第585回:「叱る依存」という病〜指導死、虐待、DV、パワハラ、そしてSNS上のバッシングや「厳罰化」、危険な中絶方法などなどの背景にある根深いもの。の巻(雨宮処凛)

 2012年、大阪府大阪市の高校に通う男子生徒が自殺した。バスケットボール部のキャプテンをしていた男子生徒の手紙と遺書には、顧問教師から体罰を受けてつらいなどと書かれていた。

 17年、福井県の中学校に通う中学二年生の男子生徒が自殺した。宿題の提出などについて、周囲が身震いするほどの大声で担任などに怒鳴られた末のことだった。

 18年、岩手の高校に通うバレーボール部の男子生徒が自殺した。残されたメモに「ミスをしたら一番怒られ、必要ない、使えないと言われた」と書かれていた。

 19年、茨城県の中学校に通っていた中学三年生の女子生徒が自殺した。自宅に残されたメモには、卓球部顧問の男性教諭から「ばかやろう」「殺すぞ」などの暴言を受けたことなどが書かれていた。

 これらは「指導死」と呼ばれるもので、教育評論家・武田さち子さんの調査によると、未遂も含む指導死は、平成以降94件も起きているのだという。

 私が10代の頃、「指導死」という言葉はまだなかった。が、中学校では体罰は当たり前、「忘れ物をした」「私語をした」などの理由で毎日誰かが殴られ、時に髪を鷲掴みにされ引きずられるなどしていた。部活では「指導」の名のもとに毎日暴言を浴びせられ、なんの理由もなく殴られるのは日常茶飯事だった。

 そんな経験は、今も決して消えない傷として私の中に残っている。同じような経験をした人の中には「それでも厳しく指導してもらってよかった」などと口にする人もいる。が、あの経験を肯定してしまうと自分自身も加害し、それを正当化してしまいそうだから、決して肯定しないようにしている。

 そんな体罰だが、20年4月、親などによる体罰の禁止を盛り込んだ改正児童虐待防止法と改正児童福祉法が施行され、風向きが変わってきてもいる。

 さて、そんなことを突然書いたのは、『〈叱る依存〉がとまらない』 (村中直人著/紀伊國屋書店)という本を読み、非常に感銘を受けたからだ。

 この本を読んで、なぜ「指導死」が今もなくならないのか、なぜDV、虐待、パワハラが起きてしまうのか、そしてSNS上で他者を自殺に追い込むほどの「バッシング」がなぜ収まらないのか、そのメカニズムがよくわかった。

 本書は「叱る」ことには効果がなく、しかし、副作用としての弊害は大きいこと、また「叱る」には依存性があり、エスカレートしていく傾向があること、その理由は脳の報酬系回路にあることなどが指摘されている。

 叱る人は、叱ることによって処罰感情を充足させ、自己効力感を得ており、これが暴走するとDVやパワハラ、他者へのバッシングなどに繋がっていくそうなのだ。また、苦痛を抱えている人が「叱る」行為で快楽を得ることが続くと、「叱る依存」が加速していく傾向があるという。しかも自分が損をしてでも叱りたいという欲を抑えられなくなることもあるそうだ。以下、本書からの引用である。

 米『サイエンス』誌に掲載された研究によると、なんらかのルール違反を犯した相手に罰を与える体験をすると、報酬系回路の主要部位の一つ(背側線条体)が活性化することが報告されています。興味深いことに、この部位が強く活性化した人ほど、自分自身が損をしてでも相手に罰を与えようとする傾向があったのです。
 これはとても不思議なことです。誰かに罰を与えても、自分には何のメリットもないどころか、損をすることがわかっている。その状況で罰を与えようとするというのは、自分が支払う損による「苦痛」以上の、強い「快感」がなければ起こらないはずです。これらの結果は、人が規範違反を罰することで、強い満足感や快感上を得ているという仮説を支持するものだと考えられています。

 このようなことを念頭に置いて、ある虐待死事件を見ていこう。

 18年、目黒区で起きた船戸結愛ちゃんの事件だ。

 「もうおねがい ゆるして ゆるしてください」

 わずか5歳の女の子は一人の部屋でそんな「反省文」を書かされ、満足に食事も与えられずに衰弱死した。

 母親の優里は保護責任者遺棄致死罪で逮捕。養父である雄大は保護責任者遺棄致死に加え傷害罪などでも逮捕。事件発覚後明らかになったのは、サッカーボールのように腹を蹴り上げるなど、雄大による結愛ちゃんへの激しい暴行。それだけでなく、母親の優里もまた雄大から精神的DVを受け、その支配下に置かれていたということだ。

 しかし母親は女性相談を受けた際、「あなたは殴られたり、蹴られたりしていないのでDVではない」という誤った説明を受けていたという。暴力がなくともDVは成立する上、優里は耳を掴む、頭を押さえるなどはされていた。また、ことあるごとにバカと言われ、子どものしつけができていないと2時間も3時間も説教されていた。

 先ほど、「苦痛を抱えている人が『叱る』行為で快楽を得ることが続くと、『叱る依存』が加速していく」傾向があることに触れた。

 雄大の場合はどうだったのか。執拗に優里を説教し、しつけと称して結愛ちゃんを虐待していた雄大は、「とにかく結愛を幸せにする。俺のようになってほしくない」と熱弁していたという。彼は中学の部活でいじめのような体験をし、大手企業に就職するものの会社に不適応を起こし、8年間勤務したうちの最後の2年は毎朝嘔吐しながら通勤していた。そうして会社をやめて辿り着いたのが、香川県のキャバクラのボーイの仕事だったのだ。そこで優里と結愛ちゃんに出会い、事件が起きる(『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』)。

 『〈叱る依存〉がとまらない』を一読してまず頭に浮かんだのは、この事件の雄大のことだった。妻である優里に執拗に説教を繰り返し、結愛ちゃんに壮絶な暴力を振るっていた彼は、まさに依存的な状態に陥っていたのではないだろうか。

 さて、「叱る依存」が正当化される社会は、厳罰化の流れも歓迎する。

 例えば21年、改正少年法が可決されたが、これは「厳罰化」を意味している。が、20歳未満の子どもの犯罪が増えているのかと言えば、重大事件を含め、急激に減少していることは多くの人も知っているはずだ。その上、厳罰化は再犯率をあげる効果も生み出してしまう。刑期が長くなるほど社会復帰のハードルが高くなるからだ。しかし、厳罰化に向かうのは、法律を決める政治家が〈叱る依存〉に陥っている可能性があるのかもしれないと本書は指摘する。

 政治家は支持者がいることで権力を振るうことができます。「私たちは、悪いやつらに厳罰を与える正義の味方です」というメッセージが、人々の処罰感情を充足させて支持を集めることに、近年の厳罰化傾向の理由を求めることができるのではないかと私は思っています。

 このような「正義の味方パフォーマンス」は、一部政治家による生活保護バッシングにもあてはまるだろう。ある意味、こういった振る舞いは政治家にとって非常にコスパがいい。「けしからん」と言うだけで、いや、ツイートするだけで何もやってないのに何かやってるように見えてしまうのだから。

 本書では、「形を変えた厳罰主義」として、この国の中絶方法も指摘されている。

 それはこの国で主流となっている「掻爬法」。

 日本では人工妊娠中絶をする場合、「かき出す中絶」である掻爬法が主流で、現在、他の方法との併用も合わせて6割以上がこの掻爬法。が、掻爬法は「危険」とされて多くの国ですでに消え、WHOも「時代遅れでやめるべき」としている。

 それなのになぜ、危険でダメージが多い掻爬法が今に至るまで選択されているのか。それだけでなく、世界90カ国では緊急避妊薬が薬局で安く買えるのに、日本ではなぜ薬局で手に入らないのか。また、なぜ薬を飲むだけで中絶できる経口中絶薬がそもそも認可されていないのか(昨年末、やっと承認申請された)。世界70カ国で承認され、WHOも安全な方法として推奨しているのに、である。しかも、日本で中絶手術をすると10〜20万円かかるが、海外での経口中絶薬は430〜1300円。この落差に愕然とするのは私だけではないだろう。

 著者はこのような状況が放置されている理由について、「結果として医療が人を裁いている」と指摘する。

 これらの事実を知ったとき、中絶をする女性たちに医療制度が「罰」を与えることで、後悔や反省を促そうとしているようにしか、私には感じられませんでした。もしくは中絶が危険だと暗に警告を発することが、中絶を減らす抑止力となると考えられているのかもしれないとも思いました。しかしながら、抑止のためのネガティブな感情体験には「中絶せざるを得ない」という事実だけで十分です。その上であえてわざわざ身体的リスクの高い中絶方法を強制しているのだとしたら、その医療制度の背景に〈叱る依存〉の心性が働いていると考えざるをえないでしょう。

 考えてもみてほしい。

 もし、なんらかの病気において、その病気の患者に対して、国際的な常識ではやめた方がいいとされる危険かつ痛みとダメージが大きな手術や治療法が「罰を与える」ようになされているとしたら。当然、患者のみならず多くの人から大反対の声が巻き起こるだろう。そのようなやり方を決めた人間に対しては、「お前何様?」「神なの?」「罰する権利なんて誰にあるの?」などと大きな批判が起こるはずだ。

 しかし、それが「中絶する女」が対象になると、なぜか容認されてしまう。それがこの国でずーっと続いていることだ。これって、女性に対する恐ろしい虐待だと思うのは私だけではないだろう。

 最後に「叱る依存」の例として書いておきたいのは、SNS上のバッシングだ。

 SNSでは、今日も誰かがたった一言の失言やちょっとした間違いで大勢から「許せない」と叩かれている。

 被害に遭うのは有名人とは限らない。一般人もちょっとした言動であっという間に炎上し、一度「叩いていい人」認定されると批判の域を超えた人格否定が数千、数万と押し寄せる。場合によってはプライベートを暴かれ、個人情報も流出するなど取り返しのつかないことが起きる。やられる方はたまったものではなく、そのことによって時に命が奪われ、また多くの人が取り返しのつかない傷を負うが、やる方からすると「祭り」感覚で、バッシングがエンタメ化している。そんな状況を著者は、「処罰感情が暴走する現代のコミュニティ」と書いている。

 これまで、私自身もさまざまな誹謗中傷にさらされてきたが、SNSでの執拗な攻撃や炎上を見ながら、常々「依存症的だな」とも思ってきた。私と会ったこともなく、おそらく私が何をしているのかも知らないような人が、執拗に絡み続けてくる謎。その中には、一方的な正義を押し付けてくる人もいれば、炎上という祭りに乗じて誰でもいいから思い存分叩きまくって鬱憤を晴らしたい、という欲望を剥き出しにした人もいる。

 なんにせよ、それぞれが快楽を感じ、同時に、「悪いあいつを懲らしめてやろう」という使命感も満たしている。自らは何もせず、無料で正義感や処罰感情を満たせるなんて他にはないものだ。だからこそ、依存症的になっているのだろう。が、それはいつだって訴えられ、損害賠償を請求されるだけでなく、顔も名前も晒されるリスクも伴っている。それなのに、やめられない。

 本書には、SNSのバッシングだけでなく、ここまで書いたようなさまざまな「叱る依存」からの脱却方法も書かれている。

 今一度、自分が依存に陥っていないか、そして周りの人の言動に叱る依存が見えないか、改めて検証してみるのもいいだろう。

 ということで、コロナ禍でみんながストレスを抱えている今だからこそ、読んでほしい一冊だ。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。