『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会』(荒井裕樹/現代書館)

 副題にある「青い芝の会」とは、1970〜80年代に日本社会に大きな衝撃を与えた、脳性マヒ者による運動団体。その中心人物の一人だった横田弘さん(2013年に急逝)のもとに通って聞き取りを続けていた若き研究者による、評伝ともいうべき一冊である。
 「青い芝の会」の何が衝撃的だったのか。一つは、家族や支援者が中心だったそれまでの障害者運動と異なり、障害のある当事者たちが担い手であったこと。そして何より、自分たちに向けられる有形無形の差別に対して「戦闘的」とまで形容される徹底した姿勢で立ち向かい、糾弾したことだった。車椅子での乗車を拒否したバス会社に抗議するため、大勢で強引にバスに乗り込むなどしてバスの運行をストップさせたという「川崎バス闘争」に至っては、先日話題になったバニラ・エアの一件がかわいらしく(?)さえ感じられる過激さである(ように見える)。
 横田さんが起草した青い芝の会の「行動綱領」もまた、ものすごい。第一項からして〈われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識〉する、とあって、読んでいるほうがどきりとしてしまう。そして第三項は〈われらは愛と正義を否定する〉。多くの人が、子どものころから当たり前のように「大切なもの」と捉えてきただろう「愛と正義」に、真っ向から否を唱える。一言一言がナイフみたいに鋭い、強烈な言葉ばかりだ。
 横田さんがこの綱領を書いた背景には、1970年に神奈川県で起きた「障害児殺し」事件があるという。脳性マヒで重度障害のある娘の将来を悲観した母親が、わが子の首を締めて殺害。母親が逮捕された後、一人で困難な子育てを抱え込んでいた母親に「同情」した地域の人たちを中心に、減刑嘆願運動が起こった。
 横田さんは、これに対して激しく怒っていたのだという。母親をそこまで追い詰めたのは、親子を孤立させた地域社会そのものだったはずなのに、それには気付かないふりをしたまま、「同情」を見せて満足している人々のエゴイズム。そして、母親の減刑を求めるということは、娘はそのまま生きているより母親の手にかかったほうが幸せだったという考え方を是とすることにもなるではないか。そうした「善意」こそが恐ろしいのだ──。
 今、同種の事件が起こったとして、実際に減刑嘆願が起こることはさすがに考えにくいけれど、横田さんのいう「エゴイズム」に近い感情は、(わたし自身も含めて)少なくない人が抱くのではないかと思う。そうした「かわいそうに」とつぶやいてさえいれば目をそむけていられる「ずるさ」に、横田さんの言葉は容赦なく突き刺さってくる。〈横田の思想は、ぼくたち一人ひとりの心の領域に踏み込んでくる〉と著者が書くとおりだ。横田さんからは常に「小さな主語で語る」ことを求められた(「日本人は」「社会では」「一般的には」ではなく、「君自身は」どう思うのか)とも著者は書いているのだけれど、本書を読んでいる間ずっと、そんなふうに問いかけられている気がした。
 だから、読んでいて決して「楽しい」本ではない。もやもやしたり、理解しきれなかったり、迷ったり、ときには不快に感じたりもする。でも、そうしたすっきりしなさ、割り切れなさ──一時期話題になった「感動ポルノ」では決して得られない、本書の言葉でいえば「心のざわつき」こそが、何よりも重要なんじゃないかと思う。1年前の相模原の事件を、そして先日のバニラ・エアの一件を考えるときにも、さまざまな視座を与えてくれる必読の書である。

(西村リユ)

『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会』(荒井裕樹/現代書館)

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