第70回:「墓じまい」ということ(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

久しぶりにふるさとへ

 数日間、ある用事でふるさと秋田へ帰って来た。ぼくくらいの年齢になると、家族の身辺で、いろいろと出来事が重なる。今回は、あまり嬉しくない用事だったけれど…。
 それはともかく、久しぶりの帰郷だったから、まあついでと言っちゃなんだけど、墓参りに行った。父は2001年、母は2011年に亡くなった。ふたりともまあまあの長生きだったし、かなり仲のいい夫婦でもあったから、墓参りも気分がいい。
 実家から車で30分ほどの曹洞宗の寺院(曹渓寺)が、我が家の先祖たちが瞑る場所だ。寺のすぐそばを秋田新幹線が走る。こまち号を見ながら、お墓に花と線香を手向ける。春まだ浅い東北の風。

 墓に手を合わせながら、前回の墓参りの際、寺のご住職としばらく話をしたことを思い出した。ご住職はぼくよりは少し若いが、淋しそうにこんな話をしてくれたのだった。

 「最近は、お参りしていただく人も、かなり少なくなりましてねえ」
 「やっぱり、過疎化の影響ですか?」
 「そうですね。『墓じまい』という言葉をご存知ですか?」
 「墓じまい…? どういうことなんですか?」
 「もう何年もどなたもお参りに来られない墓が増えまして…。そういうお墓の身寄りの方に連絡を差し上げるんです。そうすると、両親も亡くなって久しいし、もう実家もなくなってしまったので、ふるさとへ帰ることもない。だから、もうそこの墓は始末してしまいたい、というわけなんです。でもまだ連絡の取れる方はいいんです。まったく連絡の取れない方も、最近は多いですし」
 「それで、そのお墓はどうなるんですか?」
 「私がこの寺でお勤めをしている限りはお守りしようと思うのですが、それもいつまで続くやら…。結局は、そのお墓は廃棄してしまうしかなくなるでしょうねえ」

 つまり、お墓をお守りする係累の方がいなくなれば、やがてそのお墓は廃棄されることになる。それに伴う手続きがどういうものであるかまでは、ぼくも尋ねなかったし、ご住職も言葉を濁した。

我が家の墓はどうなるか……

 ふと、我が家(鈴木)の墓はどうなるのだろう、と考えた。
 現在、この墓を守っていてくれるのはぼくの姉である。秋田に暮らしているのが、我が4人兄姉弟のうち、姉だけだからだ。だが、彼女は「鈴木」ではない。嫁した先の姓を、離婚したのちも名乗っている。姉の娘は3人いるが、3人とも結婚して姓は変わった。要するに、姉の系譜では「鈴木」は途切れているわけだ。
 兄は2年前に亡くなった。彼は徹底した無宗教派だったから、自分の墓も要らないということだった。だからむろんのこと、ふるさとの鈴木家の墓には入っていない。それも自由だ。
 弟も秋田を離れてもう長い。彼は敬虔なクリスチャンだから、多分、仏教の寺の墓に入るつもりはない。
 とすれば残るのはぼくだけなのだが、ぼくにしたってふるさとにもう居場所はない。もし、姉が墓を守れなくなったら、この墓はいったいどうなるのだろうか?
 ぼくが生きているうちは、なんとか何年かに一度くらいの墓参りは可能だろう。しかし、ぼくにそれができなくなったらどうなるのか。ぼくの年齢からすれば、それももうそんな遠い話じゃない。ぼくの娘ふたりだって、もう「鈴木」ではない。

荒れた墓を見ながら…

 ぼくは、霊園散歩が好きだ。いま住んでいる街にある多磨霊園(府中市、小金井市)などは、ぼくの格好の散歩コースだ。
 若いころは、東京の多くの霊園(雑司ヶ谷霊園、谷中霊園、染井霊園、小平霊園など)に、よく散歩に出かけたものだ。
 その散歩で気になるのは、荒れ果てて草ぼうぼうの墓だ。ずいぶん長い間、放置されたままなのだろう、墓碑銘さえ読み取れぬほどの荒れた墓を、けっこう見かけるのだ。
 とくに、ぼくがよく行く多磨霊園の「外人墓地」などは、異郷で倒れた人たちの墓の荒れようが身につまされる。
 人たちが最期に行き着く場所であるお墓は、ぼくみたいな宗教に無関心な者にも、妙に考え込ませるところなのだ…。

 今回は、まったく個人的な文章になってしまった。

 そんな個人の想いをぶち破るように、選挙カーの大きな連呼が、ぼくの小さな仕事部屋にまで響いてくる。
 ぼくが応援している彼や彼女たちが、ぜひ当選してくれるように。そして、いまの息苦しい世の中に、少しでさわやかな風を吹き込んでくれることを願いながら、今回はここまで。

わがふるさとのお墓です。墓だけはリッパなのですが、寂しそうです

帰省の途中で泊まったホテル、ウミネコが餌を求めて窓辺まで……

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。