第79回:れいわ新選組は野良猫の集団である(想田和弘)

 参議院選挙で山本太郎率いる「れいわ新選組」が2議席を獲得し、政党要件を満たすことになった。しかし比例の「特別枠」に重度障害者の舩後靖彦氏と木村英子氏を入れて優先的に当選させたため、99万票を獲得して比例最多得票を記録した山本太郎党首は落選した。これほど常識はずれのカッコイイ落選の仕方が、かつてあったであろうか。

 選挙期間中は完全に無視していたテレビ局も、投票を締め切った後の「開票速報」では「参院選の台風の目」などと持ち上げて山本太郎を特集した。台風だと思ったのなら、選挙期間中から報道しろっつーの。台風が過ぎてから「報道できませんでしたけど、実は台風が来てたんです」なんて報道しても、アリバイに過ぎないのである。

 いずれにせよ、れいわ新選組は、山本太郎が選挙間際に急ごしらえで作った集団であるにもかかわらず、なぜ「台風の目」と称されるまでに人々の注目と共感を集めたのか。

 この点について、「ああ、なるほど!」と僕が最も膝を打った説。それは、候補者の一人である安冨歩さんが、れいわ現象を内側から分析して放った言葉である。

「れいわ新選組は、左派ポピュリスト政党、などではない。それはそもそも『政党』ではなく、『左派』でもなく、『ポピュリスト』でもない。れいわ新選組は、無縁者の集まりであり、その無縁のエネルギーが、ガチガチに固まって人間を閉塞させている有縁の世界に、風穴を開けつつある。人々の支持を集めているのは、その風穴から、空気が吹き込んでおり、息ができるようになったからだ、と私は考えている」
内側から見た「れいわ新選組」

 「無縁者」とは、日本中世史家の網野善彦が使った概念で、主従関係や親族関係といった世俗的支配(有縁)から自由な人間を意味する。実際、日本の中世では道、市場、浜辺、野原などが「無縁所」として機能し、そこには漂泊の職人や芸能民、博打打ち、巫女などの無縁者が集ったという。彼らは人間関係=縁が「腐れ縁」になったとき、それを断ち切ることで自由になり、中世の社会で重要な役割を果たしたらしい。

 れいわ新選組は、たしかに「現代の無縁者」の集まりである。
 
 党首の山本太郎自身、新選組を「空気を読まない集団」だと評している。翻訳すれば、「有縁のルールに縛られない集団」という意味であろう。

 思えば、山本太郎もかつては芸能界という有縁の世界で活躍していた人だ。ところが福島第一原発事故が起きた際、「脱原発」の声を挙げたことによって、仕事を干されてしまった。要は縁が腐れ縁になったわけだ。

 そのとき山本太郎は、自分の信条を曲げて腐れ縁にとどまるよりも、それを断ち切って無縁者になることを選んだ。そして政治家になったのである。

 彼が選んだ他の候補者たちも、重度障害者であったり、女性装であったり、元東電社員であったり、環境運動家であったり、ホームレスを経験した派遣労働者であったり、コンビニ経営から弾かれた人であったり、創価学会員でありながら公明党に反旗を翻す人であったりすることで、有縁の世界とは距離を置き、独自の論理と世界観を確立した人々である。彼らは腐れ縁を断ち切る「無縁の原理」を体現しているわけだ。

 そんな彼らの存在は、ガチガチに固められた有縁の世界で窒息させられそうになっている人々にとっては、「風穴」そのものである。「救い」と言ってもいいだろう。彼らを見ているだけで、なぜか元気が湧いてくるのだ。

 それもそのはず、現代日本の有縁の世界は、あまりにも腐れ縁に満ちている。パワハラやセクハラ、過労死やワーキングプアの問題などは、腐れ縁の典型であろう。れいわ新選組の候補者のメンツには、そうした腐れ縁を「しかたがない」と諦めて受け入れるのではなく、正面から打破するパワーを感じられるのである。

 実際、「消費税廃止」「奨学金チャラ」「最低賃金1500円」などという山本太郎の政策は、有縁の世界に縛られ有縁の論理に洗脳された「常識的な政治家」には、そもそも思いつかないような発想である。いや、思いついたとしても「周りから失笑される」との危惧が先に立って、口をつぐんでしまうであろう。

 ところが空気を読まない無縁者の山本太郎は、それらの政策を堂々と掲げてしまった。のみならず、経済政策を専門家とともに勉強して、他人を納得させられるような理論武装をしてしまった。まさに有能な無縁者だからこそできる芸当だ。

 れいわを「無縁者の集団」ととらえると、彼らの活動に対して冷笑的な人たちが、安倍政権側だけでなく、野党側にも存在することの理由がよく分かる。野党の側にも「腐れ縁」は存在するからだ。そうした腐れ縁を「組織のため」「立場上」と称して我慢している人からすれば、空気を読まない自由奔放な無縁者は脅威であり嫉妬の的であり、苛つく存在なのだろう。彼らの苛立ちは、イデオロギーとは無関係なのである。

 しかし右も左も苛立たせるれいわ新選組という存在は、この国に絶対に必要だ。なにしろ日本社会は、あまりに有縁の世界、「しがらみ」や「組織の論理」が強すぎて、とにかく息苦しい。組織の論理を振りかざす人自身も組織の論理に抑圧されていて、みんなが恐縮しながら生きていて、みんなが不幸になっているようにみえるのだ。

 山本太郎は参議院選挙中の街頭演説で、猫ちゃんTシャツを着ながらこんな話をした。

 「本当に猫様に救われましたよ。死にたくなるような世の中で、ただ存在しているだけで、ただ存在しているだけでいいんだって教えてくれたのは、猫ちゃんなんですよ。この中に猫苦手な人もいると思うんですけどね、世界で一番自分が偉いと思ってないんですけど、一番偉そうにしてんですよ。ただ食べて寝てるだけなのに! 素晴らしい存在ですね。だからみんなが猫みたいに生きられる社会を目指したいんですよね。空気なんて読まない。自分が気が向けばお相手したりもしますが、そうじゃないときには自分の好きな通りにさせてもらう。自分らしく生きるってのは、猫から学ばなければいけないと思うんですよ!」

 たしかに猫は、究極の無縁者ではなかったか。

 山本太郎は「政界の野良犬」というよりも、「政界の野良猫」だったのである。そしてれいわ新選組の集会は、野良猫の集会なのである。にゃー!

想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。