第96回:「スパイリストに載った少女」~その後の追跡で分かったこと~(三上智恵)

 「『ヨネちゃんとスミちゃんを殺すやつは俺が殺す』と、言ったそうです」

 沖縄戦当時18歳だった中本米子さんは、証言の中で何度もこのフレーズを繰り返した。ある海軍将校が言ったというこのセリフは強烈に私の脳裏に焼き付いた。米子さんは「スパイリスト」に載せられ日本軍に命を狙われるが、その将校が「彼女らは殺すな」とかばってくれたおかげで助かった。

 このにわかに信じがたいエピソードは、2018年公開のドキュメンタリー映画『沖縄スパイ戦史』の中でも特ダネ級の新証言だったのだが、私は映画のあとも、この将校をさらに追いかけ続けていた。今回はその追加取材を映像も交えて紹介したいと思う。

命の恩人は、住民虐殺に手を染めていた

 沖縄本島北部では、日本軍の敗残兵らがスパイリストを作成して勝手にスパイ疑惑をかけ、米軍に協力する恐れのある住民を殺害するという惨事が各地で起きていたが、10代の少女まで殺害対象になっていたという事実はこれまで全く知られていなかった。

 なぜ、米子さんは命を狙われることになったのか。彼女は海軍魚雷艇隊で働く中で、おそらくトップシークレットだった地下弾薬庫のことを知ってしまい、そのために狙われたのではないかと彼女自身が語っている。戦後、元海軍兵士が彼女を訪ねて来て「ある将校が彼女たちを守ってくれたために命拾いしたのだ」と教えてくれ、米子さんはその将校に感謝したという顛末だ。

 その将校というのは、第27魚雷艇隊(通称白石隊)の武下一(はじめ)少尉(戦争中に中尉になり、死後は大尉になるが、本文では少尉に統一)である。彼らは運天港に隠していた魚雷艇をすべて失い、4月初旬から陸戦に転じる。やがて敗残兵同然になって今帰仁村の山に潜んでいたが、武下少尉は6月18日、米軍に射殺されてしまう。そこまでであれば、23歳で死んだ悲運の将校が最後に守りたかったのは、海軍のために働いてくれた島の女性だった、という切ない話で終わることができるのだが、映画でも、そうはなっていない。それは、武下少尉が住民虐殺に手を染めた本人だったことが分かったからだ。

 2005年12月、地元紙の沖縄タイムスにこんな記事が載った。

日本兵「スパイ殺害」記述/沖縄戦 住民虐殺裏付け〈軍用手帳に初の文書記録〉

 沖縄戦で戦死した日本兵の軍用手帳に、スパイを殺害したという記述があったことが分かった。手帳は本部半島の今帰仁村運天一帯に駐屯していた海軍中尉の所有。米国立公文書館に翻訳され保管されており、琉球大学・保坂廣志教授が発見した。(略)手帳は、一九四五年六月十八日、今帰仁村呉我山で米軍との交戦で死亡した海軍の竹下ハジメ(漢字名不詳)中尉の所持品から回収された。(略)スパイ殺害記述があるのは四月十七日。日本軍は当日、八重岳から多野岳移動を予定し、午後六時に六百人が集合。移動命令後に、「スパイを殺害。オダさん?」との記述がある。
(沖縄タイムス 2005年12月28日)

 その後、第27魚雷艇隊の名簿にあたり、タケシタ(竹下)とは、大分県出身の武下一であること、「オダさん」(英語表記ODA)については、殺害日時からも伊豆味で行商人をしていた太田守徳さんとみて間違いないと判断した。その太田守徳さんの虐殺とはどんなものだったのか。元警察官で琉球政府立法院議長も務めた山川泰邦氏の著書から引用する。

 四月末ごろのある夜のことであった。どしゃ降りの雨の中を、本部町伊豆味の山間の、とある一軒家に忍び寄る五つの黒い影があった。一軒家には、太田守徳氏(当時五〇歳)の家族が避難していた。黒い影がトン、トンと、雨戸をたたいて、「太田さん、太田さん!」と呼んだ。太田夫妻は、この雨の夜の訪問者に不安を感じ、だまっていた。「太田さん。○○に行く道を教えてください」――守徳氏は不安を抱きながらも、仕方なく雨戸をあけた。姿を現したのは友軍の兵隊だった。(略)しばらくすると、恐ろしい知らせが集落の人からもたらされた。彼女は気も転倒せんばかりに驚いた。守徳氏は伊豆味の内原の路傍で、死体になって横たわっていた。死体は背後から銃剣か日本刀で刺され、うつ伏せになり、朱に染まって倒れていた。これを知って村の人たちは、悲憤の涙をのんだ。そしてこんなことをささやき合った。「守徳さんはねらわれていたらしい。何しろ守徳さんは、肉や豆腐を部隊に納めるために陣地(壕)に出入りして部隊の地形に通じていたから、生かしておけぬと、殺してしまったのだ。友軍の陣地に出入りしたものは守徳さんのようにやられるぞ!」村人たちは、暗い顔でこんなことをひそひそ話し合い、恐れおののいた。
『秘録 沖縄戦記』

 行商で日本軍陣地に出入りしていたために、太田さんは軍の拠点や作戦行動を詳細に把握する立場にあった。日本軍の撤退後すぐに米軍影響下に入るこの地域に、そんな人物を残して行くことは軍の情報をさらけ出していくようなもの、と考えたのだろうか。まるで撤退際の後始末のようなタイミングで住民殺害に及んでいる。その後、白石隊は多野岳の第一護郷隊と共に戦い、白石隊長と武下少尉は南下を目指して恩納岳の第二護郷隊陣地まで行くが、結局6月には今帰仁の山中に戻っている。

 そして映像にもあるように、白石隊は9月3日に米軍に投降した。その時点で人数はおよそ200人、それが5カ月以上の潜伏生活を続けたのだから、何より大変だったのは食料の確保だった。武下少尉の日記を見ると、彼は糧秣(りょうまつ)担当で、最後まで米の確保に必死になっていたことがわかる。彼は屋我地島のハンセン病施設「愛楽園」に米軍から供給された米に目をつけて横流しをお願いしていた。屋我地島は比較的米軍がいない島だったので、島民にも協力させ、米を何度か潜伏している山中まで運搬した。それが米軍の知るところとなり、住民から食糧を奪う敗残兵の首謀者とみなされ、真利山の小川沿いにあったアジトを探し当てた海兵隊第3師団のパトロール隊によって、部下2人と共に射殺された。

 「武下さんは愛楽園の米を奪ったことで、米軍に狙われたようですね」と聞くと、米子さんはうつむいた。「部下思いだったからね……」と彼をかばうようなことを言った。たぶん米子さんは米の移動作戦を知っていたであろうし、協力もしたかもしれない。日本軍は米子さんを殺害対象にしたのだから、彼女は十分軍を恨んでいいはずだが、そうはしなかった。逆に、自分に向けられた理不尽な恐怖の救いを「ヨネちゃんだけは殺すな」という青年将校の一言にずっと見出し続け、戦後も日本軍を恨むことを回避して生きてきたのだと思う。そんな18歳の少女と23歳の青年の、限定された青春と抱え込んだ闇を思うと、やりきれない。

 と、ここまでが、私たちが映画制作までに分かっていたことだった。ところが、映画完成後も魚雷艇隊の本拠地だった運天港近辺の関係者を訪ねまわったり資料を調べたりするうち、意外な事実が分かった。「武下少尉が観音様になっている」「湧川で手厚く供養されている」というのだ。住民を殺害した日本軍将校を、今帰仁の住民らが祀って手を合わせる? たとえ海軍が勝手に慰霊碑を建てて拝むようなことがあったとしても、よりによって武下個人が祀られる、しかも地元に大事にされるというのは一体どういうことなのか。

息子の消息を求めて来沖した家族との交流

 早速その観音像を探した。それは「南海の塔」という名前で、今帰仁村湧川の集落の東の端に建てられていた。きちんと掃除もされている。向かって左側には台座を含めて高さ3メートル近くある、穏やかな表情の聖観音像。右手には地蔵菩薩像、その後ろには不動明王像。真ん中には納骨堂があり、その下の文字は消えかかっているが、「武下一」を筆頭に12人の名前が刻まれていた。噂は本当だった。これはいったいどういう経緯なのだろうか。

 当時のことに詳しい元区長の嘉陽宗敬さんを訪ねた。武下少尉の遺骨を拾ったのは1948年。湧川の人々が薪を取る山々に散乱している兵士の遺骨を放置はできないと、地域の青年団が数年かけて12体の遺骨を収集。丁重に埋葬したそうだ。そこに、武下少尉の父親である大分県日田市の材木商・武下秀吉さんが、はるばる息子の消息を求めて1960年に来沖。ここで手厚く葬られていると知って感激し、湧川の人々と交流が始まった。

 一人息子のために観音像を建立したいと願い出て、地域の氏名不詳の遺骨やほかの海軍兵士の分も合祀し、秀吉さんが費用を負担。1975年、「南海の塔」が完成した。武下少尉のご両親は、米軍統治時代から日本語の本に不自由していた湧川小学校に200冊の児童図書を寄贈した。それは「武下文庫」として今も利用されている。集会所や体育館の建設など、事あるごとに大分から寄付を送り、湧川に通い続けるご両親に、湧川の人々も心を寄せていったのだという。

 「今も毎年、区として慰霊祭はやっておりますのでね。湧川の住民であれば、だいたい40歳以上の方はみんな武下一さんのことはわかるんじゃないでしょうか。」

 父の秀吉さんは他界しているが、80歳の時に『武下一 回想録』を上梓していた。早速県立図書館から取り寄せてみると、巻頭には父・秀吉さんが一人息子として溺愛した一さんの、利発そうな少年時代の写真や、真っ白い海軍の制服に身を包んだ若き将校の笑顔があった。学業も並外れて優秀だった武下少尉は九州大学に進むが、海軍を志願して繰り上げ卒業、長崎県の川棚で第一期魚雷艇学生となる。そこでの教官が白石信治隊長だった。大声でよく笑う明るい性格で、歌や踊りが大好きで、沖縄に来てすぐに沖縄民謡を覚え、見よう見まねで踊り「おれはこの踊りが好きでのう」と、その魅力に目を輝かせていたという。

 そんな跡取り息子を失った家族の落胆については秀吉さんが書いている。一度は一さんの「戦死公報」が自宅に舞い込み、家族は地獄の底に突き落とされた。やがて遺骨が届き、肉親揃って蓋を開けてみるも木片しかなく、実感できずにいたところ「戦死は誤報」との通達が届いた。慰弔金を返納せよ、とのお達しで、秀吉さんは舞い上がって上京する。ところが海軍省に着いてみれば、それもまた手違いであることが知れて、放心した秀吉さんは支給された金一封をそのまま街頭の救済運動の寄付金に投じ、朗報を待つ大分の家族のもとに帰るに帰れなかったという顛末があったようだ。その後、愛息の骨の一片でいいから再会したいという思いはますます募り、ようやく来沖を果たした時の文章を引用する。

 〈漸く、願望なり、私達両親、親戚縁者、沖縄で戦死者の遺族三十名が同行し、島へ初めての一歩を踏み出すことが出来ました。一と先づ、名護市ホテル厚養館に落ち着き、経営主岸本金光氏ともお逢いでき、事の由を告げると、岸本氏は初対面とは思えない親しみを寄せてくださったのみか、図らずも、ご婦人が、また、戦死直前の息子たちの行動を知っていられるなど、主客共に偶然の驚きを喫した次第でした〉

 〈翌日(略)、それぞれジープに分乗の上、嵐山附近の激戦地帯に案内を戴き、そこに佇み、慰霊の一刻を過し得た事は、私の永く抱き続けていた、最大の念願であったのです。戦友達と枕を並べて眠る息子の霊と、ここに漸く触れ合う機が与えられたのです。私は、まさしく、若い勇士達の、鮮血を流し、命を絶ったであろうと思える拠点に、浄めの酒を振り蒔いたのですが、あとからこみあげてくる自分の涙も地に滲み込んでゆくのでした〉

悲嘆にくれる両親を前に、口をつぐんだ思い

 ご遺族の文章の後に残酷なことを書くようだが、この時一行を温かく迎えてくれた旅館厚養館の経営者の岸本氏は、実は戦争当時、白石隊隊長本人から住民虐殺の生々しい話を直に聞いた人物である。当時44歳、兵事主任だった岸本金光さんは地域誌にこう証言している。

「私は、昭和二十年五月家族と一緒に喜知留川の避難小屋にいた時、突然運天港に駐屯待機している海軍特攻魚雷隊長・白石大尉以下将校五、六名が、喜知留川で洗濯している私の従姉・岸本カナに、厚養館と岸本旅館の避難小屋に案内してくれと来た。御飯もとっていないので、何でも良いから食わしてくれといったので、準備してあった夕食を、すっかり彼等にくれた。おまけに泡盛も飲ませると、皆よろこんで満足そうであった。丁度そこに遊びに来ていた名護校の宮里国本先生と私等家族がいる前で、白石大尉が話すには、昨日照屋忠英校長を八重岳に行く途中で殺したという。国本先生、私の妻と三人で、あんな立派な校長先生で、国頭郡教職員会長の要職にあり、住民から尊敬されており、しかもご子息長男・二男は現在出征中である。どんなことがあって殺したのかと尋ねたたら、スパイの疑いで、十分な証拠も得ているといった。次は今帰仁の長田盛徳郵便局長と名護町屋部国民学校長・上原盛栄を殺す番になっていると話していた。日本の兵隊たちは、沖縄人にスパイの汚名をかぶせ、無垢な住民が数多く虐殺されている」
『語りつぐ戦争 第一集』名護市教育委員会

 海軍部隊の残虐行為に震え上がっていた金光さんも、戦後、息子を思って悲嘆にくれる両親を前にして、あえて住民被害を訴える気持ちにはならなかっただろう。この旅館はそのあとも海軍関係者が慰霊の旅で訪れる常宿になっていったので、ますます口をつぐんだに違いない。

 もう一人、ハンセン病施設愛楽園の職員だった儀部朝一さんは、戦争当時、白石隊の武下少尉に命を狙われていると知り憤慨したことを沖縄県史に証言している。しかし戦後30年を経て編集された『武下一 回顧録』の中の儀部さんの文章はだいぶ趣を異にしており、殺される覚悟で武下少尉と会った日のことを「思い出深い宴」のように書いている。

 〈武下中尉は、きわめて温厚誠実な方で、兵士への愛情あふれる青年将校という初印象を私は受けた。また何よりも頼もしく感じられたことは、あの激しい戦いと耐乏の長い山中生活にも関わらず日本軍将校としての威厳が服装や軍刀にハッキリ読み取られたことであった〉

 〈武下中尉は朧月夜の松林の中で私たちに厳粛な別れの挙手の礼をされたあと、兵と共に芋畑を小走りに横切り運天原を抜ける山道を上り詰めて一寸振り返り、白い手をかすかに振られたようであったが武下中尉と兵の姿は暗の中に融けてしまっていた〉

 海軍の残虐行為をよく知る人々の、このような気持ちの変化をどうみるべきなのだろうか。もちろん、「追悼本」という趣旨の中で、遺族を悲しませない書き方を選んだのは間違いない。本心ではないという見方も可能だろう。でも、私はそれだけではないような気がしている。

 身勝手な理屈で住民を殺害した海軍兵士は殺人者であり、その罪は、決して消えることはない。赦せるものでもない。でも、この島で展開されたあの悲劇は一体何だったのか。苦しみながらもそれぞれの立場からじっと戦争を見つめて、共に重ねてきた歳月が、加害や被害という輪郭を越えて、共通の、なにかあまり形容されてこなかった新たな価値観を生み出し、共有してきたように私には思えるのだ。

なぜ沖縄戦の「住民虐殺」にこだわるのか

 南海の塔まで案内してくださった元区長の嘉陽宗敬さんに、最後に一番重い質問を投げかけてみた。

 「あの、新聞にも載りましたけど、この武下さんは住民虐殺に、かかわっていたんですよね?」

 すると嘉陽さんは一瞬顔をこわばらせて、ああ、そのことをご存じなんですね、と苦笑して、「でも、じゃあそんな人であればもう慰霊祭を止めようじゃないか、という意見は誰からも出てこなかったんですよ」と言った。

 「あの記事は幸い、というか、秀吉さんが亡くなられた後だったんですが、妹さんたちはご存知だと思いますよ。それで、一時期疎遠になったかな、という時期もあったかもしれません。でもそういった反感的なものは地域からは出てこなかった。とにかく戦後、この湧川のためにご両親が一生懸命支援をしていただいたという事実が先に来ますね。湧川としては、あの記事の内容が大袈裟になったことはなかったんじゃないかと思いますね」

 私が沖縄戦の中でも住民虐殺にこだわる理由の一つに、この明らかな日本人同士の殺人事件を「戦死」とごちゃまぜに捉えてきた私たちの甘さを問いたい、という気持ちがある。そうでなければ、スパイの濡れ衣を着せられ、友軍に殺されたり、仲間に密告されてしまったり、無念の中で死んでいった被害者の命を一体だれが掬い取るのか、という怒りがある。「戦争中の不幸な出来事」というファイルに入れて蓋をしなければ前に進めなかった時期があったことは理解しよう。でも70年もの放置は罪だ。敵ではなく身内に殺された骸は「戦死にしないでくれ、こんな間違いを間違いだと認めてくれ、ちゃんと病巣を露わにしないから、また同じことが起きようとしているんじゃないのか?」と叫んでいる。私にはそう聞こえる。

 米子さんが大事に思っている武下少尉。本でご家族の思いを知り、さらに戦友たちの寄稿文を読めば、知力体力、人脈に恵まれた、誰からも愛される好青年であったことは間違いない。「沖縄の人間を虫けらのように殺した残虐な日本兵」というキャラクターに収まってくれていた方が、憎んで終わらせられてまだ楽だったかもしれない。まさにその、「楽」をさせてくれないところに、このエピソードの意味がある。武下少尉の人間性に触れ、好感を持ちそうになって混乱し、ご両親の悲しみに引き寄せられては胸が苦しくなる。

 実際にそうやって揺さぶられながら、「ではなぜこんな行為ができたのか?」と私たちがモヤモヤした思いに終止符を打ちたいと考えるその先に、答えがいくつも見えてくるのではないかと私は思う。簡単に憎悪できる対象を、悪役を作ってしまい、罪をなすり付ければ留飲は下がる。だがその先には行けない。俯瞰するチャンスを逃してしまう。武下少尉が予想に反して魅力的な青年将校であったからこそ、私たちはこんな青年をも鬼にするシステムについて、さあ、それならそこを暴いてみようじゃないか、と立ち上がることができるのだ。

『証言 沖縄スパイ戦史』と隠された残酷な物語

 その答えの一つは、私は軍を動かす基礎になった戦争のテキスト、いわゆる教令の中に見出せると思っている。その分析も含め、護郷隊の少年兵のインタビューをはじめ、この追加取材など映画の後にわかったことも交えて1年半かけて書き上げた『証言 沖縄スパイ戦史』(750ページ)が、2月17日に集英社新書から発売されることになった。武下少尉らの魚雷艇での活躍も、陸戦になってからの苦しみも、この文章の6倍のボリュームで書いた。あと2人の「虐殺した側の軍人」と共に周辺取材で立体的に浮き彫りにする内容になっているので、ぜひ「第5章 虐殺者の肖像」を読んでもらいたい。そして、武下少尉が最後まで持っていた一人の女性の写真についても。なぜ米子さんが冒頭のフレーズを繰り返すのか、そこに隠された残酷な物語についても。

 女性と言えば、武下少尉に限らず、沖縄戦の聞き取りをしていると必ず立ち現れてくるのが「女性スパイ」や「日本軍に協力しすぎた女」、逆に「アメリカに媚を売った女」など、証言とは異質な「男にとって都合のいい怪しい女たち」の話だ。動画の中にも証言があるように、米軍の資料で武下少尉が殺された経緯は明らかなのだが、その場所に案内したのが女性スパイだったという話がついて回る。また、沖縄の人々が敗戦と米軍統治を受け入れたころになっても、敗残兵の食事の世話などを続けながら山にいた女性たちや、また食べ物を運んだ女性などにも好奇の目や軽蔑が向けられたりする。日本軍が作戦の失敗を「女性スパイ」のせいにしたり、沖縄の男連中も戦前は日本軍にへつらい敗戦後は米軍に唯々諾々と従うしかなかったくせに、自分たちの不甲斐なさを「日本軍にしっぽを振った女性」「米軍に媚を売る女性」という存在にべったりなすりつけたりして、無責任なうわさ話が地域で盛んにされていた。

 軍隊に協力させられて日本軍のことをよく知っているはずの女性たちが戦後証言することを躊躇した背景を、私は今更ながらこういうことだったのかと知ることになった。もっと、沖縄戦の証言を聞き取る側に女性がいっぱいいて、ジェンダーの知見を活かせていたら、もっと早くバイアスのかかった情報を駆逐して、有用な情報が遺せたのではないか。運天港の海軍にずっと忠誠を尽くしてきたと言われている老女たちが、いつも慰霊碑をきれいにしているという話は前から聞いていたのに、実際に私が動き出した去年に、最後のお一人が他界していたことが分かった。後の祭りだった。

 しかし、こんなところにも「スパイ譚」がどう生まれ、誰にエネルギーを吹き込まれて大きくなり、毒をばらまいていくのかという大事なヒントがある。「スパイ視」や「内部虐殺」が生まれる泉は一人ひとりの心の闇の中にあって、決してどこかからやってくる悪魔が持ち込んだ悲劇ではないのである。

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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)