第59回:「慈悲の瞑想」のすすめ “闘い疲れ”を感じている皆さんへ(想田和弘)

 早くも年の瀬である。

 2013年2月から月に1回のペースで書いてきたこのコラムも、今回が59回目。こんなに書き続けることになるとは思わなかった。

 自分のコラムを振り返ってみると、そのほとんどは政治に関するもので、世の中の現象や出来事に対する批判や危機感に満ちている。ツイッターやフェイスブックの投稿を振り返ってみても同様だ。

 祖国である日本でも、生活の場であるアメリカでも、デモクラシーが危機的状況にあることを考えれば、半ばしかたがないことではある。書かざるをえない理由がある。

 しかし、驚き呆れるようなニュースに毎日反応し続け、批判ばかりしていると、心身ともに疲れてくるのも事実だ。僕は怒りに火がつかないように気をつけているし、ついてもすぐに消火するように心がけているけれども、それでもやはり怒りは生じていて、知らない間に心身を焦がしているのだと思う。

 マガジン9の読者には、僕と似たような状況の人も多いのではないだろうか。

 だから年末くらいは政治や社会への批判はお休みにして、今回は日頃の“闘い疲れ”に手当てをし、傷を癒す方法について書いてみたい。

 本欄でもすでに書いたが、僕は1年半くらい前から「観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」を始めた。2500年前、ブッダが悟りを開いた究極の瞑想法だと言われている。

 むろん僕は悟りにはほど遠いが、観察瞑想は今でも続けている。毎日30分という短い間だが、これをやると心が安らぐし、頭も整理されてすっきりする。1年半前まで、瞑想なしにずっと生きてきたのだということが、ちょっと信じられないくらいだ。

 最近では観察瞑想のほかに、「慈悲の瞑想」というのも始めた。これもブッダの教えに基づく古い瞑想法だが、別に宗教色があるわけではない。そして簡単だ。

 具体的には、次の言葉を心をこめて唱える。口に出してもいいし、心の中で唱えてもよい。

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように 

私は幸せでありますように(3回くり返す)

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回くり返す)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回くり返す)

 この瞑想のポイントは、まずは自分の幸福から願うということだ。そしてその範囲を「親しい人々」にまで拡大し、さらに「生きとし生けるもの」にまで広げていく。「自分」や「親しい人々」や「生きとし生けるもの」に対して、優しい気持ちを抱きながら唱えるのがコツだ。

 スリランカ初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老によると、「親しい人々」を念じるときには、身近な人の顔を一人ずつ記念写真を見るように思い浮かべるのがよいそうだ。「生きとし生けるもの」の場合には、思い浮かべる対象を人間以外にも広げていく。ただし、亡くなった人は思い浮かべないほうがよいとのことである。

 これを毎日、15分から30分くらい行う。しかしそこまで長く唱えなくても、念じ始めた瞬間から心が落ち着いてくるから不思議である。とくに心が乱れたときに念じると、効果が実感できる。本来は、「観察瞑想」の準備として「慈悲の瞑想」をするのがよいとされている。

 上記の瞑想に慣れてきたら、次の瞑想もオプションとして挑戦するとよい。これは1日に1回唱えるだけで十分だそうだ。

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように
私の嫌いな人々も幸せでありますように (3回くり返す)

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように (3回くり返す)

 この瞑想をしていて気づかされるのは、自分や他者を慈しむ心が、自分の中にもちゃんとあるのだということだ。そんなことは当たり前のように聞こえるかもしれないが、自己の内にある慈悲の存在を理屈ではなく身体で実感すると、なんだか感動的である。そのことが自分の心を癒すと同時に、鍛えていく。

 思えば、僕が政治や社会のあり方に危機感を抱き、批判を続けているのも、「自分も、親しい人も、知らない人も、動物も、植物も、みんなが幸福でいられたらよいのに」と願うからではなかったか。

 ところが批判を続けていると、いつのまにか「怒り」に火がついてしまって、誰かを敵対視してしまうようになる。本当はそういう「敵」も含めたみんなが幸福でいられる世の中を目指したいのに、そのことをついうっかりと忘れてしまう。

 「慈悲の瞑想」、みなさんも試してみませんか。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。