あの山城博治さんが、マイカーを宮古島に運び込んだ。居候させてもらう家も決まった。長く辺野古の基地建設反対の現場の指揮を執ってきた博治さんだが、この1年は、辺野古の土砂を運び出す本部町安和や塩川港に詰めたり、複数の現場を行き来し、本土にも加勢を求めに行ったり、多忙な日々だった。それが、9月末から宮古島の弾薬庫建設が本格的に動き出したことから、「住民の阻止行動の立ち上げに腰を据えて向き合いたい」と、当分は宮古島をベースに生活するという。そして本当に長期滞在の構えに入ってしまった。やはり、巨大な弾薬庫を抱え込まされるという局面はそれほどに重大なのだ。博治さんの本気度に、私もいよいよなんだ、と覚悟を決める。
沖縄の民俗学を学ぶならこの大学しかない、と決めて私が成城大学に入った時、すでに調査地は宮古島と決まっていた。なぜかというと、柳田国男の直弟子の末弟子で、唯一の女性だった鎌田久子教授が教鞭をとっていて、その鎌田先生は宮古島のシャーマニズムが専門だったからだ。さらに、成城大学には柳田国男の蔵書が書き込みごと見ることができる文庫も置かれていたし、社会人類学者で『沖縄池間島民俗誌』を書いた野口武徳教授もゼミを持っていて、私は幸福にもこの二つのゼミを渡り歩くことができた。
必然的に調査地は宮古島になり、宮古島にまみれて幸せな学生生活を送った。当時は、池間島はおろか、来間島にも橋はかかっていなくて、ヤギや豚と一緒に小舟に乗せてもらって渡った。のちに社会人になってから入った沖縄国際大学で修士論文の舞台に選んだ大神島には、生半可な気持ちで行くなという先生の指導もあり、大学時代は渡ることもできなかった。その大神島にはこの二十数年で50回以上通い、本当の祖母以上に慕うおばあがいて、いつも実家のように過ごさせてもらっていた。
その話を書き始めると本題に入れなくなるので稿を改めることにして、私は心の故郷である宮古島がどんどんその形を変えていくのを35年に渡って見てもきた。しかし5年前から島を引き裂いている自衛隊のミサイル基地建設問題は、とてもじゃないが時代の変化や島おこしというレベルの出来事ではなかった。ところが私の持つ危機感は、さほど沖縄県民に共有されず、全国の報道はおろか県内報道さえも振るわなかった。個人的な感情や感傷が入り込み過ぎているのか? 思い込みが強いのか? 何度も自問して過ごしてきたのだが、数年前からはあの博治さんが「辺野古米軍基地問題に衆目を引き付けておいて、本丸は自国軍による南西諸島の再軍事化ではないのか」と言い始め、先月から宮古島で寝起きをしている。やはり残念ながら杞憂ではなかったのだ。博治さんの行動で改めて事の重大さに身構える。
ところが、私の悲壮な覚悟とは裏腹に、博治さんの現場からの電話報告の声は、なぜか朗らかですらあった。
「三上さん。三上さんの大好きな宮古島はね、本当に素敵な人がたくさんいるよ」
そうやって博治さんは毎日のように、私に保良(ぼら)の人たちの魅力を語りだす。保良は弾薬庫が建設されようとしている地区の名前だ。デモ行進にトラクターを繰り出すおじいたち。農作業の合間を縫って少しでも、と参加してくれる人々。宮古伝統の踊り「クイチャー」の指南をしてくださる女性たち。その中でも、特に「ミサイル・弾薬庫配備反対! 住民の会」の共同代表で一日も欠かさずに現場に詰めている下地博盛(しもじひろもり)さんへの信頼を、日に日に厚くしていく様子がよく伝わってきた。
下地博盛さんは、保良生まれの保良育ち。少年時代、島では馬やヤギの草を刈るのは子供の仕事で、今座り込んでいる建設現場の付近はよく草刈りに来て遊び、海沿いの湧き水で水浴びをして帰った思い出の場所だそうだ。合併する前の城辺(ぐすくべ)町役場に長らく勤めていた下地博盛さんは、保良の区長を3期も務め、また宮古島市議会議員にまでなった地域のリーダーだが、人となりはいたって真面目で物静か。声も小さくおとなしい印象で、声の大きな博治さんとは真逆のキャラクターと言ってもいい。住民の反対運動のリーダーになったらどんな風になるのだろうか、想像がつかないタイプだった。しかし、小柄で明るくて活発な妻のKさんと、そして本土から故郷に戻ってきた宮古美人の娘のAさんと、親子三人で必ず現場に、どんなに少人数の日でも欠かさずに立っていた。その誠実な人柄に、博治さんは絶大な信頼を置くようになっていた。
69歳の下地博盛さんは、保良では「若手」だそうだ。今も毎日畑に出ている94歳のおじいが、博盛さんのところに駆け込んできてこう言ったという。
「自衛隊の弾薬庫の工事が始まった。博盛がいながら、何であんなことをさせるんだ!」
博盛さんという人間がいながら……、と古老に言わせるくらいの信頼を得ているということがよくわかる。言葉はぶっきらぼうなこのおじいは、別の日に「お前がやっている抵抗は役に立っているのか?」と聞いてきたので、さすがの博盛さんもカチンときて、「毎日精いっぱいやってるんだ!」と言い返すと、翌日コーラやジュースの缶がいっぱい入った袋をもって現場に来てくれた。これには博治さんも感激した。90歳を超えた大先輩が、現役で土に向き合い、この土地を守りたいと居ても立ってもいられない想いをしている。現場を激励してくれる。高齢化が著しい181世帯・312人の保良だが、誇りをもって生きてきた土地を、生活を、踏みにじられてなるものかという気概に満ちている。博治さんはこれまでの沖縄本島の闘いを、どうにかこの保良にいい形で生かしたいと、新たな闘いの構築にのめり込んでいた。
元鉱山だった建設予定地に、毎日10台のトラックが朝から土を運んでくるのだが、ゲートの前に来られる人の数が、なんといっても少ない。博盛さんご夫妻しかいない時もある。最初の10日間は、座り込んでも、警察官が20人もくれば数分で排除。唇を噛んでトラックを見送る悔しい場面も多かった。少人数だと、警察官と対峙するのも気が重いものだ。そのうちに、排除されるぎりぎりまで抵抗したら、あとは立ち上がってできるだけゆっくり歩いてトラックをなかなか進ませない「牛歩」で抵抗する形に移行していった。30分でも、一時間でも作業を遅らせたい。そういう積み重ねで辺野古の基地も20年抵抗を続けてきたのだ。一応「歩いて」いるから警察官も力ずくでは移動させられない。そのうち、宮古伝統の「クイチャー」を踊りながら進むなど、宮古島ならではのアイディアも飛び出してきた。
そうやって、やっとひと月が過ぎる頃、この5年ほど、ずっと辺野古の現場で頑張ってきた元気印の女性たち、通称「辺野古ネーネーズ」の6人が保良の現場にやって来た。彼女たちは歌って踊る辺野古の闘いを作り出していったパワフルな面々で、彼女たちのいるところには笑いと美味しいものがある。繰り出す替え歌も踊りも無尽蔵。辺野古の現場で培ったノウハウとエネルギーで宮古島の闘いを応援したいのと、病み上がりである博治さんの様子もチェックしながら、3泊4日で宮古島にやって来たのだった。
「早く宮古に来たかった。弾薬庫は絶対に造らせてはだめ!」
「博治さん、いつ帰って来るの? と最初は思ったけど、宮古島に来てもらってよかったと思うわ!」
「この際、博治さんは知恵をいっぱい出して、宮古の人はたくさん教わってほしい」
「ここにしかない闘い方がある。少人数でもここまでできるのはすごい!」
「辺野古に帰ってクイチャー広げなきゃ」
一気にかしましくなった保良の闘いの現場。朝から夕方まで歌と笑い声が絶えなかった。博盛さんの妻のKさんは、同じ牛歩でも悲壮な顔で歩くのではなく、明るく楽しみながらやることを学びました、と大喜びだった。
今回の動画は、マガジン9のこのコーナー始まって以来の30分を超える大作になった。全く新しい現場の新たな闘い方と、人々の願い、どうしても切りたくない歌、博治さんの宮古島への思い、そして何より保良の闘いの主役である下地博盛さんご一家、隠れた主人公?であるヤギ(博盛さんの家はヤギパラダイスだった!)まで、全く描かれてこなかった保良という地域の感触まで伝えたいと欲張ったので、長くなってしまった。片手間に見られる尺ではないので大変恐縮だが、30分、時間を作ってぜひ最後まで見て欲しい。今回は厳しいながらも、宮古島ならではの牧歌的な世界も味わっていただけたらと思う。
ところで、今回のポイントになっている「クイチャー」という踊りについて少し解説が必要だと思う。数々の「クイチャー」大会があるほど、宮古島でこれを踊れない人はいないという宮古芸能の代名詞であるこの踊りは、もともと川がなく、干ばつのたびに命の危機にさらされてきた宮古島の人々の「雨乞いの踊り」だったと言われている。飛行機から見ると、まるで三角形に切り取った緑のフエルトを海に浮かべたような、山のない宮古島。山がないから川もなく、地下水だけが頼りの島なので、農業用水の確保が常にネックだった。
その自然環境が厳しい島に、琉球王府は「世界一残酷な税」と評された「人頭税」を課した。これは廃藩置県後も明治36年まで宮古島を苦しめた悪税で、15歳から50歳まで、病人も何も関係なく、女性には織物、男性には穀物を納めさせた。これは宮古だけではなく八重山地方にも、つまり先島全体に課せられた重税で、一人頭で課税されたため、働けない障がい者や老人の分を誰かが負担する形になり、人減らしの悲しい伝説が各地に残っている。このクイチャーをはじめ、その悲しみと怨みは歌となって、今も先島に染みついている。それほど離島の人を絞り上げた財力で建てた首里城に対して、先島の人たちはどう見ているのか。今の首里城復興騒ぎも、保良の土に座り込んでいると全く別世界のように感じる。
首里城はさておき、つまりこのクイチャーも、起源は雨ごいかもしれないが、一年間死ぬ思いで働いて税金を納めた時の歓喜、憂さ晴らし、腹いせが原動力になっている稀有な歌だ。米や粟を納めたのに、明日から家族が食べる分も不足しているという解放感と絶望の泣き笑いで、三日三晩、狂喜乱舞する島民が歌い、舞ったのがクイチャーなのだ。
歌詞も踊り方も各地の特徴は違っているが、代表的な「漲水(はるみず)クイチャー」の歌詞の大意はこうだ。
村の兄さんたち
もう農具を手に取らなくてもよくなるよ
漲水の船着き場の砂が
粟になって 米に化けて 勝手に上がって来るよ
島の姉さんたち
大神島に打ち寄せるさざ波が
糸になって 巻いた糸になって 上がってくれば
もう苧麻を作らなくても 糸車を触らなくても
よくなるのに
私は宮古島の美しい浜に打ち寄せる波を見ては、この歌詞を思う。砂が米や粟になって勝手に打ち寄せてくればいいのに。波の花が美しい糸になって、綾なす織物になって私を解放してくれたらどんなに楽になれるだろう。そんな幻想を見るほどの苦しみから270年も解放されなかったこの島を思う。
沖縄の中でも虐げられた先島の、その中でも根強い差別と闘わなければならなかった宮古島。島の人たちが人頭税廃止運動に立ち上がっても琉球士族や警察に潰され、帝国議会に請願書を出して廃止になったのは、実に明治36年。沖縄県は、この宮古島の不当な重税と、そこに起因する貧困と差別を長く座視していた。その歴史と、自衛隊による軍事要塞化にさらされ助けを求めている先島の声に、米軍基地と闘ってきた知恵と蓄積があるはずの沖縄本島の人たちが敏感に反応できていないことが、私には重なって見える。
長く沖縄本島に住んでいても、そんな先島を黙殺する沖縄本島側の人間になりたくない一心で私はじたばたしている。しかし、博治さんが全く同じ気持ちを持っていてくれたことが、今回の取材でよく分かった。宮古にこだわった民俗学者である谷川健一にいたく傾倒していた青年期があって、離島の歴史と今を的確に捉える慧眼の主であることを改めて知り、尊敬の念を新たにした。そのことを語るとき、また動画にもあるように、若い世代である楚南有香子さんたちにも苦労を掛けていることを知ったとき、博治さんはすぐに涙ぐむ。今回の3日間で、宮古島の歴史を語る度に毎度涙目になる博治さんに向かって、辺野古ネーネーズは「ナチブー(泣き虫)ヒロジ! また泣いてるさぁー」と優しくはやし立てた。
数日前から風が急に北に変わった。一カ月見事に雨が降らなかった保良のゲート前は、初めて雨交じりの強風に悩まされた。今日は雨具とカイロを持ってきてください、と呼びかけられている。宮古島の冬は風がとにかく強いので寒い。弾薬庫の工期は2年。テントも建てられない、トイレもない現場での抵抗の日々はまだひと月だ。1997年から辺野古の座り込みを見てきた私には、22年という年月の重みが刻まれているが、まだまだひと月、なんてとても言えない、毎日毎日が必死の保良の歳月がある。もちろん、保良だけではない、宮古島各地から通う方々、島外から来てくれる方々がいて、何とか繋いでいるこの現場のことを、私は映像と文章であなたに伝えます。
現場は問います。
国の安全のために我慢しろというのか。
弾薬を枕に寝ろというのか。
命があるだけましだとでも言うのか。
私の安全は国に任せてるんだから、私は加害者ではないと言えるのか。
せめて、悩んでほしい。最低限、知ってほしい。指先一つで、現場を体験できる映像を届けますから。携帯電話の窓から、パソコンの液晶越しでもいいから、あなたの30分を、宮古島に寄り添う時間を、下さい。
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【追記】保良の住民の会が支援カンパを呼びかけています
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代表者:下地博盛
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三上智恵監督『沖縄記録映画』
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