第504回:『i-新聞記者ドキュメント-』に、この国の空気を思う。の巻(雨宮処凛)

 最長政権が「桜を見る会」で揺れる中、森達也監督の新作『i-新聞記者ドキュメント-』を観た(試写会じゃなくて自腹切って観た)。

 東京新聞・望月衣塑子記者を追ったドキュメンタリー映画である。

 感想は、と言えば、むちゃくちゃ面白かった。何しろ空気を読まない森達也が、同じく空気を読まない望月記者にカメラを向けたのだから面白くないわけがない。望月記者におとなげなく「嫌い」という態度を全開にする菅官房長官。いつも彼女の質問を遮る官邸スタッフ。伊藤詩織さんの裁判や森友問題、加計問題、辺野古基地建設問題など全国を飛び回って取材し、政治家や官僚たちに怒涛の勢いで質問をぶつけていく望月記者。その姿は、シビれるほどにカッコいい。

 この映画が描くのは、そんな望月記者を通して浮かび上がるこの国の空気だ。そして集団心理や同調圧力、正義の暴走という「ザ・森達也」なテーマに私たちのあり方そのものが問われる。

 そんな森さんとの付き合いは、実は長い。

 初めて出会ったのは1999年頃のこと。この年に開催された山形ドキュメンタリー映画祭で私の出た『新しい神様』が上映された時だったと思う。森さんの『A』はその前年くらいに公開されていて、以後、映画祭やドキュメンタリー映画界隈の飲み会でよく顔を合わせるようになった。

 当時の森さんは、映画監督としての道を本格的に歩みはじめた頃。また、私は『新しい神様』に出たことで「本を出さないか」という話が来ていた頃(まだフリーターだった)。同じ頃、森さんも初めての本の出版を控えていて、「もしかして本なんか出したら家とか建っちゃうんじゃないの?」と盛り上がったことを覚えている。今思えば、そんな甘いものではないのにと自分を戒めたくなってくるが、当時の私は25歳。一方、森さんは私の19歳上だから当時で40代なかば。20代の私が「本出したら家建っちゃうかも!」とはしゃぐのと同じノリで40代なかばの森さんも「えーどうしよう☆」とかはしゃいでいたのだから天真爛漫というか、無邪気というか、世間知らずである。

 っていうか私は今、初めて森さんが19歳年上だって知ったんだけど、あの人還暦超えてるの? あんなに子どもじみてるのに? ちなみに二人とも、あれから随分多くの本を出版したが、順調に家など建っていない(はず)。

 さて、そんな森さんは出会った時から今とまったく変わらぬ空気の読めなさ、読まなさで、「忖度」という言葉から一億光年ほど遠く、「王様は裸だと言っちゃう系」の人だった。それだけではない。いつもカーゴパンツにサンダルみたいなラフすぎる格好をし、それを指摘すると「これユニクロだよ」とユニクロを自慢するのだった。

 森さんは随分長いこと「金儲け」系からも見放されていたようで、デビュー作の『A』の頃からここまで順調に来たかと言えば、決してそんなことはない。なんでこの人、もともとテレビ業界にいたのにこんなに生きるのが不器用なんだろう? と思うほどに、「お金の苦労」をしているのを見ていた(そしてそれをそのまま書いていた)。

 もともと『A』だって発表のあてのないまま撮っていた作品だ。が、それが映画として完成し、海外の映画祭で賞なんかをもらっても、なかなか収入にはつながらないという世界である。よって森さんは、『A』や『A2』で国際的な評価を受け、多くの海外映画祭に招待されながらも、映画祭から帰国したらテレビの下働きの仕事をして食いつないでいるようだった(それも自分で書いていた)。国際的なドキュメンタリー映画監督から一転、帰国したらテレビの現場で弁当配ったりの日々。「一人格差ジェットコースター」である。

 今から15年くらい前、ある飲み会に行ったら、森さんが泥酔していて「今年13万円しか稼いでない!」と叫びながら崩れ落ちたことがある。そんな説明的な台詞とともに酔いつぶれる成人男性を初めて見た私は、腹を抱えて笑った。

 さて、なぜこんなことを延々と書いてきたかと言うと、だからこそ森さんは「個」でいられるのだ、と映画を観て改めて思ったからだ。組織に属さない、誰にも守られていない個の表現者。

 そして被写体となる望月記者も、圧倒的に「個」だ。東京新聞という組織に属していながらも、彼女はその前に一人のジャーナリストだ。一人称単数だ。

 この「一人称単数」という言葉を、私は今年の参院選で森さんの口から直接聞いていた。れいわ新選組の応援スピーチに来てくれた時のことだ。森さんはこの日、スピーチの冒頭で、「スタッフからお願いされて、何度も断ってるのに相手も空気読めないらしく何度も誘ってきたから今日来た」と述べた。ちなみに何度も誘った「空気読めないスタッフ」とは私のことだ。

 そうして森さんは、れいわ新選組の街宣に集まった大勢のメディアのカメラを見つめ、この状況を決して放送しない彼らに「あなたたちはジャーナリストではなく会社員です」と言い放った。連日、れいわ新選組の街宣にはたくさんのテレビカメラが現場に来ているのに一向に報道されないことに苛立っていた人々からは、拍手が上がった。この時、私は森さんを生まれて初めてくらいに「カッコいいな」と思った。

 この日のスピーチを、森さんは「ニューズウィーク日本版」で以下のように要約している。

 「山本太郎は一人です。彼だけではない。この政党の候補者たちは、一人として組織に埋没していない。むしろ反逆している。だからこそ現場感覚から遊離しない。何が大切で何がどうでもいいのか、その優先順位をしっかりと考えることができる。だから僕はれいわを応援します」

 一匹狼という言葉よりは、野良犬という言葉が似合う森さん。そして山本太郎もまた「永田町の野良犬」を自称していた。山本太郎について評する時、私はいつも「世界を変えるのは、いつの時代も”空気を読まないバカ”である」という言葉を使う。「空気を読まないバカ」と言えば、森さんも望月さんも、いい意味でバッチリ当てはまる。

 それに対して、映画に登場する多くの人たちは、圧倒的に「組織の人間」である。菅官房長官。警察官たち。そして望月さんをけむたく思うようなメディア人たち。彼ら彼女らは組織の論理で、自分の「立場」で動いている。

 映画を観ながら思い出したのは、れいわ候補者の一人、安冨歩さんがこの国を称して「日本立場主義人民共和国」と言っていたことだ。一人称単数の真逆にある「立場主義」。「桜を見る会」も、モリカケ問題に象徴される「忖度」も、結局はこの立場主義が行き着いた果てではないのだろうか。そんなこの国を正気に戻せるのは、唯一、「空気を読まない個」だと思うのだ。

 森さんは、前作『FAKE』について、コメントで以下のように書いている。

 「市場原理によってメディアは社会の合わせ鏡となる。ならばこの傾向は、社会全体が安易な二極化を求め始めているとの見方もできる。社会だけではない。政治もこの二つと相互作用的に存在する。つまりレベルが同じなのだ。もしもこの国のメディアが三流ならば、それは社会が三流であることを意味し、政治も同様であることを示している。
 こうして社会とメディアと政治は、互いに刺激し合いながら、少しずつ同じレベルでスライドする。楽なほうに。売れるほうに。票が集まるほうに。真実と虚偽。黒と白。二極化は楽だ。だって曖昧さが消える。すっきりする。右と左。正義と邪悪。敵と味方。悪は叩け。正義は勝つ。やがて集団の熱狂に身を任せながら、僕たちは同じ過ちをくりかえす」

 そんな森さんを私は非常に信頼し、なついているのだが、私がなついているオッサンはもう一人いる。愛される右翼・鈴木邦男だ。この二人には共通点がある。それは、付き合いが長いのに、私はこの二人から何かを押し付けられた経験が一度もないこと。「自分は正しい」という傲慢を感じたこともないこと。「正義の暴走」の恐ろしさを知っていることだ。

 『i―新聞記者ドキュメント―』は全国で公開中。森さんの映画が、こうして全国の映画館で公開されるなんて感無量である。ぜひ、観てほしい。

 

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。