的施設とは異なる視点で資料を展示する民間施設としての役割もあるのではないかと考えた。民間だからこそできることがあるだろうと思い、宴会場だった20畳の部屋を改装して「原子力災害考証館」を造ることにした。
 だが事はスムーズには進まなかった。ここは観光客が温泉での癒しを求めてやってくる町だから、放射能を思い起こさせるこのような施設は当地のマイナスイメージとなって困るという声が上がった。里見さんは、そうした意見は温泉旅館として当然だろうと理解したが、「原発事故によって私たちは何を失ったのか。命の営みにとって本当に大切なものは何か。大切なものを二度と失わないようにするためには、どんな社会を目指せば良いのか」、そうした問いに向き合える場を造りたいという思いの方が強かった。
 そこでは資料を保存し、展示する。また思索するスペースを提供し、意見を交換し合う場を作る。原子力災害で故郷を追われた住民が生きた証し、先祖代々から伝わる歴史や文化を伝える施設を「原子力災害考証館 furusato」と命名することにした。そして原発事故から10年経った2021年3月12日に、オープンしたのだった。
 私は4月に一度ここを訪ねているが、その時里見さんは毎回3人ほどの被災者の資料を展示し、展示は3ヶ月ごとくらいに変えていこうと思うと言っていた。が、この日はまだ4月に見た時と同じで、大熊町の木村紀夫さんと行方不明の次女汐凪(ゆうな)ちゃんに関する品と写真、浪江町の商店街の同じ場所を2013年、2020年に撮った中筋純さんのストリートビューの写真展示と、その写真に在る三原商店の三原由紀子さんの短歌が展示されていた。ツアー参加者には、心に訴えかけるものが多々あったに違いない。
 部屋の中央には汐凪ちゃんの遺品の水色のランドセルや運動靴が、瓦礫の中から見つけられたばかりのような様子で置かれている。その奥の正面の壁には壁いっぱいに大判の、岩波友紀さんが撮影した大熊町での遺体捜索中の写真が貼られ、汐凪ちゃんの遺体の一部がそこからこぼれ出た遺品のマフラーも、たった今そこで見つかったかのようにピンで止めてあった。
 右手の壁には純さんの写真パネルと、色紙に書かれた三原さんの短歌「わが店に売られしおもちゃのショベルカー大きくなりてわが店壊す」「二年経て浪江の街を散歩するGoogleストリートビューを駆使して」が貼られていた。純さんの2013年の写真にある「BRIDGESTONE乗り物センター三原」の看板を掲げシャッターを閉じている店は、三原さんの実家だ。
 20畳の宴会場だった部屋を改装した考証館は畳敷だ。ある日の見学者は幼児を連れていたという。子どもは、畳に腹這いに寝そべって、中央に展示されている汐凪ちゃんの遺品に見入っていたそうだ。里見さんからその話を聞いた時に私は、資料を展示して見せるだけでなく、思索する場、意見を交わし合う場にしたいという里見さんの意図を一層深く理解したのだった。

 久しぶりの温泉で、大浴場で汗を流して疲れを癒した。夜更けて9階の女性専用露天風呂へ行った。冴え渡った月光を浴びての入浴だった。明日は満月。

ツアー最終日(7月24日)

 出発前に古滝屋の前で記念撮影。片岡遼平さんとはここで別れ、私たちはコミュタン福島(福島県環境創造センター交流棟)へ向かった。私は昨日同様に美春さんの車の助手席へ、他の4人は今野さんの車で。美春さんとの車中でのお喋りが、楽しい。話の内容は書けないけれど、二人ともお腹の皮が捩れるほど笑った。「こんなに笑ったの久しぶり」と言い合いながら、それがまたおかしくて笑い合う。思春期の少女が笑う姿を「お箸が転げてもおかしい年頃」などと言ったりするが、とうに思春期を過ぎている私たち。笑いに年齢は関係ない。赤塚不二夫さんの天才バカボンではないが、「それでいいのだ!」。

コミュタン福島

 磐越自動車道船引三春インターチェンジで降りて、コミュタン福島の駐車場に入ると、ちょうど子どもたちが引率者と共に入り口を入っていくところだった。駐車場には彼らを乗せてきた観光バスが3台停車していて、フロントガラスには「春日部市立川辺小学校」の名札が貼ってあった。
 この「コミュタン福島」は「環境回復・創造の“学びと発信”を目指して」と謳い、「子どもたち・県民とともにふくしまの未来を創造する“対話と共創の場”です」ということを目的に作られた施設だ。この施設が開設された時、子どもたちの課外授業の場に活用することが目的であり、放射能の危険性よりも、放射能は怖がらなくても良いのだというメッセージを伝えていく在り方に批判と危惧が多くあった。数年前に私も見学して、その批判と危惧に同じ思いを抱いた。
 館内は6つのブースに分かれていて、福島の3.11後の様子を写真や模型で示したり、自然界の動植物などを写真パネルで説明している。「放射線ラボ」のブースには、本来は見たり聞いたり嗅いだり触ったりと体感することができない放射能を、ゲーム感覚で可視化できるような装置があり、数人のグループが興じていた。見学の子どもたちはグループでの行動で、各グループに館内の係員が一人ずつ付いて、説明をしていた。
 この施設の目玉は「環境創造シアター」で、これは全球型のスクリーンに映る映像をその音響と共に体験するもので、方向感覚がおかしくならないように備え付きのバーにしっかりつかまって見るものだ。この日はコミュタン福島制作の『放射線の話』と国立科学博物館の番組から『人類の旅 ホモ・サピエンスの拡散と創造の歩み』『深海 潜水艇が照らす漆黒のフロンティア』の3本を見たが、頭には何も残らなかった。なんだか、こけおどしの装置で「どうだ、参ったか!」と言われているような気分が残っただけだった。
 子どもたちが書いた感想を貼ってある壁があったのでそれらを読むと、「福島にはたくさんの昆虫がいることがよくわかりました」「将来は科学者になって、いろいろ研究したいとおもいます」などとあった。この日見学に来ていたのは春日部市立川辺小学校の5年生で、猪苗代湖畔で2泊3日の林間学校の帰りだという。彼らは家に帰った時に親たちにどんな話をするのだろう。猪苗代湖畔での体験の他にこの施設での見聞を話すのだろうか? 話すとすれば、どんな話をするのだろう。コミュタン福島で係のお姉さんが言った言葉を、親に話すのだろうか? 「処理水は海に流すんだよ。トリチウムは水と同じなんだって」などと言うのだろうか?
 私たち大人は、子どもたちに「放射能」を語る言葉を持ちたい。

 コミュタン福島の見学を終えて、予定していた「被災地ツアー」は終了した。高村美春さんとは、ここでお別れだ。美春さんは郡山の友人のところへ行くという。私たちは今野さんの車で東京へ帰る。高速道路で、大谷のパーキングエリアでトイレ休憩を取り、久喜駅で埼玉県に自宅のあるI・MさんとN・Yさんを降ろして、後の3人は東京駅で降ろしてもらった。今野さんには、本当にお世話になり、中身の濃い「被災地ツアー」となった。

 「被災地ツアー」報告はこれで終わりです。

一枝

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。