第93回:極秘だった岐阜の少年ゲリラ兵部隊~97歳老兵衝撃の告白~(三上智恵)

 2カ月前、岐阜に住む新聞記者の女性から電話が入った。彼女が取材している97歳の男性が、ゲリラ戦の教官として岐阜の少年たちを指導したと話しているという。しかも中野学校で訓練を受けたと言うが、資料も乏しくまとめ方に苦心していた矢先、『沖縄スパイ戦史』を見て、これだ! このことだったのか、と瞠目し、相談したいと連絡をくれたようだ。

 岐阜新聞の記者・大賀由貴子さんは、満州で起きた黒川開拓団の性接待の特集など硬派な戦争ものに取り組んできたまだ20代のホープで、すでに多くの資料にあたっていて私が協力できることは少なかったのだが、逆に私がお願いをした。その方にぜひ会ってみたい。岐阜の故郷の山河で本土に上陸したアメリカ軍を迎える覚悟で少年を指揮していたゲリラ戦のプロ。まさに護郷隊の村上治夫や岩波壽が今、目の前に甦ってくるような気持ちで、私は岐阜に飛んだ。

 野原正孝さん、97歳、大正11年1月生まれ。護郷隊の村上、岩波両隊長と同級生の終戦時23歳。そして率いた少年兵も14歳から17歳と同じ。彼自身は中野学校の名簿にこそ載っていないが、数カ月間がっつり中野学校の指導を受けている。中野学校は、本校のほかに二俣分校(現静岡県浜松市)があったことは知られているが、1945年に入って彼が特訓を受けたのは京都市の宇治分校。そのほかにも、本土決戦に備えてゲリラ戦指導者を急造・量産するために数カ月機能した「分校」の存在があったようだ。つまり野原さんは、実質的に中野学校仕込みのゲリラ戦指導者だったことも村上たちと同じ。大きく違う点は、野原さんは幼いころから自分が親しんだ野山で同じ地域の少年たちをゲリラにして戦うという、まさに指揮官の郷土を戦場にした作戦を子どもたちと共に準備していたということだ。

 もともと野原さんが所属していたのは、満州からテニアンに移って玉砕した部隊だったのだが、ひょんなことで運命が分かれた。ある日、人事係の准尉に呼び出されて行ってみると、野原さんの戸籍は今日で抹消する、といきなり告げられた。

野原「お前は今日限り国籍をはく奪します、転属せよ、と。その代わり外泊を三日間やると言われ喜んで外泊したんだけどね。あとから考えたらね、中野学校はみんなそうやてね。その陸軍中野学校の本校はそれこそ東大出とか素晴らしい頭の人たちで、英語もできなあかんし頭いい人だけど、ゲリラを造ろうと思って二俣分校を作って、二俣分校で足らんで宇治分校作ったんやもんね」

三上「宇治分校ってあったんですか?」

野原「うん。宇治分校って名前で、校歌も中野学校の校歌ですよ。♪赤き~心で 断じてなせば~。そして4番がですね、♪南船北馬 今我は行く 母と別れて 海越えていく 同士よ我らと いつまた逢わん…ごめんなさい…涙が出てね。こんな学校でも、母という言葉を使うんですね」

三上「何を思い出して涙が出るんですか?」

野原「戦友やね。戦友…。だめだ。大事な戦友がみんな逝っちゃったからね、テニアンでね。本当に…情けないです」

三上「私もこの歌うたえるんですよ、全部。♪いらぬ~は手柄 浮雲の如き 意気に感ぜし人生こそは(後半一緒に歌って)神よ与えよ万難我に♪ですよね?」

野原「おおーっ!またあんたもえれエ…。どういうこっちゃ、これは!」

 こんな軽妙なやり取りができる野原さんは、70代と言っても納得するほど若くてエネルギッシュ。極秘の部隊で少年たちを動員したことを、90を超えても誰にも話さずに過ごしてきたが、今年に入って最後のチャンスだと思い、自ら岐阜新聞に電話を入れたという。

野原「僕はこれまで全然口にも出さなかった。誰にも私がゲリラの教官やっとったことは話してない。子どもにも話してない。やはり極秘、と言われたことが頭にこびりついてそのまま来たわけよね。誰に言っても、信用してもらえんと思うし」

 私は『沖縄スパイ戦史』のラストに、護郷隊、つまり地域の少年にゲリラ戦をやらせるという残酷なアイデアは沖縄だけに終わらなかったこと、本土上陸に備えて中野学校卒業生が全国に散り、少年部隊を編成し訓練を始めていたことを織り込んでいるが、その全貌はなかなか明らかになってこない。しかし、まだ元少年兵たちにあたる時間は残されているから、その先は各地方のジャーナリストに頑張ってもらいたいという期待を込めてそのシーンを入れた。だから、大賀さんから連絡があったときに「よっしゃー!」と小躍りをしたのだが、まさか教官経験者の証言が聞けるなんて思ってもいなかった。

 なので、本来は『スパイ戦史2』の企画を立ち上げ、貴重な動画を寝かせておきたい気持ちも山々なのだが、あまりにも、あまりにも証言内容が面白いということと、そしてまだまだ見渡せば各地域に野原さんのような生き証人や資料が眠っているかもしれない、と奮起してくれるジャーナリストやフィールドワーカーがいることを信じて、しばらくは動画を公開しておくことにする。

 特に面白いのは、ゲリラ戦演習の内容である。中野学校が教えたスリのやり方、家宅侵入のノウハウ。煙の出ない炊飯方法、夜間の視力を確保する「周辺視」の手法。これは私も初耳だったが、調べてみるとあの義烈空挺隊も会得していたという記述もあり、周辺視をマスターし、夜でも絶対に外さない狙撃手もいたという。また、薬もない中で怪我を克服し戦うために「マムシ」を活用したくだりでは、野原さんはその脅威の実物をカメラの前に披露してくれた。部屋には異様なにおいが漂っていたが、これが化膿止め、熱さましに絶大な力を発揮するという。野原さん自身現在も使っているし、今でもマムシを見たら捕獲するらしい。

 中野学校のゲリラ戦指導者の中に甲賀流忍術の継承者がいたというが、まさに薬師・セブリなどの山岳漂泊民族の流れを汲んで山岳ゲリラ的な能力を持つ忍びの集団が出来上がったように、その知恵と日本の山野に潜んで戦う伝統の手法は、中野学校に引き継がれ、大戦末期には岐阜の内陸部の村にまで伝わっていたのかと感心しきりだった。

 宇治分校の演習はそれだけではない。京都大久保飛行場に行っては飛行機や戦車の爆破方法を習い、琵琶湖では伝馬船の漕ぎ方を習い、京都操車場に行っては汽車と電車の爆破を習い、最後は四国に渡って「高知平野にアメリカ軍が上陸し飛行場を占拠された」という想定で大規模な卒業演習が行われた。敵の役は二俣分校の教官らが務めたが、忍び込む造船場や飛行場などの施設には演習のことは当然秘密で、目的物に「爆破」と書かれた紙を貼って来るのがゴールだった。ところが実際に警察に捕まって拘置されてしまった仲間もいた。演習期間が終わって初めて、上官が警察から仲間の身柄を引き取ってきたというから、中野学校式訓練の豪快さは噂以上だ。

 この訓練を、野原さんは故郷の岐阜県山県郡谷合村(現山県市)に持ち帰った。地元の少年兵や予備役の40歳前後のベテランらを鍛えるべく野原さんが応用実践したのは、役場の夜間攻撃だった。

野原「役場に訓練のことを通達して、全部警戒に当たれと。在郷軍人の協力もお願いしてね。その警戒網をくぐって爆破する。それは成功しとるんです。爆破、と書かれた紙を役場に貼って来るだけですけどね。私らは地形もよく知っとるために、気づかれずに攻撃成功しよったです。子どもたちはもう張り切って」

三上「子どもたちはそうやって、自分たちの故郷を舞台に戦う覚悟ができていくわけですね。これはすごい話ですよ。沖縄戦ではなく、本土でここまでゲリラ戦の準備をしていたとは」

野原「今までホントによく知られずにここまで来たと、私は感心しとるわ。どうして誰も言わなんだやろ、って」

三上「最後は自分たちの地域で戦うということを本当にリアルに考えてましたか?」

野原「そりゃ考えてましたよ。だから天皇陛下のお言葉に、ガクッと来てしまったもんね。なんか虚しくてね、もう自分の役割も地位もないわけでしょ。虚しいだけやったです」

三上「もっと戦えたのにという気持ち?」

野原「そう、その方が大きかったです」

三上「本土決戦でもう少しできたのに、と?」

野原「そう。谷合の山なら、こっちが地形を熟知しとるんやから勝負できると。本当は地域で戦争したらいかんけどね、それより自分ら勝ちたい。勝ちたいだけ」

 ここまで話が及ぶと、リアルに恐ろしくなってくる。まさに国民全員にゲリラ戦をするよう指導した図説『国民抗戦必携』にあるように、武器がなくても崖の上から石を落として敵の戦車を止める。石を投げて攻撃する。寝込みを襲って武器を奪う。まさに漫画のようだと半ば呆れて見ていた、あのテキストどおりの作戦を野原さんたちは真剣にやろうとしていたのだ。しかも、ほとんど武器弾薬も支給されない中で。鍛錬と精神論だけで、内実は少年たちに素手で敵に向かわせ、体当たりで戦車を止めろという段階の一歩手前だった。

 いや、正確に言えば沖縄では、そこまで一部は到達してしまっていた。少年たちに敵の弾を拾ってでも戦え、素手でもやれと指導していたし、少年たちも実践していた。この中野学校×地元の少年で作るゲリラ部隊=護郷隊の事例は、恐ろしいことにひとつの成功例と解釈され、全国各地で少年兵部隊が作られる基礎となり、終戦の日まで訓練途上にあったのだ。

 これは何一つ笑えない。本土決戦は「幻の」でもなければ、その荒唐無稽に見える作戦は「バカバカしい」と一笑に付して終わらせていい簡単な問題ではない。これは10代の少年の命を数百万人単位で武器として消耗することを是とした、今も反省されていない重大な国家犯罪だ。インタビューの後半、野原さんは私が凍りつくような言葉を発した。

野原「軍隊は住民を守らないというより、同じ立場で戦わせようとした。そこに無理があったわね。若いにもかかわらず。住民はそりゃ確かに、一つの兵器に過ぎなかったんやね」

三上「住民は兵器に過ぎなかった…。そこまで言います?」

野原「基地は大事やけども、住民は兵器やで、消耗品やもんね」

 兵隊は消耗品だ、と叩きこまれてきた野原伍長にとっては、部下であれば少年も住民も消耗品、だったのか。いや、そんなに単純ではない。陸軍中野学校でゲリラ戦のプロに仕立てられてから、野原さんはこう言った。ゲリラ戦は和をもって繋がりを強固にす。捕虜になっても生き伸びろ。必ず助けに行く、と教わったと。中野の教えは違うなと感心したと。それは、護郷隊もそうだった。命は鴻毛より軽い、だから天皇陛下に潔く捧げよ、と教育された少年たちは、護郷隊に入ってからは命を大切にせよ、捕虜になってもいい、逃げてこいという上官に感激した。しかし、それは人道上そうなったのではない。諜報員が死んでは情報が来ない。スパイが敵陣で死ねば証拠が残る。あくまで作戦上そうでなければ困るからだ。スパイ、ゲリラのほか、少年兵はテロ要員でもあった。現に、野原さんの従弟で、部下でもあった小森智さん(当時15歳)は、戦車に体当たりして死ぬ訓練しかしていない、と証言している。

小森「穴を掘って、そこに爆弾をもってすくんで待っておって、戦車が来たら自爆する訓練。向こうから来るのを待つ。実戦になったら死ぬんだなあ、と思ったね」

 小森さんの証言もとても貴重だ。彼が岐阜の「国土防衛隊」に召集された7月には、もう武器弾薬はおろか軍服も軍帽も、ゲートルさえ支給されなかった。恐ろしい欠乏の中、潤沢に使えるのは少年の命だけという、完全に戦争継続能力の限界値を越えてからの召集だった。

小森「お宮さんの拝殿で、村長さんの激励のあいさつをもらって行った覚えはある。そこから宿舎までどう行ったのかは記憶にない。軍服はなかった。自分の国民服。支給されたのは地下足袋だけだった。ゲートルもなくて、母に帯の芯をほどいて作ってもらった。それと普通の肩掛けのカバンに丼鉢を入れて行ったんですよ。食器も自前ということで。帽子は家に鉄兜があったもんだから。これをかぶっていった。天高神社に並んだのは5人くらいかな。召集兵の中でも、僕が最年少ね。17歳くらいまでいた」

 武器も軍服もなく、家にあった鉄兜をかぶり、食器用の丼鉢をカバンに突っ込んで入隊した15歳の少年ゲリラ兵。それは沖縄の護郷隊より数段酷い。しかし野原さんは、今年初めて護郷隊を知り、同じ運命の沖縄の少年兵部隊の存在に衝撃を受けたと言い、インタビュー中でも何度か涙した。沖縄の少年らがかわいそうでならん、と繰り返した。映画の導入部分を見ていただいたのだが、もう見ていられんと目を覆った。あのまま戦争が続いていたら。野原さんが幾度となく想像した部下たちの末路が、そこに重なったのだろう。

 インタビューの終盤、私が先島の自衛隊問題に触れたとたん野原さんは色めき立った。

野原「これは考えないといかん。今、アメリカは日本を守ってくれるとみんな言うんやけども、守ってくれるんでなく、自分たちの防波堤なんやね、日本は。アメリカの防波堤。日本を守るんやにゃあで。そういうことは…どっちに転んでも一緒やけど。本当にこれは考えなあかん。本当に日本は独立国にならないかん。独立国やあれへんねん、今。アメリカの属国やで。まだ韓国の方がどうにか頑張っとるわ」

 本質を突いたコメントに驚いた。いや、中野学校の指導を受けたほどの軍人なら、現在の状況を読み解いて当然なのかもしれない。もし仮に、国の危機を背負って暗躍した中野学校の卒業生たちの大半が、戦死した人も含め、まだ頭脳明晰なまま生きていて、令和を迎える今の日本の政治状況を見ていたら、騙され続けている国民や騙されたふりを決め込む日本の政治家たちに辟易とするだろう。74年経ってまだ独立も勝ち取れないのか、と呻く人も多いだろう。村上治夫が、岩波壽があと15年長生きしてくれたら、少年を犠牲にしても守れなかった沖縄をまた懲りずに防波堤にするのか、と怒ったかもしれない。野原さんのように日本自体がアメリカの防波堤だぞ、と老兵として苦言を呈していたかもしれない。

 それにしても沖縄以外の地で、ここまで自分の故郷で戦うことを本気で考えた人物に会えて驚きの連続だった。しかしこの状況は相当まずいと思いませんでしたか? と聞くと、意外な答えが返ってきた。

野原「ゲリラ戦になったら戦争は終わらないな、とは思ったね。アメリカが日本本土に上陸して完全に占領することをしなかったのは、やっぱり沖縄のゲリラ戦部隊の恩恵もあると思う、わたしは。ゲリラ戦争は終わりがない。それを突っ込んでって失敗したのがベトナムでしょう。やったら終わりのない戦争になるで」

 山岳地帯に潜むゲリラとの闘いは消耗が激しい。そのことを沖縄の戦闘で実感し、7割が森林に覆われている日本本土でこれをやったらたまらない、と思わせたのは護郷隊を含む沖縄の山や壕の闘いだったという説は新鮮だった。しかしいずれにせよ、沖縄での戦闘が本土の何がしかを救ったという、防波堤として機能したという類の言説には容易に与することはできないが、テロ、ゲリラ、スパイを駆使した戦争は今も世界中で続けられている通り、終わりがない。日本の住民地域で、しかも住民を使ってそれを実践してしまった沖縄と、やがて同じ運命を辿ろうとした本土の実態はあまりにも知られていないが、ここを学ぶことこそ、日本人が目を背けてきた戦争の実像を掴む近道なのだ。だから、わたしはまだ当分、この問題を追いかけ続けることになるだろう。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)