第1回:民意を読み最善の道を国民に示すドイツの母 アンゲラ・メルケル首相について村瀬民子さんに聞く(芳地隆之)

はじめに

 ドイツはどういう国のあり方を目指しているのか。大国とのバランスのとれた付き合い方、移民を積極的に受け入れる姿勢、コンセンサスを重視する企業統治、そして最近では人工知能を視野に入れた情報通信技術の駆使による製造業の革新を目指す戦略(インダストリー4.0)など、従来のような日独の歴史認識や戦後処理の違いだけでは掴みきれない、かの国のあり方の一端を知りたいという思いで企画したのが本シリーズである。とはいえ、話がどこへ進むのかは、正直、行き当たりばったりになる可能性大なので、あらかじめお断りしておきたい。

 まずはアンゲラ・メルケルである。
 今年の9月24日に総選挙を控えたドイツでは、メルケル首相率いる与党CDU(キリスト教民主同盟)の優勢が伝えられている。旧東ドイツで民主化運動を担った一物理学者がドイツ統一後、わずか15年で国を率いることになった2005年、彼女がこれほどの長期政権を築くと誰が予想しただろうか。
 福島第一原発での重大事故を受けての脱原発への政策転換、シリアを中心とした中東からの難民の積極的な受け入れ、最近では反政府的なジャーナリストの逮捕やドイツ人の人権活動家の拘禁など強権姿勢が目立つトルコのエルドアン政権との厳しい対立など、国際政治で目の離せないメルケル首相の政治の舵取りを支えているものは何なのか。そのヒントを知りたいと思い、昨年、『強い国家の作り方 欧州に君臨する女帝メルケルの世界戦略』(ビジネス社)を翻訳(原書の直訳タイトルは『ドイツ人-アンゲラ・メルケルと私たち』)された村瀬民子さんにお話を聞いた。
 彼女は政治学者ではない。ドイツ文学の研究者である。それも東ドイツの演劇に詳しい。それゆえに村瀬さんへのインタビューを通して、メルケル首相の素顔が見えてきたように思う。

(芳地隆之)


『強い国家の作り方 欧州に君臨する女帝メルケルの世界戦略』(ビジネス社)
【著者】ラルフ・ボルマン:ジャーナリスト・作家。1969年ドイツのバート・デュルクハイム生まれ。国内外の大学で歴史学を専攻。ドイツとイタリアの社会民主主義の比較に関する論文で修士号を取得。現在はベルリンを拠点に、保守系からリベラルまで様々な新聞に寄稿。本書では、等身大の政治家メルケルが描かれている。


東ドイツ特有の慎ましさ

芳地 メルケルとはどんな政治家なのか。東日本大震災直後、自国のエネルギー政策を脱原発へと舵を切り、シリア内戦から逃れた難民を積極的に受け入れる意思を示すなど、鮮やかな決断を見せる一方、オバマ(前米国大統領)のような理念やビジョンを高らかにうたうような演説を好まず、かといってプーチン(ロシア大統領)のような強さを前面に出すこともない。とらえどころのなさもある人物というイメージがあります。

村瀬 私が訳した本書によると、ドイツの人たちはメルケルを称して「お母さん」と言っているんですね。

芳地 お母さん、ですか。日本語のサブタイトルにある「女帝」というイメージとは違いますね。「母性に満ちた」ということなのでしょうか。

村瀬 メルケルが党首を務めるCDUの党員たちが持つイメージなのですが、メルケルの政治スタイルが「お母さん風」なのだそうです。それはつまり、(ドイツの政界では)メルケルが唯一の大人で、その他は子ども、導かれる存在ということ。

芳地 メルケルが旧東ドイツで育った――西ドイツの生まれだが、牧師である父と一緒に生後数週間で東ドイツに移住した――ことが、現在の政治スタイルに通じるところはあると思いますか。

村瀬 彼女は質素で慎ましい人なんです。そうしたキャラクターも選挙では非常に有利に働いたと著者のラルフ・ボルマン氏は書いています。
 旧西ドイツで「慎ましい」というと、「経済力がない」とか「貧乏」などネガティブにとらえられるのですが、旧東ドイツでは(西ドイツに比べれば)みなが等しく貧しかったわけで、それゆえにモノを大事に扱うといったことが美徳になる。
 本書では、「自分のこれまでの人生での大失敗は何ですか?」という質問に、メルケルが、「子供の頃、西ドイツの親戚から送ってもらった新品のジャージを着て嬉々として出かけた際、林のなかの木の穴に入り込み、松脂でそれをドロドロにしてしまった。いまもそのことが悔やまれる」と答えるエピソードが紹介されています。一国の首相の地味な少女時代の話が多くのドイツ人を引き付けるのですね。汚職や嘘が浮上したこともなく、首相になっても素朴さを失わないことをアピールしていくという彼女の戦略もあるのでしょう。

芳地 素朴さをよしとする国民性があるということですね。

村瀬 そうです。消費大国のアメリカに共感する人はドイツにもいますが、そういう人は積極的にアメリカに渡り、グローバリズムの世界で働くわけで、素朴な庶民たちは「倹約」を善いことだ思っていると著者は書いています。

芳地 トランプ大統領とはうまくいかないようですね。ドイツ公共放送連盟(ARD)が委託した世論調査によると、「米国を信頼している」と答えたドイツ人の割合は昨年11月の58%から今年2月には21%に低下し、その後も低水準で推移しているようです。

村瀬 旧東ドイツ特有の「慎ましさ」と、資本主義の申し子のような存在は、お互いに理解はできるとしても、隔たりは大きいかもしれませんね。

芳地 一方、同じ大国でも、プーチン大統領とは互いにロシア語とドイツ語で話せる仲ですし、中国にはドイツ経済界を代表する経営者たちを引き連れて乗り込むなど、トップセールスマン的な役割を果たしています。

村瀬 幼少時代の経験でいえば、メルケルとプーチン、メルケルと習近平の方が、メルケルとトランプよりも共通点は多い。東ドイツの学校の必修外国語はロシア語だったので、メルケルは英語を習得するのに苦労した。そんなことも関係があるかもしれません。

芳地 メルケルはいわゆるアメリカ主導の金融資本主義には批判的です。ドイツには戦後、「社会的市場経済」を標榜してきたという自負があるように、行き過ぎた資本主義に対する批判的な見方がありますが、旧東ドイツ出身のメルケルにはとりわけ色濃く残っているのでしょうね。

民意をくみ取る柔軟さ

芳地 倹約と言えば、2010年のユーロ危機時に、その発端となったギリシャの放漫財政をメルケルは厳しく批判しました。

村瀬 そもそもドイツ人とギリシャ人のメンタリティが違うから、ドイツ人の物差しでギリシャ人を責めるのは可哀そうかもしれません。冷戦時代の旧東ドイツは、共産圏では経済優等生だったのですが、再統一後は西側との経済格差が大きな問題になりました。この事情をよく知るメルケルは、国家の経済力の重要性を過小評価することはありません。

芳地 難民の積極的な受け入れを表明したのは、自由のなかった東ドイツ時代の経験から、人権に対して敏感な政治家だからだといわれています。

村瀬 そうですね。最近の難民の流入増加の際にも、毅然として受け入れを表明するメルケルの姿は、諸外国に感銘を与えました。とはいえ、メルケルはきわめて現実主義の政治家であることを忘れてはなりません。理想を堅持しつつも、実際には臨機応変に対応していると思われます。

芳地 ドイツ社会が難民を受け入れる姿勢を示したことは――労働力の不足の解消といった理由もあるとはいえ――第2次世界大戦時の反省を踏まえた人道的な理由からだという意見も聞きます。

村瀬 戦後の旧西ドイツは、移民の受け入れにより多様な労働力を得ることができました。その結果としてドイツの経済発展があったわけですから、移民もそれに寄与したのは疑いようのない事実だと思います。それを「いまはもう必要ないから」と手の平を返すようなことはできないでしょう。ボルマン氏が書いていることですが、ユーロ導入で一番得をしたのはドイツであり、優秀な外国人労働者がドイツ国内で働いてくれたことのメリットは大きいのでしょうね。

歴史認識と大国外交

芳地 本書には、ドイツ人の歴史認識という点で、メルケルはドイツ国民を信用していないという記述があります。

村瀬 やはり「お母さん」なんでしょう。母は子どもを愛してはいるけれども、信用しているかといえば、大人のような客観的な判断ができる存在ではないと思っている。わかりやすく言い換えるならば「指導しないと、この人たち(ドイツ国民)は何をするかわからない」ということかもしれません。

芳地 それは近隣諸国がドイツに対して抱いている不信感を、メルケルも抱いているということですか。

村瀬 これまで隣に住んでいた人を人種的な理由で強制連行し、虐殺するというホロコーストの歴史から、まだ70年しか経っていませんし、極右的な発言をする政党も出てきています。ベルリンの壁が崩壊したとき、日本のメディアは肯定的に報じていましたが、例えば英国の新聞は、喜ばしいこととは決して受け止めていませんでした。大ドイツの再来という懸念があったからでしょう。当時、ドイツ統一を成し遂げたヘルムート・コールの身近にいたメルケルは、それらを感じ取ったのかもしれません。
 ちなみにメルケルは2008年3月にイスラエル議会でドイツの政治家として初めて演説をしました。そこで改めて反省と謝罪の意を表したのです。そうしたことも彼女への信頼感につながっていると思います。

芳地 メルケルにはドイツの政治家には珍しく、理念のようなものを話そうとしない印象があります。実務的というか、そうした姿勢が彼女のバランスのとれた外交と関係があるのでないでしょうか。

村瀬 ドイツは多くの国と国境線を接しており、その時々の戦争で国土の拡大や縮小を繰り返してきましたから。ただ、一方で人権弾圧の疑いの強いトルコのエルドアン政権には、自由と民主主義を擁護する立場から厳しい態度を取る。その一貫性はあります。

その場、その場で一番いい意見を取り入れる

芳地 村瀬さんは映画『グッバイ、レーニン!』をご覧になりましたか。

村瀬 ええ。大学の授業では学生にも見せているのですが、不評のようです(笑)。ベルリンの壁崩壊は教科書で習ったことに過ぎず、東西冷戦の実感もない世代だからでしょう。

芳地 バリバリの共産主義シンパの母が、ベルリン壁崩壊前に心臓発作で昏睡状態になる。ドイツ統一後に意識が戻った際、彼女にショックを与えないようにと、息子があの手この手で「東ドイツは健在だ」という仕掛けをつくるコメディです。しかし、ベルリンの壁が崩壊し、人々が西ベルリンに向かう映像を、「貧富の差のない、みんなが平等な東ドイツを目指して、西ドイツ市民がやってきました」とねつ造したニュースを流すシーンは、むしろ感動的でした。
 監督は西ドイツの人ですが、彼自身のなかに「西側の消費社会はこれでいいのか?」「社会主義の理想までは否定すべきではないのではないか?」という問題意識があったからこそ、あのようなシーンがつくれたのではないかと思ったのです。

村瀬 ドイツ統一時にはすで36才だったメルケルは、コール首相に見出され、翌年には女性・青少年問題相に就任しました。それからしばらく、いわゆる「雑巾がけ」の時代が続き、転機が来たのはコール政権が総選挙に敗れ、シュレーダー率いるドイツ社会民主党(SPD)主導の政権が誕生した1998年でした。その直後にコール政権の闇献金が発覚し、それをメルケルが痛烈に批判。CDUがガタガタになったところで党首に就いたのです。誰も党首を引き受けたがらないような状況で、期待されてもいなかったのでしょう。

芳地 ところが、2005年にはSPDと大連立を組んで首相になり、在任期間は12年に及んでいる。ある若いドイツ人の青年が言っていたのですが、国のトップに立てる人は、アメリカではお金をたくさんもっている人、フランスではフランス国立行政院を卒業した人、ドイツでは自分を推す1万人の署名を集められる人、つまり、ドイツではお金がなくても、学歴がなくても、仲間を集められれば政治リーダーになれると。メルケルはまさにそれなのかなと思いました。

村瀬 彼女がこれまで長く首相を務めてこられたのは、その場、その場で一番いいと思える意見を自分の政策に取り入れているからでしょう。

芳地 福島第一原発事故に対する反応の速さに見られるように、民意をくみ取るのにとても長けた政治家だと思います。

村瀬 ボルマン氏はそれを「政治的変容主義」と名付けています。「柔軟さ」と表現してもいいかもしれません。原子力を推進する立場だったのが、フクシマで一気に大転換をした。しかも、それまで自分たちに反対していた反原発派の意見を全部、自分のものとして取り入れて。
 変わり身が早いともいえますが、自分の考えを変えること、その(東ドイツ時代にはなかった)自由を積極的に活用することが自分の政治信条なのだとメルケルはいいます。悪く言えば、ご都合主義、あるいは日和見主義でしょう。
 しかし、長期政権を担っている政治家にはそういうところがありますよね。個人の主義主張を押し通すことよりも、現状をできるかぎり客観的に観察し、現時点で最善と思われる策を選択するという態度です。フクシマ以前は、CDUの政治家は「原子力はエコエネルギーだ」とすら言っていたそうです。原子力政策を積極的に推進することがCDUの政治的信条だったのです。メルケルが、もしこの路線を変更していなかったら、CDUは前回の総選挙(2013年9月)で惨敗していたでしょう。

芳地 先般、英国国民がEU離脱を選択しました。その理由として、EUの新自由主義的な経済体制が英国の労働者の賃金を下げ、人の自由な移動により彼らの職が奪われているという不満があるといわれています。しかし、これまでの話を聞くと、EUを引っ張っているドイツは、アングロサクソン的な資本主義とは一線を画しているということなのでしょうか。

村瀬 ドイツがEUにおいても、民主主義、人権の保護、規律のある財政政策を堅持していくということは変わりはないと思います。SPDの対抗馬であるマルティン・シュルツは「自分たちはメルケルの代わりができる」と言っていると新聞で読みました。自分たちもメルケルと同じくらい上手くやれるのだそうです。ライバルのはずなのに、すでにメルケルの素晴らしさを認めてしまっている(笑)。そんなことで次の選挙に勝てるのか、いささか不安に感じさせる発言でした。しかし、それだけメルケルの政治は、ドイツ国民のコンセンサスを得ているのでしょうね。

芳地 米国の調査会社ピュー・リサーチ・センターが今年の6月に発表した37カ国を調査対象とする世論調査の結果によれば、世界の指導者に対する支持率では、トランプ大統領(支持22%・不支持74%)、プーチン大統領(支持27%・不支持59%)、習近平国家主席(支持28%・不支持53%)に対して、メルケル首相は支持42%で、不支持率は4人のうち唯一下回っています(31%)。この数字をメルケル礼賛ととるのは性急ですが、少なくとも、これまで大国中心で動いてきた世界に変化が生まれているといえるのではないでしょうか。

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村瀬 民子(むらせ たみこ) 東京大学文学部卒業後にドイツに留学。1998~2000年にかけて外務省在ドイツ日本大使館専門調査員。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、同博士課程満期退学。ドイツの演劇に詳しく、2013年からは東京外国語大学ほかで教鞭をとっている。早稲田大学演劇博物館招聘研究員。

芳地隆之(ほうち たかゆき) 1988年秋に当時の東ドイツに留学。現地でベルリンの壁崩壊や東ヨーロッパの体制転換を経験する。当時の経験をまとめた『ぼくたちは[革命]のなかにいた――東ベルリン留学グラフィティ』(朝日新聞社)ほか、満洲国ハルビンに設立されたロシア語専門学校の歴史を描いた『ハルビン学院と満洲国』(新潮選書)などの著書がある。

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