第18回:米軍基地を考えながら(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 2018年、最初の「マガジン9」の更新です。明けましておめでとう…と書くのが当たり前だけれど、今年のぼくはそう書けない。
 なにしろ2年つづきの喪中。一昨年、昨年と、親族が相次いで旅立ってしまった。それも、とても大事な身内だったから、悲しい。
 年賀状をやりとりしている方たちには喪中ハガキを出しておいたので、我が家への年賀状はほとんど来なかった。だから、静かだけれど、少しさびしい新年です。
 その上、鬼の霍乱(かくらん)か、年末から体調を崩してしまい、ホントの意味での「寝正月」。お酒大好きのぼくが、ほぼ1週間、飲む気になれず、食事もあまりおいしくない。まあ、ダイエットにはなったけどね。こんな年越しは初めてでした…。

「Kanto Village」の思い出

 ようやく少し回復したので、久しぶりに散歩に出たのが1月7日。ぼくの好きな散歩コースのひとつ、「旧関東村」をブラブラ……。
 ん、関東村って何? と不思議に思う方が大部分でしょうが、府中市や調布市に在住の人には分かるはず。かつて米軍基地があった跡地で「Kanto Village」つまり「関東村」と呼ばれていた場所だ。
 そう、数十年前、ここは米軍基地だったのだ。主に将校たちの居住区として使われ、フェンスの中は眩しいほどのアメリカだった。青々と芝生が敷きつめられ、スプリンクラーが虹のかかった水を撒き、プールがあり、体育館からは子どもたちの歓声が聞こえた。まるで昔のハリウッド映画やTVドラマで見るような、豊かで優雅なアメリカがフェンスの中に存在していた。
 なぜそんなことを知っているのかって? 実は、ぼくは学生時代にこの中でアルバイトをしていたことがあったからだ。
 時期はベトナム戦争の真っただ中、基地の中の雰囲気はかなり荒んでいたけれど、それでもここは居住区、そんなに殺伐とはしていなかった。ぼくの仕事は引越し作業で、関東村と横田基地や立川基地との間の、主に将校たちの引越し荷物を運ぶ役目だった。
 それでも、立川基地の中では、何度か白人兵と黒人兵の殴り合いのケンカには遭遇したことがあったな。

関東村の中央を走る広い道路

返還された基地は、今

 立川基地は1973年~77年に日本へ全面返還された。現在は国営昭和記念公園と、自衛隊駐屯地、消防、警察、海上保安庁などで構成される広域防災基地になっている。
 関東村は同じく73年に返還された。現在は、味の素スタジアム、東京外語大、警察大学校、それに養護学校など多くの社会福祉施設や老人施設、さらには榊原記念病院、府中市学校給食センター、少年野球場、サッカー場、そして広々とした武蔵野の森公園などがあり、さらには武蔵野の森総合スポーツプラザという巨大なアリーナが最近完成した。まさに、教育とスポーツと公園が一体化した巨大空間になっている。

左が味の素スタジアム、右が最近完成したスポーツプラザ、まるで宇宙船のよう

東京外国語大学。留学生もとても多い

養護学校の校舎、なかなかカッコいい

サッカー少年少女たちの歓声が響く。野球場もいっぱいある

武蔵野の森公園の大きな池。カモさんたちの天国

 公園の東側には調布飛行場があり、伊豆諸島への定期便が飛んでいる。ぼくは、のんびりここを散歩するのが大好きだ。プロペラ機のぶろろぉ~んという音は、あの暴力的なジェット機の爆音と違ってなんか優しい。ほんの数十メートル先に飛行機の離発着が見られる、なかなか楽しい散歩だ。
 ぼくは残念ながら、まだここの飛行機には乗ったことがないので、今年はきっとここから伊豆諸島へ行くつもり。定期便は伊豆大島、神津島、新島、三宅島。三宅島は何度か行っているから、神津島にしようかな…などと考えながら飛び立つ飛行機を眺めている。

プロペラの音もなんだか優しい、調布飛行場

戦争の記憶をとどめる掩体壕。飛燕という小さな飛行機を隠した

沖縄の米軍基地は?

 だけど、ここを歩くたびにいつも思い出すのは、やはり沖縄の米軍基地のことだ。例えば、あの普天間飛行場が返還されたなら、いったい何ができるだろう? どんな跡地利用が可能だろう?
 旧関東村の面積は約203.7ヘクタールだという。それに対し、普天間飛行場は約408.5ヘクタール。普天間は関東村のほぼ2倍だ。関東村ですら、これほど多種多様な利用ができるのだから、普天間が返還されたなら、宜野湾市の発展は想像もできないほどだろう。
 関東村が市街の住宅地からはやや離れたところの位置するのに対し、普天間飛行場はまさに人口密集地のど真ん中。利用の仕方も関東村とは比較にならないほどさまざまな計画が創れるはずだ。
 米軍機から物体が落下するような、危険極まりない学校などは移転して拡充発展させ、文化教育地区を作るのも可能だ。それに、病院や医療施設を集約して「巨大医療センター」を立ち上げるのはどうだろう。
 この医療センターは、ぼくが7年半前に上梓した本『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)で提唱した「沖縄医療特区構想」なのだが、これは今でも実現可能だと、ぼくはひそかに思っているのだ。

またも米軍機不時着

 ここまで書いたとき、また米軍ヘリが不時着した、とのニュースが入って来た。いったい何なんだ、これはっ! もはやめちゃくちゃじゃないか。
 不時着場所は読谷村。日航アリビラというリゾートホテルから400メートルほどの場所。このホテルには、かなり昔だが、幼い娘たちを連れて宿泊したことがある。つまり、多くの人たちが近辺にいる場所なのだ。
 先日、やはり米軍ヘリが不時着した伊計島も、場所は民家から百数十メートルしか離れていなかったという。前回のこのコラム(第17回)でも書いたけれど、昨年1年間に約30回以上の普天間飛行場関連の米軍機事故が起きている。さらに、今年に入ってもう2回の米軍ヘリ不時着事故。
 原因はいろいろと取り沙汰されているが、沖縄米軍トップのニコルソン地域調整官(中将)すら「クレイジーな状況」と嘆くほどの惨状だ。
 翁長沖縄県知事も、もう絶句するしかない。
 「言葉を失う。いい加減にしてくれと言いたい。日本政府の当事者能力のなさを恥じてもらいたい」と、何が起こっても米軍の言葉を追認するだけの日本政府の対応にも、怒りを隠せなかった。

 ぼくの得た情報によると、安倍官邸も事態を重く受け止めており、早急に米軍と米政府に「強く抗議する」という。その上で、沖縄に政権幹部を派遣する予定だそうだ。だが、安倍官邸の「米への強い抗議」など口先ばかり、これまでいったいどんな効果があったか!
 安倍政権がもっとも危惧しているのは、2月4日投開票予定の名護市長選挙への影響だ。辺野古米軍新基地建設に、翁長知事とともに強く反対している現職の稲嶺進市長が、これらの米軍機事故によって有利になることを、なんとしてでも阻止したい。そのためには、またしても大きなカネを、市長選に向けて投入する準備をしているという。
 大義名分がない場合には、カネで横っ面をひっぱたく。いつもの安倍政権のやり方である。
 沖縄での米軍基地反対運動を、揶揄したり侮辱したりと大騒ぎしているネット右翼諸兄諸姉が、連続する米軍の事件事故で動きが鈍っていることも、安倍政権には不安材料だ。なにしろ、新年用の新聞企画に振り袖姿の沖縄の女性右翼活動家を招くような安倍首相、その右翼活動が鈍ることも心配のタネだという。
 この件では、さすがのネット右翼諸兄諸姉も「反対派の自作自演だ」とは言えないのだから当然だ。

 2018年が始まった。
 良い年になりますように、と前回のコラムを締めくくったけれど、新年の幕開けは、どうもキナ臭い始まりのようだ。
 もう一度、願っておこう。
 よい年になりますように…と心を込めて……。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。