第90回:ぼくが毎日新聞を止めた理由(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

堪忍袋の緒が切れた

 朝起きて、新聞を取りに行く。あれ? 今朝は新聞が軽いな。よく確かめると、新聞が2部しか配達されていない。あ、そうか。今日は10月1日。今日から毎日新聞は配達されて来ないんだ…。

 ぼくはずーっと新聞3紙を購読してきた。朝日、毎日、東京の3紙だ。でも毎日新聞は、9月いっぱいで購読を止めた。今日は10月1日。今日からは2紙になった。
 何度かぼくはツイートした。毎日新聞の広告についてだ。あまりにひどい「雑誌ヘイト広告」に、「堪忍袋の緒が切れた。ぼくはもう、毎日新聞を止めます」と書いたのだった。
 そんなツイートに、なぜか33万件を超える“インプレッション”がついていた。同じように感じている人が多いんだなあと思った。33万件の中には、多分、毎日新聞の関係者もいただろう。しかし…。
 むろん、「思想表現の自由」は、日本国憲法第21条でも保障されている権利である。しかしその自由が、いわゆるヘイト表現や差別表現をも許容しているとは、ぼくは思っていないし、それが憲法上の権利だとも思わない。差別が許容されないことは、憲法第14条に明記されている。

 どんな表現が「ヘイト」に当たるのかを審査する部署が、各新聞社にはあるはずだ。もしそこが正常に機能しているなら、到底許容できないような差別的な巨大見出しが躍る広告を、なぜ毎日新聞は掲載し続けるのか? それが知りたくて、何度かツイートした。
 ぼくはメディアや行政に、直接苦情の電話をしたことはほとんどないのだが、この件では毎日新聞社へ電話もしてみた。それほど、あの広告は腹立たしかったのだ。だがツイートはむろん無視されたし、電話も「はい、しかるべき部署に伝えておきます」と言われただけ。なんの効果もなかった。
 そうなれば、一般読者としては打つ手はない。できる唯一の手段は購読を止めることだけ。
 ぼくは仕事柄、ジャーナリストの友人知己はかなり多いほうだ。毎日新聞にも素晴らしい記者がたくさんいることは知っているし、親しい記者もいる。彼らには申し訳ないけれど、それでも…。

同業他紙の「廃刊」を叫ぶ広告

 最初に「ヘイト雑誌広告」に疑問を持ったのは、いつだったろう?
 多分、きっかけは「朝日新聞を廃刊に」というような大見出しがデカデカと載った広告だったと思う。雑誌名は言わずもがなだろうが、2誌がまるでヘイト度を競うように薄汚い言葉を並べていた。
 最初に断ったように、思想表現の自由は当然、認められなければいけない。だが、広告をなんのチェックもなく掲載してしまうのでは、新聞は恐ろしいことになってしまう。
 ことにぼくが感じた恐怖は、特定の新聞を名指しで「廃刊にせよ」との巨大文字が躍っていることだった。それはいくらなんでも違う!
 毎日新聞は、同業のマスメディアを廃刊に追い込めという広告を、何の危機感もなく掲載するのか。自紙ではなくとも、「新聞を廃刊に追い込む」ということに加担するのか。つまり、日本におけるジャーナリズムの一角を否定し、消し去ってしまうことに加担するのか。
 これが、ぼくが最初に持った巨大な違和感だったのだ。

 ぼくはそれまで、それこそ“目が汚れる”から、その手の広告は無視してきた。だが一旦、目に留まると、つい気になって見ずにはいられなくなる。すると、ムカムカと胸苦しくなって来るのだった。
 ぼくがこれらを気にし始めたころは、東京新聞にも同じような広告が並んでいたと思う。けれど最近は目につかない。理由は分からないが、どうも東京新聞はこの広告を止めたらしい。
 朝日新聞は、さすがに「朝日を廃刊に」などという広告は載せるはずもない。ぼくが購読している3紙では、結局、毎日だけがこんな広告を載せ続けていることになる。読売、産経、日経に関しては、ぼくは購読していないので言及しない。
 最近は、「ヘイト雑誌広告」の朝日攻撃はむろん止まないけれど、主なる標的は韓国に移ったようだ。
 あの「週刊ポスト」が大批判を浴びて炎上したのに、同様の「ヘイト記事」が相変わらず2誌ではウリなのだ。これらの広告が「ヘイトスピーチ」や「ヘイトデモ」を煽る役目をはたしていることは間違いない。そのことを、毎日新聞社は、果たして自覚しているのだろうか?

「ヘイトを煽る表現」とは?

 では、「ヘイトスピーチ」や「ヘイトデモ」とは、いったいどんなことを指すのか? その定義はきちんと決まっているわけではないが、ぼくの理解としては次のようなものだ。
 まず、日本語では「憎悪表現」ということになる。つまり、相手に対しての「憎悪」をむき出しにして、悪罵を投げかけ、その表現として街頭でデモなどを行うということ。
 そこで、それが向けられる相手というのが問題になる。
 人種、出身国、民族的出自、宗教や信仰、弱者(障碍者、高齢者、貧困者、病人など)、性的マイノリティ、容姿……などを標的にした「憎悪表現」を「ヘイトスピーチ」「ヘイトデモ」と理解する。つまり、自分ではどう変えようもない属性を持つ個人や集団を口汚く罵り、攻撃したり脅迫したりすることが「ヘイト」なのだ。
 そして、それを煽るような表現は、どんなリクツをつけようが「思想表現の自由」で守られるべき対象ではない。繰り返すが、それがぼくの理解だ。そう考えれば、毎日新聞に月1度掲載される2誌の広告は、まさに「ヘイトを煽る表現」としか言いようがない。
 違いますか、毎日新聞さん?

 例えば、先週の毎日新聞に載った某誌の広告は、「韓国が消えても誰も困らない」「韓国人は嘘つき」「いつまで続く国家ぐるみのあおり運転」などという、まさに「ヘイト表現」のオンパレードだ。あの「週刊ポスト」が炎上した表現といささかの変りもない。
 もう1誌には、個人攻撃の広告もデカデカと載っていた。いわく「文在寅という病」や「伊藤詩織は性被害者なのか」。むろん韓国への罵倒「韓国経済は生き地獄」もあり、そしておなじみの朝日攻撃「朝日は文在寅の共犯だ」などの大きな活字が並ぶ。
 ここに書き写すのも手が汚れそう。

 「本文を読みもしないで批判ばかりのパヨク」などという攻撃が、ぼくにも来るけれど、この見出しを見ただけでおよそ中身は察しがつく。もっと言えば、中身よりもこの広告自体が問題なのだ。
 新聞の大きなスペースでイヤでも目につく大見出しは、読者にとって潜在的な刷り込みになる。本文など読まなくても、いつの間にか頭の中に埋め込まれるヘイト表現だ。
 若者層が新聞離れを起こし、新聞の主な読者はシニア層に偏っていると言われて久しい。シニアのネット右翼が増えているという現象は、このヘイト雑誌広告の刷り込みも起因しているのだろう。

毎日新聞が読めなくて少し淋しい…

 毎日新聞には優秀な記者も多く、素晴らしい記事もたくさんある。
 原発事故に関してしつこく粘っこく取材を続け、数々のスクープをものにした記者もいる。最近の「かんぽ不正」に絡んで「NHK経営委員会が、NHK上田良一会長を厳重注意したのは、実は日本郵政グループからの抗議を受けてのもの」というのも、毎日新聞のスクープだったようだ。NHKの歪んだ体質がもろに現れたもので、それを掘り起こして記事化した毎日記者の踏ん張りは、まさに称賛に値する。
 だが、そんな記者たちの奮闘を、あの広告は踏みにじるものではないか。権力を批判し、その闇を暴く。それに邁進する記者たちを抱えながら、一方でその記者たちの努力を嘲笑うような広告に紙面を提供する。
 ぼくもかつて週刊誌の編集部に在籍していたから、編集と営業(広告部)の間に若干の距離感があることは分かる。だが、同じ新聞社に属する者同士なら、互いの苦労を想像することはできるはずだ。ならば、そんな広告が結局自分たちの首を絞めることになると、なぜ分からないのか。そこがぼくには不思議でたまらない。
 あの2誌の広告料がいくらなのかは知らない。けれど、ジャーナリズムの意地、ジャーナリストの矜持というものがあるだろう。それを広告料のために捨ててはいけない。

 毎日新聞夕刊の「特集ワイド」は、新聞コラムとしてはとても上質なものだ。ぼくは毎回、楽しみにしていた。
 これは、朝日新聞の“両論併記”のコラム「耕論」などとは違い、記者個人が自分の考え方を色濃く反映させる“記者のページ”である。東京新聞の「こちら特報部」に匹敵するコラムだ。ぼくは大好きだった。それが読めなくなるのは、ちょっと淋しい。
 だから、ここではっきりと書いておく。あの「ヘイト雑誌広告」が消えたなら、ぼくはまた毎日新聞の購読を始めるつもりだ。

 毎日新聞の関係者がこのコラムを読んで、何か意見を送ってくれたら嬉しいけれど、そんなことはないだろうなあ…。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。