第64回:ポイント・オブ・ノーリターン(想田和弘)

 現在公開中の拙作『港町』(観察映画第7弾)には、86歳の漁師ワイちゃんが、問わず語りにポツリとつぶやく場面がある。

 いわく、昔に比べて獲れる魚の量が激減してしまった。それなのに魚は安くなり、網の値段は高くなった。だから漁師を廃業する人が多いし、後を継ぐ人もいないのだという。

 「しゃーから合わんようになってきた。昔ははんてえじゃった。網やすうて、魚が値がえかったから。魚がしっかりとれて、網はやしいん。それがはんてえなったからおえん。しゃーから、やっていけんようになった。やめるん。後の子どもがせんようなった。後のもんがせんのん」

 ワイちゃんにも跡継ぎはいない。娘さんは長い間中国電力に勤め、ワイちゃんの3倍の稼ぎを得ていたという。

 『港町』の舞台である牛窓では、かつて漁業が盛んだった。地元で獲れた魚は町内の市場へ集められ、競りにかけられ、魚屋さんを通して地元の人々へ届けられてきた。

 それはおそらく、太古の昔から千年単位で続いてきた経済の円環である。そのサイクルがいま、立ち行かなくなろうとしている。魚を獲って売るという、たぶん人類と同じくらいの古い歴史を持つ仕事が、生業として成り立たなくなろうとしている。

 いったい、この世界に何が起きているのか。

 僕は『港町』を作ることで、この問いを抱えることになった。すぐには答えの出ない、大きな問いである。

 牛窓で生まれ育ち、今は岡山市で暮らす柏木の母(僕の妻の母・柏木廣子)にとっては、映画に映し出された光景は、かなり衝撃的だったようだ。

 母は市場での映像を見ながら、

 「えっ? これだけ!?」

 と絶句していた。市場に集められた魚と、競りに参加する魚屋さんの少なさに、ショックを受けていた。

 母いわく、子どもの頃の記憶にある牛窓の市場といえば、気の荒い漁師や魚屋で満ち溢れ、子どもには容易に近づけぬような場所だったそうである。そして大量の魚が取引されていた。そのイメージとのギャップに、母は言葉を失っていた。

 その後『港町』が岡山の劇場で公開されると、母は友達をたくさん連れて見に来てくれた。そして大阪での初日には、柏木の父と一緒にはるばる見に来てくれた。

 しかし母は『港町』自体については、多くを語ろうとしなかった。何かを深く考え込んでいるようだった。

 ところが先日、1週間だけ帰っていたニューヨークの自宅に、突然、電話がかかってきた。いわく、

 「あのときが境目だったんじゃなあ」

 というのである。

 「あのとき」というのは、かつて牛窓に存在した錦のように美しい海「錦海湾」が、「東洋一の塩田」を作るため、埋め立てられたときのことだ。 

 1956年、当時小学生だった柏木の母は、湾の入り口を全長1800メートルもの堤防で堰き止めて干拓する様子を、友達と一緒に見物したのだという。

埋め立てられた錦海湾 © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 Attribution, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29432293

 面積500ヘクタール、東京ディズニーランド10個分もの広大な海を埋め立てる計画が持ち上がったとき、当然、地元では反対の声も上がったという。母いわく、漁師だった母の父親も反対した人の一人だ。魚の豊かな産卵場となっている錦海湾を埋め立ててしまったら、魚がいなくなってしまう。そう、母の父は主張したそうだ。

 しかし地元では、埋め立てを受け入れることを前提に、受け取る補償金の金額ばかりが主な議題になっていたようだ。結局埋め立ては許可され、錦海湾は塩田になった。

 だが、塩はすぐに生産過剰となった。その上、イオン交換法による製塩への転換が進んで、塩田は急速に時代遅れのものとなる。「東洋一の塩田」は1970年、操業から10年足らずで閉鎖されてしまった。跡地は塩を多く含むため田畑には適さず、産業廃棄物の最終処分場となった。金や銀に輝く錦のように美しい海の、悲しい末路である。

 故郷の変貌ぶりは、60年以上も前に起きた「あのとき」に起因していた。「あのとき」こそが、そこを越えると、どんなに努力しても後戻りできない地点「ポイント・オブ・ノーリターン」であった。

 そう、母は感じたのだと思う。

 無論、漁業が成り立たなくなった理由にはいろいろあるのだろうが、錦海湾の埋め立てがその重要な要因の一つであろうことは、たぶん間違いないように思う。

 そういえば、妻と結婚して間もない頃、柏木の親戚たちと一緒に牛窓の高台にあるオリーブ園を訪れたことがあった。そのとき下界の景色を見下ろしながら、親戚の誰かからこう言われたのだ。

 「想田さん、あそこからあそこまでの辺りはなあ、もとは海だったんよ」

 それがあまりに広大な地域だったので、心底驚いた記憶がある。いったい何という恐ろしい自然破壊がなされたのだろう。しばらく言葉を失った。いま思えば、あれが埋め立てられた錦海湾だった。

 錦海湾に限らず、似たようなことが近代以降の世界で、そして日本全国で起きてきたのだと思う。狭い日本列島に50基以上の原発が建てられたのも、まさに同じような経緯と理由だったのではなかったか。

 韓国の全州国際映画祭での『港町』の上映を終えた後、僕は関西国際空港に降り立った。

 「そういえばこの空港も、広大な海を埋め立てて作られたんだよなあ……ということは、この空港を使う僕は埋め立ての受益者であり、共犯者だ」

 そう、複雑な思いにかられながら梅田行きのリムジンバスに乗った。

 バスは海岸線沿いの高速道路「阪神高速4号湾岸線」をひたすら走る。車窓から外を眺めていると、存在するほぼすべての海岸線がコンクリートで塗り固められ、港や工場、倉庫、道路などになっていることがわかる。

 大阪の中心部に近い海なのだから、当たり前といえば当たり前だ。だが、この広大な土地が、かつては土や砂や岩に覆われた自然の海岸線であったことを想像すると、人間が自然に対してなしてきた罪の巨大さに、改めて愕然とせざるをえなかった。

 僕が明確に意識していなかっただけで、この国の、いや、人類のポイント・オブ・ノーリターンは、とうの昔に過ぎていたのではないか。

 そんな気がしてならないのである。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。