第439回:金子兜太さんの訃報 24歳が体験した戦争。の巻(雨宮処凛)

 「小生も驚きましたけど、3ヶ月くらいで男色が広まった。男同士の関係が各所でできて、若い男を取り合って、男同士で喧嘩するわけです。それが殺し合いにまで発展する。そういう殺人事件が増えてね。あなたがたはそんな馬鹿げたことがあるかと思うかもしれないけど、そんなことがあったんです。あんなに男色が広まって、しかもそれで殺し合いになるなんて、小生も考えられなかったね」

 これは、ある人が私に語ってくれた太平洋戦争中の話である。舞台はトラック島。南方の第一線だ。戦況が悪化して爆撃が激しくなる中、慰安婦たちを日本に戻し、島から女性の姿が消えると驚くべき勢いで広まったのが「男色」だったという。

 この話を私に聞かせてくれたのは、俳人の金子兜太さん。2018年2月20日、98歳で亡くなった。その金子さんに、私は15年、ご自宅にお邪魔してお話を聞いている。『14歳からの戦争のリアル』という本で、イラク戦争に参戦した元海兵隊員や、やはりイラク戦争の現場に戦場出稼ぎ労働者として潜入したジャーナリストの安田純平さん(15年、シリアで拘束されたとみられ、現在も消息は不明)、そして戦時中、満州にいた女優の赤木春恵さんなど、様々な形で戦争を体験した方に取材したのだ。その中で唯一、太平洋戦争を軍人として体験したのが金子さんだった。

 埼玉県秩父で金子さんが生まれたのは、1919年。その10代は、日本が戦争に突き進む時代と完全にリンクしていた。12歳の頃に満州事変、17歳の時に日中戦争が始まり、金子さんが東大に入学した41年には真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。それから2年後の43年、金子さんは大学を半年繰り上げで卒業させられる。軍隊に入るため、全員が文句なしに繰り上げ卒業となったのだという。金子さんは東大経済学部というエリートだが、その頃は徴兵されることは覚悟していたという。が、法学部や経済学部を出た者は、海軍経理学校の試験に受かれば訓練ののち、海軍の主計科士官になれるというシステムがあった。

 「陸軍や海軍の兵営に初年兵としてぶちこまれて、ひっぱたかれたり蹴飛ばされたり、草履の裏を舐めさせられたり、上官からひどい目に遭いたくない」という思いがあった金子さんは、試験に受かり、海軍経理学校に入学。入学直前には日本銀行に就職し、3日間だけ勤務して退職している。当時はこういった「戦地から生きて戻ってきたら復職できる」という「紐付き退職」の制度があったという。なんというか、3日で退職といい、生きて帰ったら復職といい、すごい制度である。大学の繰り上げ卒業もだが、こういう細かいことを知ると、日本が「戦争」を中心に回っていたということがよくわかる。

 当時、日本を包んでいた空気を金子さんは「戦争待望論」という言葉で語った。世界恐慌によって大不況に襲われた日本の農村。金子さんが生まれ育った秩父の貧しい大人たちは異口同音に言ったという。

 「戦争で勝てば、日本は楽になる」「あんたは私たちと違うから、知恵を絞って戦争に勝ってくれ。日本が勝てば、俺たちの暮らしは楽になる」

 そうして44年、金子さんはトラック島に配属される。

 が、辿り着いたトラック島は大空襲に晒された直後で真っ黒焦げだった。この空襲で日本軍が出した損害は、輸送船31隻、艦艇10隻、航空機279機。死者は2000人にのぼった。着くのが少し早ければ、金子さんもその死者の中にいたのかもしれない。

 そんなトラック島を米軍から死守するための要塞を作ることが金子さんらに課せられた使命だった。が、やることはと言えば「土建現場と同じ」。滑走路や道路や建物の建設だ。そんな現場で働くのは、軍人や兵隊ではなく「工員さん」。民間人で、徴用や募集などで集められた。ほとんどが肉体労働一筋で生きてきたような男たちで、不況の日本では食べられず、南洋に行けばパパイヤやマンゴーが食べ放題でひと稼ぎできるかもしれないとやってきた工員たちだったという。

 当時、トラック島にいた工員は1万2000人ほど。まだ24歳だった金子さんは、多くが自分より年上で、「やくざ者も多かった」という工員たちを束ねる任務を負う。その苦労はいかばかりかと思うが、金子さんはそんな工員たちに親しみを感じていたという。

 しかし、戦況は次第に悪化。冒頭に書いたように慰安婦を日本に帰したのち、男色が一気に広まる。補給がなくなったことにより、食糧事情も逼迫していた。サツマイモを作ったり、漁をしたりするものの焼け石に水。海に手榴弾を投げて魚をとるという漁もしたが、浮いてきた魚をとるために海に飛び込むとグラマンに狙われる。金子さんは、自らも飢えに苦しんだことを話してくれた。

 「コウモリを食ったこともあります。洞窟がたくさんあって、行くとぶら下がっている。首を絞めるとキュッと目玉が飛び出るんだ。それを刺して焼くと、ちょうどスズメの焼き鳥みたいになる。たくさん食べたらどうなったかわからないけど、たまにだったからね。それから、トカゲを食うと下痢をするんです。小生の同期の奴がトカゲを食って、下痢をして死んじゃった。その前例があるから、トカゲは食わない」

 そんな食糧事情の中、工員の人たちは次々と命を落としていく。彼らを金子さんは「非業の死者」と呼んだ。

 「とにかく、あの人たちは生き生きときびきびとしているんです。始末は悪いけど、人間として非常に親しめる。そんな元気がいい人たちが痩せ細って仏様みたいになって死んでいくのは辛かった。それを小生は『非業の死者』と言っています。国のためとか志とか、そういったものを何も持たない人間です。そういう人たちが死んでいく哀れさです」

 餓死だけでなく、グラマンの機銃掃射で死んだ者もいる。夜、小屋に爆弾を落とされての死もある。また、親しくしていた工員が、目の前で死んだこともあるという。手榴弾実験の失敗で、手が吹き飛ばされ、背中に大きな穴が空いた。即死だった。周りの工員たちは、死体を担いで病院まで走ったという。金子さんも、気づけばその中に入っていた。

 そうして、多くの命が失われた果てに終戦の日を迎える。翌月、島に米軍がやってきて金子さんは捕虜となる。1年3ヶ月続いた捕虜生活の中で、金子さんが驚いたのは米軍の食事だったという。配給されたオートミールとベーコンのあまりの美味しさは衝撃だった。捕虜の中には、食べ過ぎて下痢をして死んだ人もいたという。そんな金子さんたち捕虜の警備をしていたのは18、19歳のアメリカの海兵隊。その眩しいほどの明るさが印象に残っているそうだ。

 「そういうかれらを見ていると、骨と皮になって死んでいった工員たちの姿がよみがえってくる。あの死に方はやっぱり、あまりにも気の毒じゃなかったかと思えてくるんだ。戦後捕虜としてトラック島で過ごした1年と3ヶ月の間、いちばんこたえたのはそれだった。あの若者たちを見なければ、死者のことが、これほど自分にこびりついて離れないということはなかったかもしれない」

 46年11月、金子さんは日本に復員。

 取材の日、話を聞いて改めて驚いたのは、金子さんの話にはひとつとして戦争の「勇ましさ」や「勇敢さ」を思わせるエピソードがないことだった。

 ただただ現場の「土建仕事」に追われ、食糧の確保に追われ、飢え、夥しい人が命を落としていくのを見ていることしかできない。金子さんは、南方第一線に自ら志願して行ったのだという。戦場に赴く際には、「田舎のおっちゃんおばちゃんのためにもやらなきゃいかん」と奮い立つものがあったという。が、実際の戦場にあったのは、思い描く「戦争」とは随分違う光景だった。

 「軍隊にして軍隊にあらずでしたね。何がなんだか自分でもわけがわからなかった」

 金子さんがトラック島を振り返って言った言葉だ。

 トラック島では、終戦までに5000人が飢えや病気で命を落としている。非業の死者、という金子さんの言葉が浮かぶ。

 そうして戦後73年となる今年、金子さんは98歳で生涯を終えた。

 取材時、金子さんは安保法制に危機感を抱き、徴兵制への懸念を語っていた。それからすぐ、金子さんが書いた「アベ政治を許さない」というプラカードの言葉を官邸前や全国の路上で見かけるようになった。

 時間がない。『14歳からの戦争のリアル』の取材をする中で、私は焦っていた。金子さんの他にも戦地に赴いた方へ取材を申し込んでいた。が、実現しそうになったものの、その方が体調を崩してしまい、取材は叶わなかったからだ。それから少しして、その方の訃報が届いた。そんな中、実現した金子さんへの取材。氏からは、「話しておくぞ」という覚悟のような気迫をひしひしと感じた。そうして怒りを込めて、語ってくれた。とても90代には思えないしっかりした口調で、笑うと「豪快」という言葉がぴったりだった。

 今もトラック島には、多くの日本人の遺骨が残されている。

 太平洋戦争で亡くなった日本人の軍人・軍属の数は約230万人と言われている。その過半数の死因が、戦闘行為によるものではなく、餓死だ。

 金子さんの訃報に、改めて、あの戦争について語ってくれた言葉たちを反芻している。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。