特別番外編:『沖縄スパイ戦史』マップ

映画『沖縄スパイ戦史』関連地を訪ねてみたい方々へ

 沖縄戦を学ぶ旅行手引書は数多く手に入りますが、北部の戦争、とりわけ護郷隊についてはその足跡を辿るヒントになるものもほぼないので、即席ですが、映画『沖縄スパイ戦史』にも出ているリョーコー(良光)さんが植えた少年兵の桜を見に行くお花見に合わせ、映画ロケ地マップのようなものを作りました。波照間や石垣も作りたいところですが、今回は沖縄本島のみです。ご了承ください。


座喜味城址那覇から1時間

 読谷村の座喜味城址はポピュラーな観光地なので誰でも到達できます。城壁に登ってパノラマを楽しむ場所ですが、1945年4月1日、リョーコー二等兵はここから米軍の艦隊に埋め尽くされた西海岸と彼らの上陸の様子を眺めました。恩納岳の第二護郷隊本部から上官とともに座喜味まで歩いてきたその距離にまず驚くし、これでは勝ち目がないと絶句したこの日から彼の戦争は始まったという絶望と恐怖も共に感じたい場所です。

赤橋 (護郷隊が壊した橋)座喜味から20分

 58号を南から北上してくると、まず南恩納バイパスに入って通り抜け、しばらく左手に海を見ながら元道を走って次に恩納バイパスに入るのですが、壊れたまま残っている赤橋はその十字路の下にあるので、恩納バイパス直前をとりあえず左折して58号線本線の方に行き、細い道を右折して高架下に回ると、沖縄戦で爆破されたまま朽ち果てたコンクリート製の橋が残っているのが眺められます。

 中北部の橋の爆破は、ほとんど護郷隊の役割だったと言われています。そのために北部に避難する住民は、リヤカーに載せていた食料も弱ったお年寄りも置いて北上する羽目になりました。北部に避難した住民は、大量の餓死、栄養失調からくるマラリアや赤痢などで数万人の死者を出しています。しかし、映画にも米軍撮影の映像があったように、米軍は数時間で橋をかけて戦車を通すことができ、困ったのは住民だけだったのです。

 そして今の自衛隊法の中にも、有事の際には交通遮断、住民移動、橋梁の通行制限などの言葉があり、過去の話とばかりは言い切れません。

第二護郷隊の碑赤橋から15分

 さらに58号を北上し、みゆきハマバルリゾートの真向かいにある第二護郷隊の碑の表示を見落とさずに右折してください。川沿いを進んですぐに右手、山の方に登る急な坂があります。100メートルほどで、今度は左に上がっていく道が見つかるでしょう。そこに第二護郷隊の慰霊碑と、第44飛行場大隊の慰霊碑があります。映画に登場した高江洲義英くん始め69人の犠牲者の名前が刻印されています。

 護郷隊から話が逸れるようですが、この第44飛行場大隊は、私が沖縄戦で最も気の毒な部隊だと思っている方々で、残酷な配置の中でほぼ全滅に近い憂き目にあった、特設第一連隊の一部です。この連隊は、読谷の北飛行場、嘉手納の中飛行場の建設や飛行支援が任務だった部隊のため、武器や訓練は全く不十分だったにもかかわらず、米軍上陸を迎え撃つ地域に置き去りにされたもので、夜間の切り込み以外、作戦とてない中で嘉手納、読谷、倉敷ダムから石川岳にかけておびただしい死体の山を築いていきました。米軍の追撃を受けながら北部の遊撃戦に参加すべく、第二護郷隊が布陣を敷いている石川岳に辿り着いたのは、およそ2500人のうち数百人で、岩波隊長は戦意のある者には食料を分け与えて配下に入れ、第二護郷隊とともにゲリラ戦を闘いました。

 この慰霊碑のある場所は、戦後付近の戦死者の遺骨を集めて置いてあった場所で、収まりきらないほどの骨塚のようになっていたところを、きちんと供養し慰霊の場にしたものです。第一連隊は生存者が少ないため、記録もあまりない上に追悼施設の建設もままならない状況にあったため、戦後、岩波隊長に共に供養塔を設置したいと申し出があったところ、岩波さんは快諾したということでした。壮絶な戦闘になった石川岳、三角山、眼鏡山の戦いには少年兵だけでなく、大鹿隊、田中隊といった、この第一連隊の正規兵たちも加わり激戦を展開しました。恩納岳本部の近くにあった野戦病院でリョーコーさんが面倒を見たり埋葬したりした中には、この気の毒な陸軍兵士たちもいたのです。

第一護郷隊の碑第二護郷隊の碑から25分

 1944年10月中旬。ここに護郷隊に召集された15歳から17歳の北部の少年たちが集まってきました。小さな体にダブダブの軍服を着て入隊式をしたその場所は、今の名護小学校のグラウンドでした。

 慰霊碑が安置されている丘に登る階段は、校門の右手にあります。この「少年護郷隊」と刻印された文字は村上治夫隊長の直筆で、石も大阪から運び込んだそうです。戦後11年経ってようやく再び沖縄の土を踏むことができたとき、当時は自分でヒノキの木から削りだした角柱に少年護郷隊の碑と墨で書いたものを持参して、護郷隊が誕生したこの場所に建てたのが始まりです。

 毎年、慰霊の日には午後3時からお経が始まり、護郷隊の慰霊祭が行われます。2006年に亡くなった村上さんは、その前年まで毎年慰霊祭に参加。最後は車椅子でこの碑の前に来て、子どものようにわんわん泣いていたというのもこの場所です。慰霊祭に参加する元少年兵の方々は年々減っていて、ここ数年は10人を切り、その子や孫の世代の方々が線香や花をもって毎年手を合わせています。  

第一護郷隊本部のあったフンガー滝第二護郷隊の碑から30分


 名護市真喜屋集落から山に登っていくと、表示もないのでわかりにくいですが車が2、3台止められるスペースがあり、入り口にロープが張られている山道があります。そこから秘境の風情のある亜熱帯の森を歩くこと10分ほどで、こぢんまりとした美しい滝に辿り着きます。

 この滝の中腹と上流に第一護郷隊の本部が置かれていました。この辺りで一番高く堂々とした居住まいの多野岳の山頂から少し下、7、8合目あたりの高さですが、谷になっていて発見されにくい場所でした。沖縄本島北部にはター滝やタナガーグムイなど、休日には家族連れで賑わう滝がいくつかありますが、ここは県民にはあまりなじみがなく、米兵の家族が水浴びしている姿をよく見かけます。あまり人には教えたくない、穴場中の穴場です 。

リョーコー二等兵が渡った塩屋湾と桜がある大宜味村上原

 映画の主人公でもあるリョーコー二等兵こと瑞慶山良光さんは、大宜味村の中でも山深い山村集落である上原(ウイバル)で生まれました。16歳で入隊したリョーコーさん、名護以北の山を守るのかと思いきや、配置替えがあって中部に近い恩納岳を根拠地にしながら読谷、石川、金武などでゲリラ戦にあたります。当時の少年たちは薪を拾うために地域の山々は庭のようにして歩き回っていたのですが、右も左も知らない山で闘うのは心細かったと言います。このガイドにある通りに読谷から北上してくると、彼らが徒歩で山々を駆け抜けたその距離の規模の大きさに驚かされます。

 顎を負傷して食事ができなくなり、骨と皮になったリョーコー二等兵が、最後に仲間に置いていかれて草むらで泣いていたというのは、塩屋湾南側の白浜集落です。そして空き家にあった竹の束に体を預けて、泳いだというより流されるようにして対岸の大宜味村にたどり着いたわけですが、塩屋湾には米軍がひしめいていて、夜通しサーチライトを照らしている中、仲間の少年らもとてもではないが重傷の友を抱えて泳ぐことはできなかったでしょう。この美しい塩屋湾を見て、手足をバタつかせることもできないほど衰弱した少年兵が、必死に故郷を目指して海を渡る姿を想像することができるでしょうか。

 大宜味小中学校を越えて、進行方向右手のバス停「安根」から100mほど行くと、右に登っていく道があります。上原公民館までは、そのまま真っ直ぐ進むだけですが、一度だけ突き当たりを右に行く場所があります。すると間も無く右手に公民館があるので、そこで車を降りてください。この辺りは野生のカンヒザクラもチラホラあって、静かな美しい小さな山村です。すぐ隣にリョーコーさんの手造りの家と、その裏山に少年兵の桜の木が植えてあります。イベントの日以外は、リョーコーさんに一声かけてから見せて頂いてください。山なので滑ります。泥がついてもいい靴で来てください。公民館から山までは1分です。

 去年、映画が公開されて、2019年の開花時期には多くの人が来てくれるだろうと考えて、彼は山の木を伐採して八重岳と羽地内海まで見渡せる展望スペースを作っていました。もう完成したはずです。第二護郷隊のリョーコーさんですが、八重岳で戦った第一護郷隊のことも忘れないでほしいというわけです。

 「僕はね、三上さん。この桜と死んだ戦友と虫たちに囲まれてね、この山に一人でいてもね、何も寂しくはないんですよ」

 「僕は、亡くなった人とのお付き合いは上手だけどね、生きている人とはあまり上手じゃないんです。ですがね、監督のおかげで、生きた人がよくお見えになるようになってね」

 あの戦争の世界からなかなか抜け出すことができず、もがき続けた半生。そして、教会と出会って心が穏やかになり、それを伝える役割があると胸を張るようになったリョーコーさんと、彼を支えた桜たち。ここが、護郷隊の悲話と平和について思いを巡らせる場所になってほしいというリョーコーさんの願いは、今の私の願いでもあります。

ヨネちゃんの家
武下中尉のアジト
武下を祀る南海の塔

 海軍のために働き、秘密を知ってしまったためにスパイリストに載った18才の少女、ヨネちゃんは、屋我地島の塩田を営む家に生まれました。目の前が海で、毎朝、塩田の仕事をしてから学校に行っていたそうです。その海の対岸は今帰仁で、外海と羽地内海をつなぐ通路になっていて、魚雷艇や特殊潜航艇などを隠すにはうってつけの場所でした。対岸の運天港から今のワルミ大橋にかけて海軍の秘匿基地が造られ、屋我地島の女性たちは筏のようなもので対岸に渡され、毎日陣地構築や雑用を手伝っていました。

 この水路に入ってきた3隻の集積船が米軍の空爆で木っ端微塵になった時、彼女はその筏から泳げないのに飛び込んで難を逃れましたが、あっという間に船の残骸と兵士の手足で水路が埋まってしまったので、ガチガチ震えながら家に戻ったそうです。

 「早く陸に上がれ!」と事態の収拾に当たっていたのが武下一中尉で、大分出身23歳、今の九州大学を繰り上げて卒業した優秀な海軍将校でした。のちに「ヨネちゃんとスミちゃんを殺す奴は、オレが殺す」と言って、ヨネちゃんをスパイリストから外すよう命じていたということが同僚の話から伝えられましたが、彼自身がスパイ容疑で住民を殺すいわゆるスパイ虐殺の下手人であったことが、彼の日記からわかっています。

 天底小学校に駐屯していた海軍には、特殊潜航艇の鶴田隊と魚雷艇隊の白石隊、工兵部隊などがいて、沖縄出身の水兵さんも、少年水兵もいました。しかし米軍は上陸を前に徹底的に海軍基地を叩き、すべての艇を失った海軍は陸に上がって戦うしかなくなり、八重岳にいた宇土部隊配下に入りますが、陸戦の経験もなく武器も不十分で不本意な戦いを強いられ多くの犠牲を出しました。

 海軍部隊も宇土部隊とともに護郷隊のいる多野岳や恩納岳まで転戦して遊撃戦に加わりしますが、やがて本部半島に戻って山にこもる敗残兵になっていきました。白石隊長は自らスパイリストを手に、照屋校長を殺したこと、次なるターゲットを探していることを今帰仁の住民に話したという証言もありますが、その配下にいた武下中尉も、部隊に出入りしていた商人で動向や地形に詳しかった太田守徳さんを殺していますし、白石隊は住民にとって恐怖の対象になっていきました。

 映画に出てきた渡辺大尉は同じ海軍でも潜航艇の鶴田隊ですが、複数の証言から、少なくとも6人の住民をスパイ容疑で惨殺しています。今、この渡辺大尉の消息を追っていますが、戦死した記録と行方不明という記録があり、本土に生きて帰っている可能性があるとみています。

 嵐山展望台に登ると、そんな沖縄スパイ戦史の舞台が一望できます。運天港、屋我地島、激戦地になった八重岳、乙羽岳、渡辺大尉が潜んでいた嘉津宇岳、武下が米軍に殺された嵐山。そして護郷隊がいた名護岳、多野岳。

 最後に、最近発見した「南海の塔」についてご案内します。湧川の松本ストア南側の交差点に案内板が立っていますが、海側に折れてタンクのすぐ手前を左に進むと、大きな墓の横から狭い階段を上がって慰霊碑にたどり着きます。いわゆる日本軍の慰霊碑ですので、そんなものを紹介すると沖縄戦の美化だと敬遠される向きもありますが、そんな単純な構図で蓋をして仕舞えば見えてこないものもあると最近私は思います。実は、ここに祀られているのは通称「武下観音」、あの武下一中尉なのです。

 ハンセン病患者の施設である愛楽園から米を巻き上げたり、沖縄の人間を殺したり、という事実は、彼の日記からも周りの証言からもわかっているのですが、海軍や住民の表現の中に出てくる武下像は全く別で、礼儀正しく思いやりがあって、民謡に合わせて沖縄舞踊もどきを披露したり、屈託のない好青年だったこと。文学青年で、ヨネちゃんと弟さんが食べ物を持ってアジトを訪ねてきた時にはお礼に双眼鏡と日本刀を渡し、とても喜んでくれたことなど、人間的な魅力のある若者だったということです。

 一人息子を失った父の秀吉さんは大変嘆き悲しんだけれども、遺骨を丁寧に集めてくれた今帰仁村湧川の青年団に感激して、軍民問わずにほかの戦死者も祀る慰霊塔を私費で建立したいと申し出て、南海の塔を建立したということです。そして一年も欠かすことなく大分県から慰霊祭に訪れ、湧川の人たちと深く交流を保ち、地元の小学校に200冊の本を送って作られた武下文庫は、今湧川の公民館にまだそのまま残っています。

 ヨネちゃんは、武下さんはハンサムだったと話していましたが、私もようやく武下さんの写真にもたどり着き、なるほど背も高く切れ長の目の美青年だと納得しました。そのほか、日記とともにある女性の写真を持っていたことなど、切ない話も明らかになるにつけ、残酷な日本兵というレッテルで見ていた初期には感じることがなかった親近感を持つと同時に、いっそ嫌な奴が残酷なことをしたのだという片付けやすい話であった方が楽だったのに、という痛みも持つようになりました。

 20代前半でちゃんと恋愛する間も無く、海の男として死ぬことも叶わず、慣れない陸戦で飢えと戦い、住民を困らせる敗残兵として米軍に狙い撃ちされて死んでいった青年将校。

 前年の秋、第32軍の参謀が運天港の視察に来た際に、武下中尉はその参謀を乗せて颯爽と魚雷艇を走らせ羽地内海を疾走しました。その参謀は船酔いしながら武下らの雄姿をたたえ、海軍でなくてよかった、と苦笑したと手記に書いています。

 去年の今頃、ヨネちゃんは撮影でここに立ち、ワルミ大橋の上から海に向かって花束を投げ、なんどもつぶやくようにこう言いました。

 「もう、ここに来るのは最後になると思いますよ。ちゃんと覚えていますよ。安らかに眠ってくださいね」

 彼女の脳裏に去来していたのはきっと戦中の悲惨な光景だけではなく、勝利を信じてこの水路で船の整備をし、陣地作りに精を出していた頃の日に焼けた水兵たち。風をきって出港していく若者たちの姿だったのかもしれません。


三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)