『女に聞け』宮尾節子さん
あまりに気分を落ち込ませるニュースばかりが流れてくるので、ぼくもちょっと鬱状態になっている。
そんな時は、本の中に逃げ込むのがいい。
知人の若い詩人から「これを読んでみてください」という手紙とともに、一冊の本が届いた。
何もしたくない昼下がり、読み始めたらページを繰る手が止まらなくなった。この本は多分、ぼくの机上から消えない本になる。すごいな。
『女に聞け』という詩集。著者は宮尾節子さん、響文社という札幌の出版社が版元で、定価1800円(+税)。
ぼくの好きな詩人に、茨木のり子さんがいる。ふっと茨木さんが浮かんだのは、ぼくが宮尾さんの詩から受けたイメージが、ちょっと似ていたからなのかもしれない。
拒絶する言葉の美しさと勁(つよ)さ
この詩集の冒頭に、「女に聞け」が置かれている。〈いのちを産む〉ことの痛みと恥と、そして喜び(愛)を歌った詩。
〈女〉であることの根源を〈おとこ〉に向けて撃ちつける。詩の末尾が、宣言する。
けんぽうきゅうじょうに、ゆびいっぽん
おとこが、ふれるな。やかましい!
平和のことは、おんなに聞け。
いいなあ。
この〈やかましい!〉が、ぼくの胸に突き刺さった。茨木のり子さんの『自分の感受性くらい』(花神社)を思い出したのだ。
駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
これである。ぼくの中で、〈ばかものよ〉が〈やかましい!〉と響き合ったのだ。感性が響き合う。ぼくに「詩」を語る資格などないのだが、撃ちつけてくる言葉の美しさと勁さに魅かれた。
双面の言葉
映画を観た。
『ダブルフェイス 秘めた女』というフランス映画。ソフィー・マルソーとモニカ・ベルッチという2大俳優がひとりの女を演じるという、不思議な映画。その中に、不気味な場面があった。
モニカ・ベルッチが、右目はマスカラやアイシャドウなどで念入りに化粧をしているが、左目は素のままという場面。片方の貌(かお)だけ見ると、化粧の顔も素の顔もそれぞれに美しい。だが、それを同時に見ると、ひどく不気味で目をそむけたくなる…。
言葉も同じか。
宮尾さんの「何を忘れたか」という詩篇。
詩が弱者の味方であるならば、
いやそれしかないだろう。
しかし、
詩が弱者の味方のみに
働くのであるならば。あの日
多くの帰らぬ者に
捧げられた戦争詩も、
弱者の味方の
役割を果たしている訳だ。
まっとうな、詩の役割を。
同じ美しさを身に纏いながら、言葉は美と残酷を同時に表現する。どちらも美しいのではあるけれど、同時にそれを見ると、不気味な恐ろしさにふるえてしまう。言葉の持つ恐ろしさ。
言葉は反転もする
宮尾さんの「花咲くまち」。きれいな白い花々が咲き誇るまちをうたう。
そこは花咲くまちでした
そこは花咲くまちでした
(略)
陽射しは明るく風は心地よく
そこは花咲くまちでしたひとっこ
ひとりいないのに
お茶碗お箸はおいたまま
庭には赤い三輪車――
(略)
高く伸びればだれかのすがたが
見えるかな
たくさん咲けばだれかたずねて
呉れるかな
――帰還困難区域にも
詩が、末尾で暗転する。優しい花々の光景をうたう言葉が、誰もいない、だれもいてはいけない、棄てられたまちをさまよう。
寒い寒い昼下がり。
ぼくは机に詩集をひろげている。これは希望の唄か、絶望の詩か。
「蝶の日」
娑婆の壁は相変わらずバカ、死ね、帰れの
ヘイトだらけだけど。
ナチスの
強制収容所のなかの壁はぎっしりの、
蝶の絵だらけだったという。すべてのことばよ、
すべての蝶の幼虫であれと願う。
言葉は何のために生まれてきたか。蝶の絵を超えられない言葉は、では何のために。いや、幼虫はいずれ孵化する。その日のために、か。
宮尾さんは、2014年1月に「明日戦争がはじまる」という詩をツイッターで発信した。それがSNS上で拡散し、多くのメディアにも取り上げられた。言葉で括りたくはないけれど「反戦詩」として、多くの人口に膾炙した。
まいにち
満員電車に乗って
人をひととも
思わなくなったインターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなったじゅんび
は
ばっちりだ戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる
この詩集、ほんとうにすべての人に読んでもらいたいと思います。
『女に聞け』(宮尾節子/響文社)です。
この本を送ってくれた若き詩人・村田活彦さんに、感謝。
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