東日本大震災から、あと少しで7年となる。
ついこの間のことだったような気もするし、だけど気がつけば東京で暮らす私は震災や原発事故のことを忘れている時間が増えていたりして、毎年「3・11」が近づくたびに、何か言い訳のように「あの日から◯年」なんて原稿を書いている気もする。
だけど、「忘れない」ということ以外に、できることは多くない。
連載を読み返してみると、昨年の3月には「3・11後の『不思議な体験』について〜『魂でもいいから、そばにいて』」という原稿を書いている。
タイトル通り、震災後の不思議な体験を集めた本『魂でもいいから、そばにいて――3・11後の霊体験を聞く』について書いたものだ。津波で流されたはずなのに、いつも同じ場所に立っている親友。津波で亡くなった兄の壊れた携帯から届いた「ありがとう」のメール。大切な家族を亡くした人にとっては、「不思議な体験」そのものが、「頑張れよ」というメッセージになっている。ひとつひとつのエピソードに、深い喪失が刻まれている。
その前年、2016年の2月には「『呼び覚まされる霊性の震災学』から思う『時間』」という原稿を書いている。こちらは、東北学院大学の「震災の記録プロジェクト」(金菱清ゼミナール)の学生たちが、被災地でフィールドワークを重ねて得た「不思議な体験」をまとめた『呼び覚まされる霊性の震災学 3.11 生と死のはざまで』について書いたものだ。
東日本大震災以降、現地で語られる「タクシーに乗る幽霊」など不思議な話の数々。だけど、「幽霊話」と言うには、ちょっと違う。震災の日まで、自分の近くで生きていた人々だからだ。震災から5年が経とうという時期に刊行された本書は、大災害によってある日突然失われた膨大な命について、生きている人たちがそれぞれの折り合いをつけようとしている記録に思えた。
さて、そんな東北学院大学の「震災の記録プロジェクト」が、「あの日」から7年という節目を前に、また本を出版した。タイトルは『私の夢まで、会いに来てくれた―― 3.11 亡き人とのそれから』。16年11月から、約一年かけて「震災遺族が抱く夢」をテーマに聞き取り調査を進めてきた、その集大成である。本書には、「遺族が見る亡き人の夢」が27編、収録されている。
「おばけだぞ〜」。亡くなった妻がおどけた口調で言い、かぷっと夫の鼻を噛む夢。
津波からの避難が遅れ、4人だけが助かった大川小学校の生徒だった少年は高校生となった今、友達の夢を見るという。高校の教室に、亡くなった小学校の友達が大勢いる夢だ。
警察官として避難誘導をしていた時に津波にのまれた男性の母は、「冗談だから。俺がいないこんな状況なんて、冗談なんだからね」と夢の中で息子に言われる。
一方で、震災前から津波の夢を見ていたという人もいる。
津波で両親と義姉を亡くした女性は、何年かに一度のペースで自分が津波に遭う夢を見ていたという。もがいて助かろうとする時もあれば、もう避けられないと襲ってくる波をじっと見ていることもあった。が、最後は必ず津波に巻き込まれるという夢。
30代の長男を亡くした女性は、震災の1年ほど前から奇妙な夢を頻繁に見ていたという。黒くて大きなもやもやとした恐ろしいものが自分の上にのしかかってくる夢だ。3・11後にぱったりと見なくなったその夢を、息子に死の危険が迫っている予知夢だったと考えている。
また、小学2年生の弟を亡くした男性は、震災の2年ほど前から「弟が死ぬ夢」を見ていたという。半年に一度くらいのペースだったが、震災の一年前は3ヶ月に一度くらいの頻度となっていた。弟が死ぬ、とわかっているのにどうにもできない夢を繰り返し見ていたのだ。
夢ではなく、「大津波が来ればいいのに」という言葉を残していた子どももいた。小学2年生で津波によって亡くなった男の子は、震災2日前、朝食を食べている時にそう口にしたという。「大津波が来たら、おうちもみんな流されちゃうんだよ」と言われると、「流されてもいい。そしたらコト(自身の名前)、学校に行かなくていいもん」と答えたという。一体、何があったのか。どうして学校に行きたくなかったのか。問うてみたくとも、当人は既にこの世にいない。
本書には、死を覚悟した瞬間の極限状況も描かれている。
語り手の男性は、家族とともに自宅が津波に襲われ、隣の家が流され始めるのを見る。窓の外には大型トラックが迫ってくる。ぶつかったら、間違いなく自分たちの家も流される。その時、男性の義父はベランダに出て「最後の一服だからつきあえ」とタバコを差し出したのだという。そうして津波の濁流の中、自宅ベランダでタバコを吸う二人。吸い終わると義父はベッドの下からコルク板を引っ張り出し、母につかまるように差し出し、「いや〜、俺の人生、好き勝手やらせてもらったから楽しかった。だけど、お前たちは気の毒だなぁ」などと言い始めたという。不思議とみんな冷静になり、男性も財布から免許証を取り出してジーンズのポケットに入れた。死んだあと、身元がわかるようにするためだ。死を覚悟する瞬間とは、こんなふうに冷静になるものなのだろうか。
結局、この家族は助かったものの、男性には深い悔いが残る。助けを求める女性の声が聞こえたものの、どうすることもできなかったからだ。そして後日、声が聞こえた場所から女性の遺体が発見される。「助けて」という声が聞こえたのに、助けられなかった。そんな後悔を、本書では少なくない人が語っている。
登場する中には、津波で亡くなった家族と決していい関係ではなかった人もいる。母親を憎んでいた娘。息子を叱ってばかりいた父親。その父親は息子を亡くした今も、夢の中で言うことを聞かない息子をげんこつで殴ったり、叱ったりしているという。目が覚めると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる、と語る。
一方で、子どもを亡くしながらも、生きていた時のように過ごす人もいる。
12歳の三男を亡くした母親は、今も食卓に三男の食事を並べ、誕生日にはケーキを買い、プレゼントを選んでいる。が、もうすぐ震災から7年。成長した三男が何を欲しがるのかだんだんわからなくなってきたことが寂しい、と語る。また、幼稚園児だった娘を亡くした母親は、生きていれば中学生となる娘のために制服を作ったという。
幼稚園児が、中学生になる。そして12歳の少年は、19歳になる。7年という年月を子どもの年で考えると、改めて驚かされる。
そして私たちの上にも、同じ7年という年月が流れた。
7年前の3月、私は大切な人をちゃんと大切にしようと思った。いろんなことを、できるだけ言葉にしようと思った。そして原発事故を前にして、絶対に黙らないでいようと決めた。それまでも黙っていない方ではあったけど、おかしいことにはおかしいと、いちいち声をあげようと決めた。
東日本大震災で、私は親しい人を誰一人、亡くしていない。だけど、これまで多くの大切な人を亡くしてきた。その人たちが出てきた夢を今、思い出そうとしても思い出せない。この本に登場する遺族の中には、夢の記録をつけている人もいる。そうしないと、忘れてしまうからだろう。それくらい、大切な夢。
夢の話なんて。そう思う人もいるかもしれない。だけど、それに対してある遺族は言う。
「夢をね、壊さないでほしい。テレビ番組なんかでも、科学者が脳の働きのせいとか解説するけど、最後の司会の人が『科学でも解明できないことがあります』と言ったりするじゃない。私たちは、それを信じてる。理屈じゃないのよ」
「夢の話なんて家族以外にはしないはずなんです。ましてや取材とか、よほど仲よくなった記者に聞かれでもしない限り、話さないだろうから、表には出ないと思います。でも、夢の話は絶対に誰かのためになる。被災地で声を出せない人に夢の話が届いたら、心の復興を助ける一つにはなると思うんです」
心の復興。おそらく、今、一番置き去りにされていることだ。
どうしたら、それに少しでも役立つことができるのか。わからないまま「あの日」が近づくたびに、こうしてあの日にかかわる言葉に触れ、書くことしかできない。