第611回:冷笑という暴力と、『「神様」のいる家で育ちました〜宗教2世な私たち〜』(雨宮処凛)

 ひろゆき氏のTweetが大きな批判を浴び、波紋を広げている。

 辺野古の座り込み現場に行った、アレだ。

 「新基地断念まで座り込み抗議3011日」と書かれた看板の横でピースサインするひろゆき氏。そんな写真とともに投稿された言葉は「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」

 このTweetを見て、久々に、満面の笑顔が暴力になりうることを思い知った。

 Tweetにはこの原稿を書いている時点で28万を超す「いいね」がついているものの、当然、抗議も殺到。多くの人が怒りを表明している。

 私も怒りを強く持つ一人だが、一方で、あのような「笑顔での侮辱」は、これまで幾度も目にしてきたものでもある。多くのヘイトデモの場はもちろん、振り返れば、私が20代前半の頃にどっぷりハマっていた90年代サブカルの頃から、うんざりするほど目にしてきた。

 冷笑的で、何かに必死になっている人を馬鹿にするような態度、振る舞い。不愉快だけれど、それは私が生きてきた中で、常に隣にあるものだった。この感覚は、この世代の多くに共通するものではないだろうか。ちなみに45歳のひろゆき氏と47歳の私は同世代だ。

 なぜ、ある世代以降はこんな冷笑的な振る舞いがスタンダードになっているのだろう。ひろゆき氏に同調する人々があまりにも多い現実に圧倒されながら、思った。

 思い当たる部分を紐解いていこう。

 例えば、物心つく頃から、世界は何をどうやっても変わらないし、自分はこのシステムの中で圧倒的に無力だということを叩き込まれてきた。

 学生時代、抵抗する者が現れたら教師によって徹底的な暴力でねじ伏せられ、見せしめにされもした。

 結果を出した者が努力をした者で、結果が出せなかった者は努力が足りないという単純な図式の中、自己責任論を刷り込まれてきた。

 政治や社会に声を上げる人を見ると、「なんでも社会のせいにする卑怯者」と軽蔑するのが当たり前になっていた。

 ボランティア活動さえ「偽善者」「自分探し系の痛いやつ」と言われてきた上、この数年はそれに「意識高い系」が加わるようになった。

 その上、社会や政治を変えるなんて思うことそのものがもっともダサくもっとも愚かでもっともコスパが悪いことという空気にどっぷり浸かってきた。

 そんなことが積み重なった果てに、何もせずに高みから人を見下す振る舞いこそが「賢い」「正解」として定着していった。長い長い時間をかけて。

 そういった「常識」の中で生きてきた「ひろゆき世代」はロスジェネでもある。一部は団塊ジュニアとかぶることから競争が激しい中、生き残るために常に競わされ、社会に出る頃には就職氷河期で辛酸を舐め、多くが今も剥奪感を抱えている。そんな「貧乏くじ世代」の数少ない成功者がひろゆき氏でありホリエモンだ。

 一方、私には、同世代の人々が冷笑的になる理由もどこかでわかる。

 自分自身、2006年から16年間、政治に声を上げてきた。今、声を上げ始めた当時の自分を振り返ると、「なんて素朴に政治や社会を信じていたのだろう」とため息をつきたくなってくる。

 声を上げ始めたのは31歳の頃。ロスジェネの不安定雇用や生存権を巡って政治に働きかけてきたのだが、当時、私の中には「政治は絶対に自分たちを見捨てない」という思いがあった。少子高齢化の中、次のベビーブームを担う世代として期待されているという実感が確かにあったからだ。この世代が不安定雇用にあえぎ、結婚にも出産にも子育てにも前向きになれないことを伝えれば、きっと社会は変わる。そう信じていた。まだ若い自分たちが見捨てられるなんて、思ってもいなかった。

 あれから、16年。

 結局、私たちの声はどこにも届かなかった。そしてこの世代は今、50代になろうとしている。その間に多くの同世代が自殺し、ホームレス化した。

 この現実を思うと、冷笑的にだってなりたくなる。「社会は変わる」と信じていた自分を茶化したくもなる。そんなことやってもなんの意味もないよ、と。

 そんな経験を通して思うのは、「どうせ何も変わらない」と冷笑的な態度をすることは、自己防衛の手段でもあるということだ。期待してしまうとそれが外れた時の落胆が痛いから、あらかじめ何もしないし期待もしない。それが傷つかないで生きる唯一の方法。多くの人がそうして自分を守っているのだろう。

 その上、多くの人にとって、現在は誰一人信用できない時代だ。勤め先からはある日突然「いらない」と通告されるかもしれないし、信頼していた人はいきなり裏切るかもしれない。恋人や家族だって、心から信用できるかと言えば首を縦に振れない人は多いだろう。そうなると、「まぁ、そんなもんだよ」という余裕ぶった諦めでしか自分の心を自衛できない。そう思うと、今、これほどに冷笑的な振る舞いが蔓延している理由がよくわかる。

 だからといって、ひろゆき氏の今回の行動、言動は見過ごしていい問題ではまったくない。沖縄の人々、またあらゆる分野で声を上げる人々を傷つけた事実は変わらない。

 そしてあのTweetをきっかけとして「運動のやり方が悪い」などと余計なお世話的コメントも大量発生しているようだが、ただ一言、「黙れ」とお伝えしたい。

 一方で、冷笑系でいることも楽じゃない。

 私自身、20代前半までかなりそういったスタンスで生きてきた。が、自分は何もせず、なんでも知ってる気になって高みの見物をしている空虚さに耐えられなくなった。何かの当事者になりたかった。何かに一生懸命になって、充実して生きてみたかった。なんでもいいから完全燃焼したかった。

 そんな思いの果てに、私は20代前半で右翼団体に入っている。また、その時は、この空虚さを埋めてくれるのなら右翼だろうが宗教だろうがなんだっていいと、かなり自覚的に思っていた。とにかく、冷笑系の反対側に突き抜けたかった。これ以上、唇の端を歪めて意地悪に笑うだけのことに人生を使いたくなかった。

 結局、その右翼も2年でやめ、この16年は声を上げ続ける生活しているのだが、あの時、変な宗教に入っていなくて本当によかったと今、つくづく思う。宗教の種類によっては自分だけじゃなく、周りまで巻き込み、また、信者同士で結婚したり子どもができたいたりしたら、自分自身が「宗教虐待」をしていた可能性だってあるのだ。

 突然そんなことを書いたのは、菊池真理子さんの新刊『「神様」のいる家で育ちました〜宗教2世な私たち〜』を読んだからだ。

 著者の菊池さんを知ったのは、17年に出版された『酔うと化け物になる父がつらい』でのこと。

 アルコール依存症の父親との関わりが描かれた本書は大きな話題となり、のちに映画化もされたのだが、この本の1話では、ある信じられない悲劇が起きる。アルコール依存症の夫に振り回され、宗教にハマっていた母親が首を吊って亡くなってしまうのだ。菊池さんが中学2年生の頃である。

 そんな菊池さんがここ数年、「宗教2世」という立場から発信していることは知っていた。そして宗教2世について、集英社のサイトで連載を始めたこともネットで知り、更新されるたびに漫画を読んでいた。

 しかし、その漫画連載は途中で全話が公開停止となってしまう。ある宗教団体から抗議を受けたことがきっかけらしい。結局、集英社での連載は中止となったのだが、そんな菊池さんに「うちで続きを描きませんか」と文藝春秋から声がかかったという。そうして「すべての下描きを終え、自分の回のペン入れをしていた時に、元首相殺害の事件が起きました」(「終わりに」より)。

 ここ数年、宗教2世らによる出版が続いていたこともあって、一部では関心を持たれていたこの問題。それがあの事件が起きたことから、「2世」は突然、日本中の関心の的となった。

 本書には、7人の2世が登場する。

 宗教ありきで育てられる彼ら彼女らは、参加してはいけない学校行事があったり、病気でも必要な薬を使わせてもらえなかったり、人を好きになってはいけなかったりと様々な制約の中で暮らしている。成長し、違和感を抱いても宗教をやめてしまうとすべての人間関係がなくなる恐れがあり、簡単にはその生活から抜けられない。また、信仰を捨てると「地獄に落ちる」と幼い頃から吹き込まれていることが当人を縛りつける。

 詳しくはぜひ本書を読んでほしいのだが、はからずもこの漫画の出版時期と重なる10月6日、厚労省は全国の自治体に「宗教2世」に関する通知を出した。

 内容は、信仰を理由にした行為でも児童虐待にあたる行為はあり得るというもの。

 通知では、「身体的暴行を加える」「適切な食事を与えない」「重大な病気になっても適切な医療を受けさせない」「言葉による脅迫、子どもの心・自尊心を傷つけるような言動を繰り返す」などが虐待に該当する可能性があると例示されている。

 「保護者の信仰に関連することのみをもって消極的な対応を取らず、子どもの側に立って判断すべきだ」とも明記されている。

 通知が出たこと自体は、大きな進歩だろう。

 しかし、遅すぎる上、銃撃事件がなければ絶対に出なかったことを思うと複雑な思いだ。

 被害を訴える声はずーっと以前からあった。私が2世の問題を知り、苦しむ当事者に会ったのは20年以上前だ。その時点で、すでに声を上げている人たちはいた。

 そして全国の小中高校の教職員たちは、明らかに異様なルールで生きる子どもたちの存在を嫌というほど見てきていたはずである。なのに、「信教の自由」の前に、誰もが手をこまねいていた。もちろん、その中にはなんとかしたいと奮闘してきた人もいるだろう。そんな人たちがやっと動ける「根拠」ができたことは大きい。が、やはり、遅きに失した。

 そして改めて思うのは、2世への救済や支援がもっと早くに進んでいたら、安倍元首相が銃撃されることだってなかったということだ。

 これからもっと多くの2世が声を上げるだろう。そんな人たちの訴えに、この社会は決して冷笑的にならず、真摯に耳を澄ますべきだと切に思う。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。