司法はこれでいいのか〜「司法の危機」時代を生きた経験を踏まえて〜(2)講師:梓澤和幸氏

23期司法修習生だった50年前、「司法の危機」といわれる時代に直面した阪口徳雄さんと梓澤和幸さん。中でも、阪口さんの司法修習生罷免と資格回復に至る経験は、その後のご活動にも大きな影響を与えました。「司法はこれでいいのか」と問いかけ続け、さまざまな社会問題に取り組まれてきたお二人から、それぞれの経験を踏まえた貴重なお話をいただきました。※「(1)阪口徳雄氏 講演レポート」はこちら。[2021年9月11日@渋谷本校] 

梓澤和幸氏 講演/法律家の仕事と良心の力

「何が阪口君を戻させたのか」

 今年4月、阪口くんの問題を中心に、司法修習生23期の25人が集まって『司法はこれでいいのか。裁判官任官拒否・修習生罷免から50年』という本を出し、私はその編集長をしました。本を出すにあたり、治安維持法と特攻問題を研究している方から「戦前思想を裁く事件を色々と集めた『思想月報』という雑誌があるから調べてみなさい」と示唆されて調べました。そうしたら阪口君を罷免した最高裁判所長官(当時)である石田和外氏が戦前に何をやっていたかが載っていたんです。彼の自叙伝の中でも一言も触れられず、戦後もまったく語られてこなかった内容でした。
 それは何かというと1938年からの「唯物論研究会事件」(※)など、治安維持法を適用した有名な事件で予審判事を務めるなど判決に関わっていたことでした。言ってみれば彼は思想判事、つまり思想を裁く裁判官だったわけです。もし、戦後にGHQが裁判官や検察の中にも手を入れていれば、日本の司法はもっと変わっていたでしょう。しかし、彼は温存され、戦後に司法省から最高裁判所事務総局が出来た時代に人事課長になっています。
 裁判をやらない裁判官を「司法官僚」といいますが、石田氏はまさにそれで、事務総局の人事課長、人事局長、事務総長となって、たまに現場に戻りながらも最高裁判所長官になっていきました。最高裁判所長官というのは、つまり裁判官と現場の裁判を管理・統制する司法行政の最高責任者です。
 そして、50年前に石田氏が一人で決めて実行したとされるのが、7名の裁判官任用拒否、宮本裁判官の再任拒否、そして修習生の罷免です。当時、石田氏に直接電話をかけて「なぜ罷免したのか」と尋ねた弁護士がいましたが、彼ははっきりと「日本のためにやった」と言ったそうです。そして罷免から1年経ったあとにも、石田氏は「阪口は未来永劫戻さない」とはっきり話しているのです。しかし、結果としては阪口君の資格は2年で回復することができた。では、何が阪口くんを戻させたのでしょうか。
 その一つは国民運動、そして最高裁裁判官国民審査です。1972年の国民審査は沖縄返還後に初めて行われた国民審査でした。投票総数が4987万8170人。投票率は67.61%、罷免要求が12.95%。裁判官にバツを付けた投票がこれまでより多かった。特に沖縄での反発が強かった下田武三氏に対する罷免要求は全国で15.17%と歴代最高で、沖縄では過半数を超えました。日本と沖縄の行方について関心を持った人たちが国民審査でバツを付けたんです。これが最高裁判所を揺さぶった。国民運動の結果、ここまで持ってくることができました。
 さらに大事なことは、私たち仲間が決して阪口君を忘れなかったことです。「阪口が戻るまでは生きた心地がしない」と、裁判官に任官された人たちも阪口君が地方で講演するときには会場に来てくれたそうです。こうした仲間意識と国民の力で、権力が絶対に戻さないと言ったものを戻すことができた。これはもっと歴史学者に研究してほしい大事件だと思っています。

※唯物論研究会事件:1938年11月29日に雑誌「唯物論研究」(あらため「学芸」)に関わる主要メンバーが一斉検挙された思想弾圧事件。その後、第二次検挙も行われ、追及は数年続いた

絶望の中で希望を語る

 このように最高裁がすべての情報を集め、判決を決めていく制度のなかで、裁判官は「ヒラメのようだ」と例えられることがあります。ヒラメという魚は生きていくために上ばかり見なくてはならず、下を見ないということです。しかし、では希望はないのか、というと私はそう思いません。
 あるキリスト教の牧師さんから言われた、忘れられない言葉があります。それは「弁護士というのは闇の中で光を、絶望の中で希望を語らなければならない」というもの。私たちは阪口君が罷免されていた間、絶望の中で希望を語り続けました。当時、一緒に闘った人たちの中には体を壊して亡くなった人もいます。そのうちの一人、宮地義亮弁護士が「阪口が良心を曲げることなく戻れたことは実に大きな喜びである」ということを書いています。
 憲法第76条3項の条文に〈すべて裁判官はその良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される〉とあるのを思い出してほしいのですが、この「良心」というのは何でしょうか? 憲法研究者の長谷部恭男氏が「裁判官は人であることをやめない限り、制定法や判例法理に盲従することは裁判官の任務に反し、許されない」と言っています。厳しい言葉ですね。
 この「良心」に関する議論はいろいろありますが、裁判官にも人間として感ずるものというのがある。それに逆らって「このまま判決を書いたらマズイことになるかな」ということをやっていてはダメで、その瞬間にその人は「人であること」をやめているんだということを長谷部氏は問題提起しているのだと思います。

裁判官の良心を感じた事件

 僕が裁判官の良心を感じた事件についてお話しします。1991年にある朝鮮人の方が日本で起こした訴訟を依頼されました。
 事のきっかけは、裁判から50年近く前にさかのぼります。太平洋戦争真っ盛りの1943年、あの暗黒の時代に、日本鋼管川崎工場で朝鮮半島から戦時強制動員で日本に連れて来られた平均18歳の労働者たちがストライキを行いました。なぜストライキになったかというと、日本鋼管の幹部がある冊子に「朝鮮人は常にだらんだらんして、いかにも何か怠惰らしく見える」「非常に劣るように見受けられる」など、朝鮮人労働者を蔑視・侮辱するような記載をしていたのを、ある一人の労働者が見つけて激昂したんです。
 「俺たちを働かせておいて、飯も満足に食わせないで、この差別感はなんだ」「この見解について聞きたい」と座り込んで朝鮮人労働者800人がストライキをやりました。それで警察官や憲兵が駆けつけました。そのなかに労働者を指導する日本鋼管の人たちもいたのですが、そのうちの一人が「俺の指導が悪かった」と人差し指を切り落とそうとしたのです。それで動揺が広がったために、のちに私の依頼者になったキム・ギョンソク(金景錫)さんが「捕まって連れて行かれた仲間がいるから、その2人を返してくれれば解散する」と名乗り出ました。
 彼はすぐにストライキの首謀者として疑われ、私服警官や被告会社の従業員などから長時間にわたって拷問され、木刀や竹刀で殴打されました。仲間たちが「彼を解放したら解散する」と要求して釈放されましたが、そのときの後遺症が残ったまま1945年に治療のために自費で郷里に帰ったのです。
 そして、その彼が自ら朝鮮半島から出てきて、東京地方裁判所に手書きの訴状を出したのです。事件が起こったのは1943年ですから、1991年の訴訟時点では45年以上も経っていて時効や除斥の期間にもなっています。それにもかかわらず、このとき一審の裁判官は詳しい事実認定を書きました。そして、最終的に日本鋼管は事実上の謝罪をして控訴審で和解したのです。戦後初の徴用工事件の和解として海外でも報道されました。この判決を書いた裁判官は、自分の良心に照らして判決を下したのだと思います。
 ほかにも裁判官の良心を感じた例としては、沖縄返還の際に密約があったことがわかり、密約文書の情報公開を求めた裁判がありました。日本政府は情報公開を拒否しましたが、それに対して「情報公開しなさい」と求め、さらに国民の知る権利をないがしろにして精神的苦痛を与えたことへの国家賠償も認定しました。この非常に胸のすくような判決を下したのが、杉原則彦裁判官(当時)です。この方は、最高裁判所の調査官を主席まで務めたいわゆるエリート裁判官です。
 こうした大きな事件だけでなく、普通の事件のなかでも良心に従う裁判官に出会うことがあります。裁判官というのは、良心に従って裁判を進め、判決を出すことが憲法上保障された特別な職業なのです。今の日本政治は汚れきっていますが、裁判官の独立を徹底して良心を大事にする志をもった裁判官がもっと増えれば、きっと原発は止まるし、沖縄も救われるし、コロナ禍で困っている人たちを助けることもできる。裁判所は、そういう可能性をもっています。

突然、号泣した父親

 最後に、故郷での個人的な経験をお話しします。
 それは、故郷・群馬県桐生で僕の親父が孫たちを連れて一緒に海水浴に行ったときのことでした。かき氷を食べていると突然親父が泣き出したんです。そして、自分が徴兵にとられていた間に、当時3歳だった私の兄が間違って防火用水を飲み、医者の手当ても受けられずに疫痢で亡くなったときの話をしました。孫の顔を見てそのことを思い出したんでしょう。「上野の動物園に連れてったら喜んでな」と兄を思い出して、うおおと号泣しました。
 私は学生時代からずっと平和運動をやってきましたが、親父やお袋が何十年と抱えてきた悲しみを感じとれなかった自分を恥じました。自分の最も近いところにいる人たち、戦争を背負ってきた人たちに共感して、同じ過ちをくり返してはいけないと思うこと、それが平和運動であり、伊藤真先生たちがやっている安保法制違憲訴訟にもつながっています。
 そうした思いを言葉で語って裁判官を説得することができる職業、この日本を変えていく、あるいは変えられなくてもその中で希望を語ることができる職業、それが法律家なのだということを最後に皆さんへのメッセージとして終わります。

あずさわ・かずゆき 弁護士(東京千代田弁護士法律事務所 所属)。1943年、群馬県桐生市の繊維小売商の家に生まれる。一橋大学法学部卒業。1971年4月弁護士登録(23期)。戦争中に3歳年上の長兄を失ったこと、それゆえに父、母が一生かかえた悲しみの深さを知ったことが、反戦平和、人権の尊さを身につける基礎となった。裁判官の良心(憲法76条3項)とは何かを考え続けている。著書『リーガルマインド-自分の頭で考える方法と精神』(リベルタ出版)ほか。

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