第246回:「防衛費財源論」のいかがわしさ(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 先週は、途中までのコラム原稿になってしまい、申し訳ありませんでした。
 というわけで、先週の続きを書こうと思ったけれど、世の中は個人の事情などには頓着せずにどんどん動いている。だから、仕切り直しです。

日本はアメリカの「盾」

 新聞にはぼくが必ず読むコラムがある。東京新聞の「時代を読む」はそのひとつだ。とくに愛読している筆者のおひとりが田中優子さん(前法政大学総長)である。その田中さんが同コラムでこんなことを書いていた(12月11日付)。

 自民・公明両党が今月二日、「敵基地攻撃能力」保有を正式合意した。今後、何が起こるのか? 攻撃される前に攻撃するには、その国のミサイル基地の動向を秒単位でわかっていなければならない。遠くにあるミサイルの照準を正確に把握し、発射点火を察知し、その基地を攻撃し、さらに反撃であることを証明する。こんなこと、本当にできるのだろうか? わずかなタイミングのずれで先制攻撃となる。反撃されたら日本は空爆の嵐だ。米国はおそらくそれを想定している。日本は米国の「盾」なのである。(略)

 ごく当然のことが書かれている。
 日本には、とくに沖縄には多くの米軍基地がある。最近はそれに加えて自衛隊の基地が沖縄に続々と造られている。「台湾有事」と、それに付随する「日本有事」に備えるためだという。だが、もしも「有事」が起きた場合、攻撃されるのは日本にある軍事基地である。米軍であろうが自衛隊であろうが、攻撃目標は日本国内だ。米本土にまで攻撃が及ぶ可能性はほとんどない。
 つまり、田中さんのご指摘通り、日本は「米国の盾」として使われるだけだ。日本にある基地が攻撃されれば、当然ながら周辺住民も巻き添えとなる。沖縄戦の再現ではなく、日本本土だって被害は免れない。
 この意見に対し「軍事専門家でもないくせに、素人が分かったような口をきくな」という罵声が飛んできているらしいが、そんなことを言う連中こそ何も分かっていない。軍事ジャーナリストの田岡俊次さんや半田滋さんも、「日本はアメリカの盾にされる」と、まったく同じ意見なのだ。ネット右翼諸氏は、軍事専門家にも同じような罵声を浴びせることができるのだろうか?
 田中さんの言う通り、仮想敵国(!)のミサイル攻撃を事前に察知して、敵の攻撃の前に「敵基地」を潰すなどということが可能だとは思えない。そんなことをすれば、日本は本格的戦争へ自らのめり込んでいくことになる。
 真珠湾攻撃は、「相手が攻撃を仕掛けてくる前に叩け」だった。敵基地攻撃そのものであり、自民党が言っていることと同じだった。その結果があの太平洋戦争への突入だったことを否定できようか。歴史を学ぶことをしない、もしくは歴史を捏造しようとする人々が、またもこの国を危うくし始めている。
 恐ろしいのは、そんな「敵基地攻撃(反撃)能力保有」について、自民公明は言うに及ばず、維新や国民民主までが賛成に回り、更には立憲民主さえ党内で「保有論」が優勢になりつつあるということだ。多数の政治家どもは狂ってしまったとしか思えない。
 共産党、れいわ、社民党がかろうじて踏みとどまっているけれど、世論調査でも「防衛費倍増」については賛成論が多くなってきているという。政治家だけではなく、国民までもが煽られて異様な心理状態に陥ったか。

なぜ「防衛費倍増」が前提なのか?

 危険なのは、いつの間にか議論が「反撃能力保有のための防衛費増額」から「増額分の財源論」へ移ってきていることだ。
 おいおい、ちょっと待てよ、順序が逆だろう。
 なぜ「防衛費倍増」が前提になっているのか。そんなこと、誰がいつどこで決めたのか。いかにウクライナ戦争の悲惨さが念頭にあるとはいえ、「少しは冷静になれよ!」と言いたい。
 本来は最初に「防衛費倍増は是か非か」を議論すべきであって、財源論はその後の話だろう。もっとも大切なことを吹っ飛ばしておいて、そのためのカネをどうするかを論ずる。こんな本末転倒な話があるか。
 ところがマスメディアは、この件に関しては、完全に政府広報と化した。ニュース番組を見れば「自民党内では、防衛費増額の財源としての増税には異論が多く、政務調査会では罵声が飛び交うほどでした」などと報じるだけ。なぜ、根本の「防衛費増額の是非論」に紙面や時間を割かないのか?
 新聞もテレビも「法人税や所得税の増税」「復興税を回す」「たばこ税増額」「ほかの予算の縮小」「増税ではなく防衛国債」…と財源論ばかりを取りあげる。さらには「財界は法人税増税に反対」などと報道する。まるで「防衛費増」は決定したみたいだ。
 繰り返す。いったい誰がどこでいつ「軍事費倍増」を決めたのか! 肝心要の本質論を置き忘れた報道は、まさに政府広報というしかない。

首相記者会見の虚妄

 NHKニュース(9日午後7時)で、岸田文雄首相の記者会見を見ていた。あまりの腹立たしさに、ぼくは以下のようにツイートを連投した。

岸田首相の記者会見を見ている。次第に腹が立ってくる。こんなものを「記者会見」とは言わない。「首相様のご意見を伺う会」でしかない。私はマスゴミなどとは決して言わないけれど、言いたくなるのも分かる気がする。何だろう、この記者たちのおとなしいお伺い的質問は? アホらしい。

岸田首相の会見、フリーの神保さんの質問がやっと少しだけ「防衛費倍増」について触れたが、首相は何も具体的に答えない。そして、どこでNHKは中継を止めた。あ~あ。

 同じニュースをご覧になっていたらしい人たちからは、同意、同感のリプが殺到した。インプレッションも前者が8万5千、後者はなんと32万という数字になっていた(13日現在)。それほど、あの会見はひどいものだった。
 マスメディア各社の記者たちの質問の生ぬるさは、それこそハンパない。まず「お伺いいたします」「よろしくお願いいたします」と、妙にへりくだるのが情けない。
 ジャーナリストと政治家は対等であるはずだ。しかし、最近の会見は「政治家は上、記者は下」の上下関係が支配しているとしか思えない。だから、実のあるものなど何も出てくるはずがない。それを分かっているから、首相や閣僚の言葉は丁寧でも、鼻でせせら嗤うような対応が幅を利かすのだ。
 また、疑問なのは「更問い(さらどい)」が禁止、「一問一答」形式であることだ。つまり、記者の1回の質問について1回の答えでおしまい。次の矢は継がせない。「多くの記者に質問してもらうために、一人一問に限らせてもらう」というのが政府側のリクツだが、では、多くの記者が質問できているか? それはウソだ。「次の予定がありますので」という常套句とともに、そそくさと会見場を去って行くではないか。
 一問一答で、まともな答えが返ってくるか?
 結局、幅を利かすのが、岸田首相に代表される「丁寧に説明していく」「国民の皆様に寄り添って」「最大限の強い覚悟で臨む」「真摯に受け止める」「説明責任を誠実に果たす」などという、中身のない美辞麗句の羅列だ。
 普通の会見ならば「丁寧な説明とはどういうことか」「もっと具体的な答えを」「なぜあの閣僚(など)を更迭しないのか」「彼(彼女)の発言を認めるということか」「疑惑は解明されていないではないか」などと、質問を重ねて内容を深めていくのが当然である。事実、問題があった会社幹部や団体の責任者などの会見では、記者たちが勝ち誇ったように質問を重ねる光景を、ぼくらは何度も目にしてきた。
 有名な事実だが、かつて佐藤栄作元首相の1972年の辞任会見の際、「オレは偏向的な新聞は大嫌いだ。テレビカメラに向かって話をする。テレビカメラはどこだ」と言い放った元首相に対し、「おお、それじゃ出ていこうではないか」と新聞記者たちがゾロゾロと会見場を後にした。それだけ新聞記者たちの側が、権力への「対抗意識」を持っていた時代もあったのだ。
 今はどうか?
 「それはないものねだりです、時代が違う」と言った知人の新聞記者がいた。わりと親しい記者だっただけに、ぼくは心底ガッカリした。確かにマスメディア所属の記者にはそういう傾向は多いかもしれない。だが、フリージャーナリストたちはそれなりの質問をするではないか。時代が違うのは、マスメディアに属した記者たちだ。
 今回の首相会見でも、まともな質問をしたのはフリーランスの神保哲生氏だけだった。だがやはり、再質問は許されないようだった。ただし、神保氏の質問が終わった瞬間に、NHKは中継を止めたので、その後の経過をぼくは知らない。NHKが意図的にそこで切ったのかどうかは分からない。多分、時間の配分が最初から決まっていたので、そういうことになったのだろう。しかしこれまでのNHKの姿勢から見て、ここで切ってしまえ、ということだったのではないかと疑われても仕方あるまい。
 会見場に出られるのは「一社一人」というルールも納得できない。
 それについては「コロナ感染症対策のため」と政府は言っていたはずだが、いま、多くのコロナ規制を次々に解除しているのは政府である。ならば、なぜ記者会見だけにはそのルールを適用し続けているのか、わけが分からない。
 ここにも問題がある。記者会見を設営するのは、実は「記者会」だ。つまり、会見を主催するのは記者会のはずだ。だから記者会が「一社一人という制限は撤廃しよう」と言えばいいはずだ。ところが司会は内閣府の官僚、すべてが政府側の都合のいいように運営されている。これでは、対等な質疑応答などできっこない。
 なんで、記者たちはこんなに弱腰になってしまったのだろう?

岸田内閣の命運

 12月9日、統一教会被害者の「救済新法」が成立した。
 ぐずぐずと成立を引き延ばそうとする与党だったが、支持率低落に喘ぐ岸田首相は、ともかく臨時国会の会期内に成立させることにこだわった。閣僚たちの辞任ドミノは、なんとか3人で収めたが、しかし1月中に召集される通常国会で野党の追及を受けることは必至。そこへ、杉田水脈(敬称も肩書も略だ、こんなヤツ!)のヘイト発言が次々と明らかになり、岸田内閣の命運は風前の灯火。
 なんとか来年5月の広島サミットまで持ちこたえ、そこで何らかの成果を上げて支持率回復を夢見ているのが岸田首相だ。そのためには、「後手後手首相」の不名誉称号を挽回して、なんとしてでも今国会で「救済新法」を成立させなければならなかった。
 与党は、野党側に妥協を重ねた。
 ネット右翼諸氏は「批判だけの野党」と悪口を言うが、この法律の内容だって野党の攻勢がなければ、もっとひどいものになりかねなかった。今回成立した内容は決して十全なものではないけれど、それでも与党案よりは進歩した。
 もし、公明党の抵抗がなければ、もう少しまともなものになっていただろうが、岸田首相の焦りも加わって、土曜日に国会開催という異例の形まで取って、ようやく成立に漕ぎつけたのだ。
 だが岸田首相、息つく間もなく、今度は閣内から反抗の気配。
 高市早苗経済安保担当相が、公然と岸田増税論に異を唱えたのだ。高市氏は「一定の覚悟を持って申し上げた。罷免されるならば仕方がない」とまで開き直った。閣内不一致どころか、ケンカを売ったとしか思えない。
 すでに3人の閣僚が更迭されている。ここで高市大臣を更迭しようものなら、もはや内閣の体をなさなくなる。多分、それを見越したうえでの高市氏のカッコつけなのだろう。いやはや、こんな内閣見たことがない。
 岸田文雄首相、断崖絶壁。

抑止力より外交力を

 日本の現在の国防費支出は約474億ドルで世界第7位だ。それを自民党の言うように倍増すれば、米国、中国に次いで世界第3位となる。世界に冠たる軍事国家である。しかし、中国の軍事費は約2300億ドルと言われているから、日本が倍増したとしてもまったく歯が立たない。ちなみに米国は約7700億ドルとすさまじい。
 中国を仮想敵国視する日本政府だが、もし日中が戦火を交えたとして、どう歯ぎしりしたって勝てる相手じゃない。それなのに、とにかく軍事費を増やせ、というのはそれこそ現実を無視している。
 本気で中国に対抗しようとするなら、2倍どころか5倍増としなければならないはずだ。それとも最後の切り札、北朝鮮のように国民を飢えさせてでも「核武装」にまで突っ走る気なのだろうか。
 相手国と対等に戦えるように軍備を拡大するという「抑止論」は、もはや成立しない。
 当然ながら、「抑止力」ではなく「外交力」で世界と渡り合っていくしか、この国の生きる道はない。
 そうは思わない連中が政治を動かしているところに、国民の不幸がある。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。