第16回:死者とともに生きる(小林美穂子)

誰かの生活を支えることの難しさ

 シェルターとして使っている借り上げアパートの一室を開けると、異臭が噴き出すように流れ出てきたが私は怯まない。
 シェルター事業をやっていれば、ゴミ屋敷と化した部屋の掃除は慣れっこになる。もちろん、中にはハウスクリーニングでもしてくれたのかと思うほどにキレイに掃除して引っ越される人もいるが、多くは掃除が苦手だ。たとえば、高齢者で目や体が不自由だとか、障害があって整理整頓が苦手な人、あるいは、ネットカフェや施設、飯場暮らしが長く、自分で部屋を管理するという習慣がない人などもいらっしゃるからだ。だから、私たちの業務の中で「掃除」はけっこう大きなウエイトを占める。

 2月最後の月曜日、私は友人のライター和田靜香さん、ハウジングファースト東京プロジェクト(※)の一員であるゆうりんクリニック看護師の糸山さんと三人で、シェルターから失踪して、1週間前に生活保護の廃止の手続きに入っていた70歳男性Aさんが住んでいた部屋の掃除に来ていた。
 住まいと生活を支えるつくろい東京ファンド(以下、つくろい)の仕事は多様で、生活相談を受けて生活保護申請同行をし、生活保護が開始されれば一緒にアパート探しをして、アパートに引っ越したあとは、必要に応じて部屋の掃除、病院同行、簡単な家電の修理、郵便物の説明、携帯電話の契約、近隣トラブル対応やら、買い物代行などの生活支援、警察から連絡があれば身元引受、家賃を滞納すれば善後策を話し合い、あちこちに一緒に頭を下げ……と、一人ひとりの生活全般にわたる。最近は外国人支援も増えてきているため、通訳業務の需要すらある。つくろい東京ファンドはマルチな便利屋集団と化している。

※ハウジングファースト東京プロジェクト:医療と福祉支援が必要な生活困難者が地域で生きていくことができる仕組みづくり・地域づくりを目指す7団体によるプロジェクト

「寄り添い」ブームにいら立つ

 よく、福祉事務所の居丈高な職員が、利用者の名前も顔も覚えてないくせに「私たちは利用者に寄り添っている」と、ここ数年流行りの「寄り添い」というワードをいとも軽々しく使う。そのたびに、私の心の中のチベットスナギツネが岩陰から顔を出す。
 私たちは相当に利用者さんたちと密にお付き合いしていると思う。それでも、いつも「寄り添って」いるとは、とても言えない。利用者が増えれば増えるほど、目が届かない部分は出てくるし、真剣に取り組めば取り組むほどに自省することが増え、「寄り添えている」と自信を持って言えなくなってくる。
 そう簡単に寄り添えるもんか!
 そのフレーズをあちこちで聞くたびにモヤモヤしてくる。むしろ、寄り添わない人ほどその言葉を安易に使えるのではないかとすら思えてくる。それほどに人に寄り添うのは難しいし、唱えればハッピーエンドになる都合の良い魔法の言葉でもない。体から絞り出すように発語するくらいに、「寄り添う」行為、そして「寄り添い続ける」ことは大変なのだと知った上で、みんなその「寄り添い」とやらをやって欲しいね。と、「寄り添い」ブームにケチをつけたところで本題に戻る。この先、少しショックを受ける描写があるかもしれないが、これも現実なので伝えたい。

死者からの視線

 Aさんの部屋は足の踏み場がないほどに散らかっていた。こりゃあ、時間が掛かるぞーと意を決して入り、掃除道具を玄関先に置く。糸山さんが部屋に入って窓を開け放ち、換気をした。匂いがとても強かったために、上着は外に置こうと、乗ってきた自転車のかごに移動させたあとで、部屋がムンムンと暑いことに気づいた。エアコンがつけっぱなしだった。
 「もー、エアコンつけっぱなしで居なくなっちゃうんだから」
 ゴミ袋やものが散乱した部屋の床に、リモコンを探そうとしてすぐに諦めた。
 「電源から抜いちゃうね」
 私は玄関付近にいた2人に声を掛け、いろんなもので散らかる床の隙間を、飛び石を渡るように歩き、布団や毛布が散乱しているエリアをまたいで壁の電源に手を伸ばしかけたその時、またいだ右ひざ側面に毛布越しに固いものが当たった。その瞬間、「人がいる」と感じた。同時に左下から視線を感じた。
 本能が見てはいけない、見てはいけないと警告したが、私はからくり人形のような動きで視線が送られる先に目を向けた。散乱する布団の中の谷間に、毛布だけをかけた、Aさんに違いない方が、ギュッと固く目をつぶって、「居た」。一目でお亡くなりになっていることが分かる。私はビックリしてしまい、叫び声をあげて部屋から逃げ出し、玄関先にいた2人もただ事ではない雰囲気を察知して外に出た。
 混乱して電話を持つ手が震える私の代わりに、和田さんが方々に連絡をしてくれた。糸山さんのゆっくりとした口調に、私は徐々に落ち着きを取り戻していった。
 つくろいの事務所にいるはずの生活支援スタッフの大澤さんの電話番号を探しているうちに、大澤さん本人が自転車で駆け付け、そのあとつくろい代表の稲葉さんもAさんのデータファイルを持ってやってきて、一時間後くらいには新しい入所者の病院同行を終えた生活支援スタッフ村田さんもやってきた。村田さんはAさんに文字通り寄り添ってきた人だった。
 結局、つくろいの生活支援スタッフが現地に全員集合して警察対応をした。
 ITや広報、企画を担当する佐々木さんと会計の森さんは事務所で留守番をしていて、事務所の鍵を持たない私が「佐々木さん、いつまでいます?」と電話を入れると、「こうなったら僕はいつまででもいるよ。早く帰っておいで」とこれまでに聞いたことがないほどに優しく言ってくれた言葉が沁み、長い間外にいて冷えきった体が温まる思いだった。いつもそれぞれの分野でてんでんばらばらに動いている私たちは、小さな団体なのにお互いが何をしているかもよく知らないほどなのだが、なにかがあると己の意思で結集する。同僚たちの存在をこの日ほどありがたいと思ったことはない。

生活保護→施設→路上の無限ループの中で

 Aさんは長年新宿で路上生活をしていたのだが、去年の11月に生活困窮者支援を行うNPO法人ビッグイシュー基金のスタッフだった木津さんが声を掛け、名刺とテレフォンカードをお渡しした。何日かして電話が掛かってきたため、木津さんが駆けつけ、つくろいのシェルターに空きが出るまでの数日間をホテルの部屋に泊まってもらい、毎日食事を届けたり、様子を見に行ったりしていた。
 穏やかで優しい、気のいい酒好きのお爺ちゃんだったそうだ。
 その長い人生の中には、家庭を持っていたこともあったらしいが、本人にとっても辛いのか、あまり多くは語らない。過去に脳梗塞を患ってからは、辛い記憶も良い記憶も次第にあやふやになっていった。片足も不自由で傘を杖代わりにして歩く。

 過去に30回くらい生活保護を利用しては民間の劣悪な相部屋施設に送られ、そのたびに逃げ出していた。路上にはAさんのように、施設での生活がトラウマとなった人たちが多く、体を壊しても生活保護を拒み、更に状態を悪化させていく現状がある。生活保護を利用しない理由の第一位は扶養照会だが、第二位が施設入所だ。
 福祉事務所の窓口に保護の申請に行くと、「どうして保護が続かないのか?」とか、「どうして何度も(施設を)出ていくんですか?」と聞かれる。
 今から10年近く前には「今は本当のホームレスなんていない。いるのは福祉を食い物にする人ばかり」と言い放った高齢の嘱託職員もいたが、みんなどうして気づかないのだろう? 仕組みに問題があるのだということに。一体、いつになったら気づくのか? いつまで個人のせいにするのだろうか? それぞれ異なるサポートが必要で、異なる背景を持つ大人たちを、全部いっしょくたに施設の相部屋に収容して集団生活をさせ、きつく管理する、そのことに無理があるのだということに。
 Aさんは最後まで木津さんのことを大型施設の勧誘員ではないかとどこかで疑っていたそうだが、シェルター(アパート)を見るなり、「うん、ここならいい」と大きく頷いてくれた。

不器用で豊かな時間を重ねる

 記憶障害があるため、シェルター入所後もAさんは外出するたびに迷子になった。
 帰れなくなると、携帯電話でつくろいスタッフの村田さんに電話が掛かってくる。文京区役所、後楽園、飯田橋、ある時は新宿高島屋、ある時は中野駅近辺から。
 ぼんやりとした地名だけを頼りに村田さんが駆けつけて、駅と言われれば地上周辺から地下、ホームを隅から隅まで探して、なんとか見つけ出すと、Aさんは「よく分かったねぇ」と嬉しそうにした。時にはお酒を飲んでいい気分になっており、「もう夜だし帰るのが面倒」と帰宅を拒むAさんを、村田さんがなだめすかして連れ帰ったりもした。
 ある時は自分が中野区で生活保護を利用していることすら忘れて、渋谷の福祉事務所に相談に現れたこともあった。この時は渋谷区から連絡を受けた中野区の係長がAさんを迎えに行って中野区に連れて帰り、村田さんが中野区役所まで自転車を飛ばし、Aさんを家まで送り届けた。
 おしゃれな方だったのではないか。ナイキのスニーカーが汚れると洗ってビショビショにした。持ってる靴は一足だけなのに。シャイな反面、人懐っこくチャーミングな人だった。脳梗塞のあとから始まった吃音にもどかしそうにしながら、それでも村田さんとたくさんお喋りをした。村田さんも質問を単純化したり、やさしい言葉を選んだり工夫をしてコミュニケーションを図り、2人はたくさんの会話を積み重ねた。「風船のような人。手を放すと飛んでっちゃうから、私が漬物石にならなきゃって思ってました」。村田さんが目に涙を浮かべる。

再びの失踪、そして発見まで

 最後に村田さんがAさんと会ったのは1月13日の病院同行の日。
 路上生活が長期化した人の多くが「超」がつくほどに高血圧だ。また脳梗塞や脳出血にならないよう、普段からお世話になっている地域のクリニックにAさんを連れていき、順番を待っている間にAさんは痺れを切らして、「福祉事務所に保護費をもらいに行きたい」と席を立ってしまった。その後、携帯電話に連絡しようにも繋がらなくなった。
 また路上に戻ってしまった。福祉事務所の職員も、私たちもそう思った。
 木津さん、村田さん、大澤さんがAさんのアパート近くに行くたびに、Aさんの部屋にも寄ってチャイムを鳴らし、つくろいの活動カレンダーをポスティングし、玄関の郵便受けから中を覗いていたが、Aさんが戻った気配は感じられなかった。

 そして、2月28日、もっとも関係性の薄かった私がAさんの第一発見者となった。
 寒かったからか、Aさんは片足を引きずって、かすかな記憶を頼りに、おそらくやっとの思いで、初めて自力で部屋に帰ってきたのだろう。
 その部屋は散らかり放題に散らかっていたものの、Aさんにとって安心できるホームだったのだと、今なら思える。お布団は散乱していたけれど、彼はその隙間でちゃんと毛布をかけて寝ていた。暖房をつけた、暖かい自分の部屋で最後を迎えたのだと。
 失踪したと思い込んだせいで、見つけるのが遅くなってしまったことがとても悔やまれた。

Bさんのこと

 私がAさんを見つける2週間前のバレンタインデーには、東京の支援団体で知らない人はもぐりと言ってもよいほどに有名な高齢女性Bさんが急逝した。この時は、死後まもなく見つけることができたが、それでも、第一発見者となったスタッフ達(この時も木津さん、村田さんとゆうりんクリニック看護師)にとっては、もっと早かったらと悔いが残る。
 この人の人生は、「小説になるレベル」と、きっとご本人もおっしゃるだろう。気の短さで有名だったが、「やみくもに怒っているわけではないんです。すごく筋が通っているんですよ」と気づいたのはBさんと時間を重ねてきた村田さんで、彼女の気づきは私たちの偏見や思い込みも取り除いた。
 実際、Bさんは他者を楽しませようとするサービス精神の塊みたいな人だった。訪問者がある日には、お風呂に入って、身支度を整えてじっとその人の到来を待つ人だった。来てくれた人に自作の折り紙をお土産に持たせた。
 時間を埋めるように折り紙を折っていた。発掘されなかった草間彌生……そう感じたのは、遺品整理のためにアパートの部屋を訪ねた時だった。壁という壁、家電、風呂場、窓、そのすべての空間に色とりどりの折り紙がびっしりと貼り付けられていた。思わず立ち尽くし、ため息を漏らしてしまうようなBさんの世界が広がっていた。万華鏡のようだった。

 Bさんが亡くなっていた場所の壁面から、折り紙をはがす作業をしていたつくろい代表の稲葉さんは、「剝がしている最中、ずっと彼女の視線を感じていた」と言っていた。「『剥がすなー、剥がすなー!』って怒られているようで、でも怖くはなかった」と。
 冷蔵庫の中には木津さんと稲葉さん宛のバレンタインチョコレートが入っていた。

亡き人がつなぐご家族との縁

 やはりBさんと深い信頼関係を築いていた村田さんは、Bさんの死後、関西在住のごきょうだいと手紙のやりとりをしている。そのやり取りを通じて、子ども時代のBさんが私たちの前に立ち上がってくる。長い、長いお手紙には、Bさんがかわいがられていて、家族ともあちこち旅行をした遠い日の思い出が、溢れるほどにしたためられていた。
 万華鏡のような部屋の写真をご覧になったごきょうだいは、「これは子どもの頃に家族で紅葉狩りをした時の光景だ」と息を呑んだという。

 ごきょうだいからの手紙にモノクロの小さな写真が同封されていた。
 Bさんが8歳くらい時の写真だろうか。ちょっとしかめ面をしたBさんがごきょうだいと写っている。スタッフみんなで写真を囲み、「面影がある! すぐに分かるね」と喜んだ。
 縁あってBさんに出会えたこと、その人生にほんの少しだけ関われたこと、信頼してもらえていたこと、大事に思ってもらえていたこと、一緒に笑えたこと……過ぎた時間の豊かさと感謝がこみあげてきて、泣き笑いのようになる。

死者と共に生きる

 私がコーディネーターを勤めるカフェ潮の路(現在、コロナ禍で休業中)の3階へ続く壁にはご縁をいただいた方々の遺影が掛かっている。夜遅くまで一人でカフェで作業をする時にも、怖いと思ったことは一度もない。見守られてる感ハンパないからだ。
 こんなことを言うとヤバイ人だと思われるかもしれないが、頭の中で私は頻繁に死者と会話をしている。寂しい時、彼らを恋しく思う時、決断に迷う時、世の中に倦む時などに、先立った古い友人たちや、支援で関わった利用者さんたちと頭の中で話をする。愚痴を聞いてもらう。
 関係性ができている人たちのリアクションは大体想像ができるので、そこそこ会話が成り立つ。それだけで心が慰められる。だから、私は孤立するのを恐れずにいられるのだなと感じる。死者は怖い対象でもなく、穢れなどでもない。
 AさんはDNA鑑定で個人を特定することになった。しかし、関わったスタッフたちからその人となりが語られ、いま、私の中でAさんは表情のある本来のAさんに形作られていく。戻っていく。迎えに行くのが遅れて、気づくのが遅れて、本当にごめんなさい。風船となって空高く飛んで行っても、たまにはふらりと戻ってきて。
 Bさんも遠くでずっと気にかけて生きてきたごきょうだいのもとへ飛んで行きつつ、私たちのことも時々見守って欲しい。見えなくなってしまったけれど、私たちと共に生きていて欲しい。私たちは時にとても弱いから。これで良かったのか、あれで良かったのか、そんなことをいつもいつも迷いながら、悩みながら、行きつ戻りつ、蛇行しながら必死に歩いている姿を支えて欲しいです。これからも。

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小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。