第493回:「特攻隊や戦死者をどう思うか」という検定試験・第74回。の巻(雨宮処凛)

 「『特攻で死んだ人に失礼ではないか』『彼らのおかげで今の日本がある』などと言ってくる人がいます。どうして、そんな軽々なことを言えるのか。特攻を命じた指揮官たちと変わりませんよ」

 終戦の日、Twitterのタイムラインに流れてきた言葉にドキッとした。保阪正康氏の2014年のインタビューから抜粋された言葉である。

 彼らのおかげで今の日本がある。彼らを貶めるな。まさに、私自身が思っていたことだったからだ。そんなことを思っていたのはもう20年以上前。20代前半、右翼団体に2年間入っていた頃のことだ。1997〜99年頃の話である。

 右翼団体に入った翌年の98年、小林よしのり氏の『戦争論』が発売された。特攻隊を勇敢に描くその漫画を、私も、右翼団体のメンバーの多くも貪るように読んでいた。それだけじゃない。『戦争論』発売後には、私のいた右翼団体に若者たちが大挙して入ってきた。多くが『戦争論』を読んでいた。新しく入ってきたほとんどが20代前半の中卒、高卒のフリーター。当時の私も高卒フリーターの一人で、私たちは、憲法よりも何よりも、とにかくずーっと特攻隊の話をしていた。

 97年と言えば、山一證券や拓銀が破綻し、就職氷河期が深刻化していた時期である。98年には年間自殺者が3万人を突破。それは2011年まで続くこととなった。不穏で不安定な時代の幕開けに、20代・地方出身の中卒、高卒フリーターという「不況の影響を一番最初に受ける層」の一部が右翼団体に大挙して入会したということは、注目に値する現象だと改めて思う。

 みんな貧しく、先のことなんてまったく見えなかった。学生時代、「頑張れば報われる」と言われて育ってきたわりには「一部の人しか報われなくなりつつある社会」の中で、自分たちは貧乏くじをひいたんだな、という感覚は濃厚に共有されていた。それでもまだこの国には「貧困」なんて言葉はなくて、なんとなく「豊かな日本で生きづらい私たち」というストーリーが共有されていた。「自分探し」なんて言葉がちょっと前に流行って、少し上の世代にはバックパッカーになって世界を旅する人なんかがいたけれど、どんどんフリーターが稼げなくなっていく中で同世代にはそんな人はいなかった。就職したくないわけじゃないけど、社会からは巧妙に疎外されている感じがした。でも、正社員になることを「懲役40年」と揶揄するくらいのバブルの残りかすはまだあって、「サラリーマンなんかなりたくねぇ」的な言葉がまだギリギリ失笑されない感じがあったあの頃。

 そんな頃、単純労働力としてしか必要とされなかった私たちは、「国家に命がけで必要とされた特攻隊」に憧れ、「マトモな命の使い道」がない戦後53年の「うだるような平和」にうんざりしつつ、何かを忘れるように特攻隊の話ばかりをした。自分のしょぼい日常を誤魔化すように。そんな話をしていれば、フリーターでしかない私たちは一瞬で「国士」の気分になれたから。

 もうひとつ、重要なことは当時20歳そこそこだった私たちと、特攻隊は同世代だということだった。

 当時、靖国神社で買った「英霊の言乃葉」を読んでは、「彼らと比べて自分と来たら何をやっているのだろう」とみんなで語り合った。「英霊の言乃葉」だけでなく、私たちは特攻隊の本をたくさん買った。そんな本に掲載された写真に写る特攻隊は若く、顔にまだあどけなさが残る者も多くいた。それらの事実がいつも、「自分は何をやっているのか」という焦りに火をつけるのだった。彼らの若さと私たちの若さは、戦争から50年以上経ったこの国で化学変化を起こしていた。右翼団体に入る前、私の周りには恋愛と買い物にしか興味がないような人しかいなかった。失業を前提とした不安定雇用の日々の中、私はいつも「生きる意味」に飢えていた。そんな私や右翼団体のメンバーたちにとって、「国のために身を捨てた特攻隊」は、「モラトリアム真っ只中」の自分たちに「喝を入れてくれる存在」だった。

 ……書きながら、ほんとに情けなくなってきた。だけどそれが当時の偽らざる心境だ。思えば、恋愛と買い物にしか興味がないような友人たちは、右翼にも宗教にもひっかからずにそこそこ要領よく生きていた。しかし、私も、そして右翼団体のメンバーたちも、不器用で、いちいち「生きる意味」なんかに躓くタイプだったのである。そんな若者たちにとって特攻隊ほど明確な「回答」はなかった。

 さて、特攻隊を語ることは、別の「癒し効果」ももたらした。それは「自分は今、貧乏で最底辺で惨めだけど、戦時中よりはマシだ」と思えたことだ。自分をかろうじて「幸せ」と思うには、自爆攻撃を強いられた若者たちと比較しなければならなかったなんて当時の自分の不遇さと愚かさに頭を抱えたくなるが、そんなふうに私は特攻隊を「利用」していた。そして当時から、「利用」しているという自覚はあった。だけど、どんな悲劇を利用しようとも、「国士」でいることの方が「フリーターとしてしか生きていない」日々よりはずっと楽だったのだ。

 当時、特攻隊を戦争の犠牲者、被害者と口にする人々がいることは知っていた。

 私はその主張にも賛同していた。当時の私にとって、それはコインの裏表のようなものだったからだ。彼らの言う通り、かわいそうな犠牲者だろう。しかし、自分はあえてそのスタンスはとらない、という立ち位置。なぜなら、世の中の大多数の人たちは特攻隊や戦死者のことなんて微塵も考えず、右翼と左翼だけが頑張って考えて頑張って喧嘩しているというような構図に見えていたからである。少なくとも、戦争について考えている時点でリスペクトすべき存在。そんな感覚が自分の中にあった。このように、右翼である自分やその周りは左翼と呼ばれる人々にどこかしらシンパシーを抱いていたので、左翼もそうだとばかり思っていた。が、のちに右翼は左翼に蛇蝎のごとく嫌われていることを知り、ちょっと衝撃だった。

 ちなみに、戦死者について考えたり意見を述べたりするだけで「右翼」か「左翼」にすかさず分類され、それが「若い女」だったりすると死ぬほどバカにされたりする窮屈さの中で、右翼に入ってしまうことは、唯一、雑音から逃れられる方法でもあった。私は、どこかでちゃんと戦争について考えたかったのだ。だけど当時も今も、どこにも分類されずに戦争について考えることはなんと難しいことだろう。

 さて、それではなぜ私は特攻隊を「犠牲者」「被害者」と捉えなかったのか。それは私がのちに反貧困運動を始めた際、多くのフリーターが「自分たちは社会の犠牲者・被害者なんかじゃない」「だから運動なんてしない」と反発した気分に似ている気がする。自分自身が弱者で犠牲者っぽい社会の底辺だとわかっていたからこそ、どうしても特攻隊を犠牲者・被害者とは思えなかった。思いたくなかった。

 そうして私は2年ほど右翼団体にいたものの、99年、やめた。自分が何かとてつもなくいやな依存の仕方をしていることに耐えられなくなったからである。

 団体をやめたあと、私は奇妙な光景を目にするようになる。

 それは靖国神社に若者たちが参拝する光景だったり、特攻隊の基地があった知覧で、「士気を高めるため」の企業研修が行われている光景だったりした。

 靖国に参拝する若者は、テレビのインタビューに答えて「自分は就職に失敗したけど、特攻で死んだ人と比べたらそんなのなんてことないって言われた気がした」と過去の私のようなことを言っていた。企業研修で知覧に行ったある人は、新聞の取材に答えて「特攻隊の人たちがライバル会社にいたら勝てる気がしないですよね」と口にしていた。

 自己啓発ツールであり、「死ぬまで働く」カンフル剤であり、今の自分はまだ幸せだと確認させてくれる「癒し」としての特攻隊。

 今の私は、そういうものがとても不気味だと思う。ものすごく自分勝手な利用だと思う。冒涜だとも思う。

 だけど、10年くらい前まで、8月が来ると「特攻隊に喝を入れられた」という「新患」が毎年のように電話をかけてくるのだった。

 「私/俺、何やってんだろ」「目が覚めた」。彼ら彼女らは似たような台詞を興奮気味に口にすると、「あなたが前右翼に入ってたってこと、なんでって思ってたけど、今すべてわかった。彼らのおかげで今の日本はある。彼らが今の私たちを見たらなんと言うだろう。彼らに恥じないようにしなくては」などと電話の向こうでまくしたてるのだった。

 「英霊に申し訳ない」。思えば私も、右翼団体にいた頃はよく口にしていた。こんな利己的で、自分の欲望しか考えない日本人のために彼らは死んだのか、と。英霊が見たらどう思うか、と。だけど、その言い分ってやっぱり変だ。「死人に口なし」を利用して、なんだって言える。勝手に主語を「英霊」にすると、なんだって正当化できてどこまでも暴走できてしまう。そこに自分の責任などない、すべては英霊が「望んだこと」にしてしまえる。

 少し前、何かで読んだ言葉に、ガンと頭を殴られたような気がした。

 一字一句までは覚えていないが、特攻隊の死のおかげで今の日本がある、というようなストーリーは、彼らに死ぬことを命じた責任者たちが自分たちを正当化するためのものである、ということ。まさに保阪氏の指摘と同じ意味である。

 特攻隊の話ばかりしていたあの頃から、20年。今の私は40代で、彼らの若さに別の意味で打ちのめされる。もう私は、彼らの親世代だ。だからこそ、あの頃と見えている光景は違う。若い特攻隊を死に追いやった大人たちに、深い深い怒りを覚える。

 一方でこの20年、歴史修正主義は猛威を振るい、失われた20年という経済的停滞は、労働現場で「根拠のない精神論」を蔓延させる下地となった。

 74回目の終戦の夏、今年は私のもとに、「新患」からの電話はない。

 そのことに、ちょっと胸をなで下ろしている。

雨宮処凛
あまみや・かりん:1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)、『自己責任社会の歩き方 生きるに値する世界のために』(七つ森書館)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。