自民党・杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」という記事が大きな批判を浴びている。「新潮45」8月号に掲載された記事だ。この中で、杉田氏は「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して『非国民だ!』という風潮」はなく、「寛容な社会」とした上で、以下のように記している。
「例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていのかどうか」
生産性。この言葉に多くの人がぎょっとしたからこそ、批判の声は広がったのだろう。27日には、自民党本部前で抗議集会が開催され、5000人が集まったという。
生産性があるか、ないか。
あまりにも身も蓋もない言葉で、そもそも人間に対して使われるものではないと思うが、この言葉はこれまで手を替え品を替え、多くの人を苦しめてきた。
生産性がないと言えば、40代、子なし人生の私もその「生産性がない」一人にカウントされるのだろう。が、この言葉に対して、私は「出産してなくても、働いて納税している」などという反論はしたくない。「生産性がない」という暴論に対して、「ある」とは決して言いたくない。なぜなら、そういった反論は、私がこの12年間大切にしてきた「無条件の生存の肯定」という言葉とは真逆のものだからだ。
「無条件の生存の肯定」。その言葉を知ったのは2006年。「プレカリアートの企みのために」と銘打たれたメーデーでのことだった。生存は、生産性が高いから、利益を多く生み出したから、などの対価・褒美として与えられるものではない。役に立たなかろうがなんだろうが、生存そのものが無条件に肯定されるべきなのだ、という力強いスローガン。この言葉との出会いがきっかけで、私は「生きさせろ!」と声を上げる運動を始めたと言っても過言ではない。それくらい、私にとっては天地がひっくり返るほどの言葉だった。
それまでの私は、どこかで「生産性が高くないと生きていてはいけない」と思い込んでいた。なぜなら、私が生まれてからずーっと、この社会はそんなメッセージを様々な形で発していたからだ。しかもその生産性は多くの場合、「企業の営利活動に貢献すること」に集約され、結局は、金銭的価値をより多く生み出した者により多くの価値があるという話になるのだった。そんなことにどこか違和感を覚えつつも、そういうものなんだと思っていた。そうして「生きる」ことは、なんらかのハードルをクリアしたことによって「交換条件」のように「許される」類のものだと思っていた。だけど、自らの生存を条件つきでしか肯定できないことは生きづらさに容易に繋がる。
ハードルをクリアできているうちはいいものの、いくらクリアし続けてもハードルはどんどん高くなるばかり。どこまでいったら「自分は生きていていいのだ」と堂々と胸を張れるかわからない。だからこそ、「わかりやすい」結果に一喜一憂することになる。私の場合、それは本の売り上げなどの数字だった。結果、売り上げが良ければ有頂天になり、悪ければ死にたくなった。連載が増えれば自分の価値が上がったように感じ、減ればたちまち自尊心ごと目減りした。多くの人が、似たようなものだと思う。そんな「外的な評価」に頼って生きるしかなかった時、私はとても冷たい人間だったと思う。他者に対しても、そうした軸でしか評価できなかったからだ。
だけど、「無条件の生存の肯定」という言葉を知った時、まったく違う地平が広がった。「利益を生み出すか否か」とか、「役に立つか立たないか」とか、そんなくだらない評価軸なんてまったく関係なく、人間の生存は無条件に肯定されるべきだ、と開き直れたのだ。それは「生産性競争」の中で疲弊し、「生産性高くないと生きてちゃいけない教」にどっぷり浸っていた私を「生産性地獄」から一気に解放してくれるものだった。自分も他人も条件つきじゃなくちゃ肯定できなくて悶々とするのなら、もう、無理やり力技みたいに肯定してしまえばいいのだ。以来、自分に対しても他人に対しても優しくなれた。そのことは私を随分生きやすくしてくれたし、私の人生を豊かにしてくれた。そうして、これまで何度もデモで叫んできた。
「役立たずでも堂々と生きるぞ!」「貧乏人はのさばるぞ!」
だいたい、「生産性が高い」からと言って「偉い」なんて大間違いなのだ。なぜなら、近い歴史を振り返れば、「生産性」や「利益」のみを追い求めることによって公害などが発生し、環境が破壊され、多くの犠牲者を出してきた。それに「俺、すごい営業成績いいから」なんて偉そうにしてる人の話をよくよく聞いてみれば、粗悪品を売りつけてるだけだったりもする。少なくとも、環境に負担をかけず、製造工程などで一切の搾取がない「営利活動」でない限り、胸など張れないのではないか。というか、私たちはたかだか「企業の営利活動」なんかのために生まれてきたわけではないのだ。そんなもので人の価値を決めるなど、なんて貧しい発想なのだろう。
「無条件の生存の肯定」という言葉と出会って、12年。これまで私は、その言葉に命を吹き込むような活動をしてきたと自負している。10年前の年越し派遣村だってそうだ。それから続けている困窮者支援や生活保護関連の活動だってそうだ。特に生活保護制度は「無差別平等」を謳っている。一定の要件を満たせば、誰にでも開かれているのだ。そこに「税金を使って助ける価値がある人間かどうか」などと人を選別する視点は当然、ない。「税金を投入することによってのちに生産性が見込めるか」などが選別されるようになれば、生活に困窮した人だけでなく、高齢者や障害者、病気に苦しむ人などが見殺しにされる社会になるだろう。そんなのは、地獄だ。
しかし、そうした選別の視線はどんどん当たり前のものとなり、「生きるハードル」も年々高くなるばかりで、弱者と言われる立場にいない人をも追い詰めている。
企業社会はより高いコミュニケーション能力を持ち、より高いスキルを持った上に、どんなに長時間労働をしても倒れない強靭な肉体とどんなにパワハラを受けても病まない強靭な精神を持った即戦力しか必要とせず、「求める人物像」はどんどん「生身の人間」から遠ざかっている。そうして多くの人が追い詰められる中、「生産性のない人間は死ね」というようなメッセージは、全国津々浦々までに浸透している。だけど、生まれてからずーっと生産性が高くいられる人なんて一人もいない。勝ち続けられる人はほんの一握りだ。そしてそんな「生産性が高くないと生きる価値がない」という思想を内面化していると、何が起きるか。自分の思う「生産性が高い自分」でいられなくなった時、自殺という形で自らを殺してしまうかもしれない。いや、それだけではない。この国では2年前、そんなメッセージに対する「最悪の回答」というような事件が起きている。相模原の障害者施設で19人が殺害された事件だ。
植松被告は、衆院議長に宛てた手紙の中で、「障害者は不幸を作ることしかできません」と書き、自分には470人を殺すことができると書いている。そのことが「世界経済の活性化」に繋がると書く植松被告は、「生産性の低い人間」の命を奪うことができる「生産性の高い」自分を衆院議長にアピールしている。自分は「役に立つ人間である」と、プレゼンしているのだ。
あの事件が起きた時、多くのメディアは「かけがえのない命」という言葉を多用した。「命は大切」と繰り返した。しかし一方で、そのニュースが終われば、「高齢化によって、高齢者の医療費にこれだけの税金が使われている」などということが「お荷物感」たっぷりで報じられる。「命は大切」と言いながら、その命の継続にこれだけの税金がかかると報じるダブルスタンダード。そんな「本音」と「建前」が並列し、命と金は常に天秤にかけられる。そんなこの国の第一党である自民党議員からあのような発言が出ることに、私はあまり驚かなかった。なぜなら、口には出さずとも、自民党はずーっとそんなメッセージを発していたからだ。だからこそ、一部党内に批判はあれど、党として問題視していないのだろう。
そんなこの国では、障害者に90年代まで強制不妊手術が行われていた事実がある。
「優生上の見地から、不良な子孫の出生を防止する」
そう明記された旧優生保護法は、90年代後半までこの国に存在した。厚労省によると、本人の同意が必要とされなかった不妊手術は49年から92年まで、約1万6500件あったという。現在、多くの当事者がそんな強制不妊手術に抗議の声を上げているが、不妊手術をされた人々は、数十年間、沈黙を余儀なくされていたのだ。
「生産性があるか、否か」。そんなことを突き詰めると、生きていていい人は、ほんの一握りになるだろう。それは合理的で効率的な社会かもしれないが、そこは自らが「生産性がない」と判断された途端に排除の対象とされる社会だ。
少なくとも、私はそんな社会はごめんである。それよりも、誰しもの生存が無条件に肯定される社会の方がずっとずっと、生きやすい。役に立つかどうか、費用対効果としてどうなのか、将来の生産性が見込めるか、そんなことで命に優劣がつかない社会。っていうかそれって、びっくりするほど当たり前のことなのに、どうしてそんな当たり前が通らないのだろう。いつからそんなことになってしまったのだろう。
今、あらためて、「無条件の生存の肯定」という言葉を、噛み締めている。